温かな体温に緩やかに癒され、みちるはまぶたに重みを感じた。
あくあはまだまだ元気だった。最も、もう時刻は日付を超えるところで、あくあは普段であればとうに寝入っていると言う。

「みちるちゃん、もう少しだけいいかな?」
「はい」
「訊きたいなぁと思って。みちるちゃんは、スイと一緒に生きたかった?」

みちるは逡巡する。
あくあが聞きたいのは、スイが既に去った事実や、スイの気持ちを横に置いた上でのみちるの気持ちという意味だろう。

「最初はそう思いました。でも、今はそうは思いません。スイさんにはスイさんの幸せがあるから」
「そっか」

あくあは一言そう言ったきり、視線を落とし黙り込んだ。

「あくあさん……?」
「愛姫も、愛姫の幸せを見つけたかな。それとも、ボクの中でずっと、ここから出してって叫んでるかな」

みちるはすぐには言葉を見つけられなかった。
愛姫はあくあの過去そのものだ。あくあの身体は現代のあくあのものだが、同一の人格である以上、あくあがあくあとして生きたいと望む限り、“愛姫”は自由になれないのだろうか。

「ボクは……ずっと昔、愛姫だったからわかる。愛姫は最愛の家族を、ジョットを失ったから、あくあを手放せないんだと思う」
「…………」
「愛姫は手に入れていたのに。欲しかった愛も、家族も。じゃあ次はボクの番じゃないの?」
「あくあさん……」
「愛姫が生きている限り、ボクはあくあを生きられないの?」

あくあの声は凛としてまっすぐだった。
今まで何度も何度も、自問自答してきたのだろう。嫌気が差すほどに。
だからあくあには、自分自身だけを見てくれる存在が必要なのだ。
どんなに混乱して取り乱しても、白蘭が抱きしめることで平静を取り戻したあくあの姿を、みちるは思い返す。

『愛姫はもういない』と、みちるには断言できない。
みちるの中から自発的に去ったスイとは違うから。あくあ自身が、自分の中に愛姫が生きていると言うなら、それは確かなのだろう。
愛姫を受け入れろという声は、きっとあくあには届かない。“あくあ”を否定したら、あくあはまた自分を見失うだろう。それは、みちるも望まない。

「わたしは……あくあさんに、幸せになってほしいって、思います」
「…………みちるちゃんは、“あくあ”でいいの?」
「はい」
「あなたの大切なスイの友達は、愛姫だよ」
「スイさんは、わたしとは違います。わたしのことは、わたしが決めます」
「ボクは、ボンゴレが嫌いだよ……」
「……仕方がないです。わたしだって……あくあさんの大切な人や場所を、好きとは言えないままです」

「ボクは……」
「はい」
「……ボクは、友達が欲しい……」

あくあの声が、涙に濡れて震えた。
あくあに弱々しい力で握られたままの手を、みちるはゆっくりと引き抜いた。
顔を上げたあくあをしっかりと見つめると、みちるは傍らの小さな肩をぎゅっと抱いた。

「わたしたち、もう友達です」

みちるの声も小さく震えた。
友達という単語に執着するあくあの姿を、この数時間の会話の中で、みちるはじっと見つめてきた。
みちるの考える“友達”の関係性と、あくあのそれでは、多少の乖離があるかもしれない。

