どちらの手をとる?



 明日義勇君と会う、と竈門君……いや、炭治郎に告げたはずなのに、急遽義勇君の都合がつかなくなってしまい、結局約束を取り付けられたのは、あれから一か月も経った今日である。何度か互いの予定が合いかけたものの、義勇君が急遽日付をずらしてほしい、と申し出てくることが何度かあり、これだけの月日が経ってしまった。もちろん炭治郎と私は順調に交際を続けており、幸せな日々を送っている。ただし、私と彼はまだ一線を越えていない。もどかしい関係だ。炭治郎は、「義勇君との決着がついたら」と話した私との約束を律義に守ってくれている。そういった我慢強いところはさすが長男とでもいっておこう。
「すまない、待たせたな」
 もう秋の気配が漂い始めている金曜の夜。義勇君に誘われた行きつけだというイタリアンは洒落た雰囲気で、大人の男の知る人ぞ知る隠れ家的レストランといったところか。この前といい、義勇君は隠れ家レストランに精通しているのかもしれない。
「ううん、私も今来たところだよ」
 私は先に到着し、夜景の見える窓際の席でメニューをめくっていた。やがて五分も遅れていない義勇君が少しだけ慌てたように店に入ってきたものだから、らしくないなと少し苦笑する。相変わらずピシッとしたスーツ姿の彼はどんな時でも背筋が伸びている。
「今日、仕事は?」
 メニューをパタリと閉じた義勇君が落ち着いた声で言った。私は水を一口飲んで、義勇君を見る。やはりあらためてみると彼は人目を引く容姿をしているし、イケメンだ。ミステリアスなところも女性の興味をそそって仕方がないだろう。
「午後から。午前中はちょっと病院。定期的に産婦人科に行ってて」
「産婦人科?」
 作り物のような無表情が驚きの色を湛える。私は慌てて首を振って弁解した。
「あ、産婦人科って言っても、妊娠とかじゃないよ。ちょっとホルモン治療的な……ほらこの年になると色々とね」
――あれ?
 私は義勇君に自分が婦人科系の病気の疑いがあることを話しながら、頭の中で計算を始めた。そういえば今月まだ生理きてない。最後に来たの、いつだっけ? 少なくとも、前回義勇君と会ってからは確実に来ていないのはわかっている。あれ? あれ?
「お待たせしました」
 店員さんが優雅な仕草でボトルワインとグラスを二つ運んでくる。一つ目のグラスに赤ワインが注がれた時、私は叫んでいた。咄嗟といってもいい。
「あの!」
「……どうされましたか、お客様?」
「すみません。私、やっぱり、烏龍茶で。こちらのグラスは下げてください」
「かしこまりました」
 顔面蒼白でそう告げる私に、義勇君は眉を潜めた。
「大丈夫か? やはり本当に具合が」
「違うの! 最近かなり忙しくて……今月決算期だから備品の棚卸とか請求書の督促とかが大変で。午前中に休めたのも奇跡みたいなものだったの。そんなわけでストレスたまってるし、変にアルコール回っちゃいそうだから……義勇君は遠慮なく飲んでね。ごめんね」
「そうか」
 義勇君が納得したように頷いた時、私の烏龍茶が運ばれてきた。アンバランスな飲み物を掲げて、二人でグラスを合わせる。
「それにしても、本当に久しぶりだね」
「ああ。実は俺もこのところかなり忙しくしていた。なかなか都合がつかず、すまなかった」
「ううん、全然。でも、こんなに予定が合わないことなかったから、びっくりしちゃった」
「すまない」
「平気だってば」
 夜景を見ながら最近の出来事を報告し合っていると、前菜の盛り合わせが運ばれてくる。それを皮切りに次々と料理が運ばれてきて、私たちは「おいしいね」、「ああ」と言い合いながら、核心的な話は避けていた。このままじゃこの前のハンバーグの時と同じだ。
「義勇君が最近忙しいのは、やっぱり仕事関係?」
 コース料理も後半に差し掛かった頃、私はようやく口火を切った。義勇君はフォークを置いて息を吐く。
「ああ。実は、転勤することになった。その準備に追われている」
「そっか。銀行は異動早いもんね。今度はどこに?」
 義勇君は沈黙した。答えにくいことがあると、彼はこうして黙る。昔から知っている彼のこんなところは、大人になっても変わらない。だけど知らないような一面もあって、きっと彼にとっての私もそうなのだろう。
 私は窓の外を眺めて義勇君の言葉を待った。街頭が照らす街並み。無数の人が歩いていく。一人一人にそれぞれの人生やストーリーがあるのだろう。あの赤いワンピースの彼女にはどんな物語があるのだろうか。あちらの花束を持ったサラリーマンには?
「フランス」
「……何が?」
 唐突に義勇君が口を開く。フランス、と彼は言った。私は何を質問したんだっけ。その意味をようやく理解した私の口からは、驚くほどの小さな声しか出なかった。
「……フランスに、転勤なの……?」
「そうだ」
「え……ちょ、ちょっと待って。急すぎるよ。何でそんな……」
 私がナイフを取り落とすと、店員さんがすぐにやってきてスマートに交換してくれた。私は他人事のようにありがとうございます、と呟きながら呆然としていた。心臓が嫌な音を立てて暴れ始める。
義勇君が、フランスに? いつでもそばにいてくれた義勇君。私が困ったとき、泣いたときはいつだって黙って寄り添ってくれた大事な幼馴染。まだこの前のことだって謝れていないのに。こんなに突然、いなくなってしまうなんて。
――彼を失いたくない。
「年内には発つことになっている。今は引き継ぎで立て込んでいて……」
「行かなくていいよ、そんなの」
「名前……」
 思いの外力強い私の声に、義勇君が目を見開いた。
「義勇君は、フランスに行きたいの? そんな、突然海外なんて……文化も全然違うし、鮭大根も食べられなくなるんだよ。行かなくていいよ。旅行とかならいいけど、転勤なんて、年単位だろうし大変だよ」
「承知の上だ」
「でも」
 言葉が出なかった。私は義勇君の幼馴染だ。そう、どんなに長く一緒にいたところで、ただの幼馴染。彼女でも婚約者でも妻でもない。彼のキャリアや人生に口を出せる立場ではない。
「行かないでよ……」
 私は俯いてブルーのテーブルクロスを見つめた。徐々に視界が歪んでいく。最近泣いてばかりだなぁ。だめだ、こんなことじゃ。もっとしっかりしなきゃ。
「そんなに俺と離れがたいか」
 義勇君が冗談めかして少しだけ笑う。彼が冗談を言うなんて、珍しいこともあるものだと冷静に考えた。
「……うん」
「じゃあ、一緒に来るか」
「……え?」
 たっぷりの沈黙の後で真意を測りかねて顔を上げた私を、義勇君は優しい表情で見つめていた。そして、鞄から小箱を取り出すと、私の前に滑らせるように差し出す。
「俺と結婚して、一緒にフランスに行かないか」

