09.自由恋愛主義



 大好きな人にはっきりと宣告されてしまえば、心が痛くないはずがない。息が苦しくなる。泣いちゃだめ。本当だったらこのまま騙し騙しやっていってそのまま何となく将来的に結婚っていう道もあったはずなのに、はっきりさせたくてここに乗り込んできたのは私だ。
「ちょっとごめんね」
 背を向けて部屋を出ようとした私を、イデアくんが引き留めた。きゅっと手を握られ、腕を引かれる。
「まだ話は終わってないけど」
「ごめん、今はちょっと聞けないから……後じゃだめかな」
「今じゃなきゃだめ。ちゃんと説明するから」
 イデアくんが立ち上がって私を後ろから抱き締めた。どう反応していいかわからなくて、俯いたまま動けなくなる。
「全然、悲しむような話じゃないし」
「なんで……イデアくんはそうかもしれないけど、私は婚約破棄なんて本当はしたくなかったのに。だってイデアくんのこと大好きで」
「知ってるって」
 私から書類をパッと取り上げ、イデアくんはそれを机に放った。
「一応サインはしたけど、こんな書類なんてどうでもいいよ。こっちおいで」
 イデアくんが私の腕を引いてベッドに向かった。そのままその上に座り、壁に背を預ける。私もこの世の終わりのような気持ちのまま、彼に跨って向かい合うようにして座った。私たちは今婚約者同士ではない。関係を解消したら元の関係性に戻るのが一般的だろうが、私たちの間には何の歴史も存在していなかった。知人だった事実も友人だった事実もない二人は一体何者なのだろう。
「これで僕たちは婚約を解消したわけだけど」
「ご、ごめん、なさい……泣いちゃって……」
 あらためての言葉にしゃくりあげて泣く。泣いちゃだめだと思うのに、これからの人生にイデアくんがいないなんて耐えられなかった。こんなに大好きなのに。だけどイデアくんが幸せになるなら私は身を引かなきゃ。
「泣くような話じゃないけど、泣くときは僕の前で泣いて。名前はどうしてかいつも僕の前で泣こうとしないから」
 だっていつも泣いてばかりの女の家になんて帰りたくないでしょう、と心の中で呟く。結婚するなら、なるべくいつも笑顔で家庭を回したいと思うから。
「僕の話、聞ける?」
「う……ん……ちゃんと、聞きます……」
 彼の腕がぎゅっと私を抱き締めて、また飼い主の手つきで髪を撫でた。泣くような話じゃないって言ってるのに、と呟いたイデアくんが苦笑してパーカーの袖で私の涙を拭う。
「僕のことが好き?」
 喉が詰まって声が出ない。代わりに何度も頷くことで返事をした。
「じゃあ今から僕の彼女になる?」
「……な、なん、で……どういう意味……?」
 号泣しながら問う。イデアくんが言わんとすることが全くわからなくて、首を傾げた。
「名前は婚約者だからって色々しようとするけど、僕はそういうのなしで名前と一緒にいたいよ。君は何かとシュラウド家のために、とか、婚約者として、とか言うけど、僕はそういうのどうでもいいので。むしろそういうの考えられると嫌なんだよね。僕のことより家のことを優先されてるみたいですし」
「だ、だって」
「そもそも名前は僕のこと本当に好きなの? 出会いだって覚えてないんじゃ、ただ刷り込みで僕のことを好きって思いこんでるだけかもしれないだろ。だからちゃんと名前の意思で僕を選んでほしいんだけど。婚約を破棄したのはそういうことだよ」
 わかった? とイデアくんが私に確認を取る。私は彼の言葉をゆっくり咀嚼して飲み込んだ。ぎこちなく頷く。
「考えたいなら時間あげるし、拙者はいつまででも待ちますので。一人になりたければ隣の部屋を使ってもいいし」
「時間なんて……いらない。私、イデアくんの彼女になる。イデアくんと、ずっと一緒にいる」
「……まさかの即答? 後悔したって知りませんぞ」
「後悔なんてしないっ……私をイデアくんの、彼女にしてください」
 未だ涙目でそう言うと、彼は少しだけ笑った。宥めるように私の背中を撫でてから、頬に手を添える。
「これからは好きって言ってもいい? 本当はずっと言いたかったんですが」
「あ……そのこと、覚えてなくてごめんね。その時はどうだったかわからないけど……今は普通に好きって言ってもらえたら嬉しいよ」