それでももう、みちるは放ってはおけなかった。



あくあは少し泣いた。
みちるの手を強く握りしめながら、声を押し殺して泣いた。
嗚咽が徐々に小さくなり、手の力が緩んでくると、やがて泣き声は小さな寝息に変わった。

みちるはそっと自らの手を引くと、枕を手に取り、あくあの頭の下に挿し込んでやった。
電灯を落とし、あくあの隣で、みちるも静かに掛布の下に潜り込む。

時刻はとうに深夜。
あくあが寝入った今、みちるも眠りにつかねばならない。
だが、みちるの心臓は何時まで経っても落ち着く気配がなかった。

――あくあさんが、ボンゴレを憎んでいる。

そのたった一つの、彼女自身の口から語られた真実が、みちるの不安を煽って消えない。
あくあの未来を阻んでいるのはボンゴレではなく愛姫かもしれない。
だが、あくあは愛姫を憎んではいない。幸せだった過去の彼女自身を、本当の意味で憎むことはできないはずだ。
愛姫の存在が、あくあと白蘭の出会いに繋がったのならば、それはみちるとスイの因果と同じだ。
みちるはスイの存在なくしては、ボンゴレと関わるきっかけすらなかったのだから。

みちるが恐ろしいのはあくあではなく、あくあを愛しているという白蘭である。

(白蘭さんは、ボンゴレリングを欲しがっているんだって、正くんは言ってた……)

白蘭の考えなど、みちるは知る由もない。
世界征服もボンゴレ狩りも、みちるには何一つとして共感できない。
自分との共通項があるとしたら、たった一つ。みちるが今しがたあくあと結んだ絆だ。

(……もしも……まさか、あくあさんのために、ボンゴレ狩りを……始めた……?)

呼吸が浅くなり、みちるは慌てて右手を口に押し当てた。パシン、と乾いた音が鳴る。
手が震え、指先が冷たくなる。みちるは両手を握り合わせながら、息を深く吸い込んだ。
あくあを起こさぬよう、ゆっくりゆっくりと身体の方向を変える。あくあに背を向け、口元にクッションを押し付けながら、浅くなる呼吸を整えようとした。
じわじわと、固くつむったまぶたの下に熱い涙が満ちる。

――ああ。わたしはこんな場所で、たった一人で、何をしているんだろう。

何も間違えなければよかった。
じゃあ、自分で決めなければよかった?
例えば、正一の「アジトまで送る」という言葉に素直に甘えていたら、こんなことにはならなかった?
否、そうではない。みちるがここであくあと会わなかったとしても、あくあの憎しみは消えはしない。
その真実と同様に、あくあはみちると出会って、友達になったとしても尚、ボンゴレを嫌いだという気持ちを変えることはない。

(あくあさんが変わらないように、わたしだってボンゴレを大好きなのは変わらない。自分に嘘はついていない、後悔はない、だけど、だけど!こんなに苦しむ必要はあるの?なんの罰なの?どうして、わたしは、わたしたちは)

みちるは京子やハルより前から、ボンゴレファミリーだった。
一足早く輪の中にいたから、多くのことを知って傷ついた。その思い出もまるごと受け止めてきた。隣に仲間がいてくれたから。

あくあが暗い部屋で、たった一人きりで、自分自身を見失って苦しんでいた姿を思い出す。
今、身体を丸めて、自分自身を手放さぬように必死にき抱く、みちる自身の姿。あくあと同じだと、みちるは直感していた。

(愛姫さん、あくあさん。……みんな、大切なものを守りたいだけ。それなのに、なんで……!)

これから始まる“チョイス”は、お互いの持つリングを賭けた戦いだ。
白蘭はボンゴレリングを狙っている。
誘拐されたみちるもまた、あくあが欲した存在だ。みちるも“狙われた”対象だ。

大切なものを守りたいだけ。
ではその大切なものが、相手の持ち物だったら?
みちるはようやく考え至る。今まさに目の前に迫る、戦いの理由。
それでも、理解したところで、到底受け入れることはできない。

今のみちるは盗品で、賞品だ。
白蘭やあくあがどう弁明したところで、みちるに力がない以上、それは変わらない。

(……怖い。……みんながいないのは怖い。でも、殺されるわけじゃない。自分を見失うな、絶対に……!)

激しく胸を叩く心臓の音を聞きながら、冷たい身体を抱えながら、やがてみちるは暗闇に落ちるように、ゆっくりと眠りについた。

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