 しばらく考えさせてほしい、と指輪を返して義勇君に告げると、彼はその返事を予想していたかのようにあっさりと頷いた。何事もなかったかのように義勇君はいつもの様子に戻って二人でデザートを食べると、私たちは早々に解散した。結局、私はこの前のことを謝ることも、年下の可愛い恋人ができたことも何一つ告げられないまま彼との食事を切り上げてしまったのだ。私は何をしに行ったのだろう。プロポーズを受けにいったとでもいうのだろうか。贅沢な話だ。別に、二人も三人も求めてない。たった一人が欲しい。私は花火大会の時にそう思った。そんなこと、あり得ないと思っていたから。だけどもしも二人も三人も王子様が現れたとしたら、シンデレラは誰の手を取っただろうか。
 土曜の午前。これから休みが始めるというのに私の気持ちは酷く重かった。手に持った妊娠検査薬を何度も見る。当たり前のことだけれど、陽性判定は覆らない。動揺しているはずなのに、脳内は妙に冷静だった。さすがに無駄に年を重ねてきたわけじゃない。いちいちこんなことで動揺……しない方がおかしいって。
 様々な可能性を考える。まず、相手は誰だ。これは間違いなく義勇君。炭治郎とはまだそういう関係ではない。あの時、中出しはしなかったけれど挿入は確かに生だった。可能性は十分にある。では、私はこれからどうする? これも間違いなく病院行きだ。妊娠検査薬の正確性は99%と聞く。限りなく可能性は低いけれど、もしかしたら残りの1%の方かもしれないし、当然のように99%の方かもしれない。もしも99%の方だったら? 私に考えられるのは二つの未来だった。
 堕胎。何事もなかったかのように炭治郎と付き合う。一生隠し通す。
 妊娠継続。義勇君と結婚する。フランスで出産。炭治郎と別れる。
「ちょっと待ってよ……」
 急に現実味を帯びてきた選択肢に私は思わず座り込む。身震いが起きるのはトイレの冷たい床のせいだけではないだろう。
 だめだ、まずは病院に……。震える指先で何度も操作を間違えながら、なんとか昨日も行った産婦人科に予約をとる。毎回、問診票の「妊娠の可能性はありません」の方に印をつけていたのにこの様だ。どうしよう。
 私は未だに、「義勇さんと話、できましたか?」という昨夜の恋人のメッセージに返事を送れないでいた。今頃熱心に剣道に励んでいるであろう炭治郎のことを思うと、胸が痛んで仕方がない。



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