「今日からは今までの人生分、好きって言いますので。ウザいくらい言う。言いすぎて信用なくなるくらい言うし、聞きたくなくなるほど言うから」
 戸惑っている間にイデアくんの唇が私のそれと一瞬だけ重なる。
「婚約者としてのエッチはこの前で最後だったけど、恋人としてのエッチ、今からする?」
「えっ……それってどう違うの?」
 それには答えずにイデアくんがもう一度くちづけてくれた。すぐに幸せな息苦しさがやってくる。必死で呼吸を整えながらキスを受け入れていると、彼の手が服の裾から入り込み、優しく素肌を撫でられた。
「ひゃっ……イデアくん、あの、待って……」
「は? 待つわけないけど。こっちは一日、部屋で一人で寂しい思いしてたんですが。ちょっとは僕にも構ってよ」
「でも、この前したばっかりだし……」
「別にいいでしょ。名前は僕としたくないの? やっぱり拙者のことが好きというのは嘘だったわけですな。あー、悲しいっすわ」
「違うよ、ただ心の準備が……」
「今更緊張? ほんと名前は可愛いよね。ねぇ今日のパーティーはどうだった? 仕方なく数人だけは許可を出しましたが、まさかそれ以外とは喋ってないよね。誰が君を好きになるかわからないから本当は行かせたくなかったんだけど」
 饒舌に語りながらイデアくんが私の首や胸元にキスマークをつけていく。
「あ、監督生ちゃんと喋ったよ。ものすごい美少女だったしいい子だった。もし関わることがあっても好きになっちゃやだからね」
「名前以外好きになれる気がしないからそんな心配いらないし。気になるなら一生関わらないから安心しなよ」
 些細なことなのかもしれないけれど、イデアくんがいちいち「可愛い」とか「好き」とか言うだけで調子が狂う。彼の言う通り、これから人生分の愛を囁くとするのならばとても耐えられそうにないし、もう十分すぎるほど聞いたからこれ以上は大丈夫、と言いたい。愛の言葉で死んじゃいそう。
「今日はどの体位がいい? 希望があれば聞いてあげなくもないですが」
「えぇっ、ど、どの体位とか……イデアくんどうしちゃったの……」
「別にただ名前を甘やかしたいだけですけど。あー、もしかして乗り気じゃないのはお腹いっぱいだからとか? それなら仕方ないから後にしてあげてもいいですぞ。今日は激しくなる予定ですので」
「この前も激しかったよ……」
 まるで立場が逆転してしまったみたいに押され気味だ。しかし後の方がいいとの申し出はあっさりと受け入れられた。エッチもしたいけれど確かに食後だし、まだもう少しだけ恋人になったイデアくんと話をしていたい。イデアくんは私の身体に触ることは止めず、今までの分を取り戻すかのようにキスや抱擁などで愛情を示してくれた。いやらしい手つきではないけれど、なんだか無性にドキドキする。
「いつまでここにいる?」
「どうしよう。用件は済んだし、明日には帰ろうかな」
「……訂正。いつまでここにいられる?」
「寂しい?」
「うん」
 イデアくんが少しだけしゅんとなる。あれ、こんなに寂し気な表情する人だったっけ、と胸がいっぱいになって、思いっきり彼に抱き着いた。
「私も寂しいよ。でもあんまり一緒にいると、離れる時に余計寂しくなりそうなんだもん」
「今度は電話もメールもなるべくするよ。卒業後のことは名前も一緒に考えてくれる?」
「もちろんだよ」
 それって、どの辺に住むとかいつ結婚するとかそういうことなのかな、と今からワクワクしてくる。もちろん互いの家のことも考えなければいけないけれど、二人の未来を二人で考えていくというのはなんだか恋人っぽいな、と思った。
「もう気持ちは落ち着いた?」
 私の目を覗き込んでイデアくんが問う。もちろん、涙はとっくに止まっている。
「うん、大丈夫だよ」
「エッチしていい?」
「……ん、いいよ」
 そんなにしたかったんだ、と苦笑しながら恋人からの甘いくちづけを受け止める。今からする恋人同士のエッチとやらがどんなものかこの時の私はまだ知らないけれど、残りの滞在期間で嫌というほど思い知らされるのだった。








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