あくあは温かいミルクを淹れてくれた。
ベッドのサイドテーブルに二人分のマグが並んで置かれ、ほこほこと湯気が立ちのぼっている。
みちるはマグを手に取り一口ホットミルクを飲んだ。熱すぎずぬるすぎず、心地の良い温度が喉を伝ってゆく。

「白蘭さんはね、最初は興味本位でボクに近付いてきたと思う。愛姫の情報を聞きつけて」

みちるは顔を上げてあくあの横顔を見つめた。
白蘭はその頃からボンゴレリングを狙っていたのだろうか。
その頃とはいつのことか。話の展開によっては雲行きが怪しくなる。みちるは慎重に言葉を選んだ。

「お二人は、いつ頃出会ったんですか?」
「八年くらい前。ボクはまだボンゴレにいたよ。嫌だったけど、逃げ出す力はなかったから」
「…………」
「白蘭さんはボクの手を取って言ったよ。『あくあチャン、僕と一緒に来る?』って。ボクはその手を握り返した。最初はそれだけ」

あくあは自身の手を見つめる。白くて小さな手のひらだった。

「あくあさんはその時、どこでどんな生活を……?」
「イタリアのボンゴレの本拠地の近くで、ごく普通の学生生活。九代目のボンゴレボスとその守護者は、ボクのことを知ってると思うよ。直接話したことはないけどね」
「あくあさんのことを?」
「うん。愛姫の生まれ変わりってことも。でもボンゴレの中じゃ、千崎スイの話の方が有名だよ」

だからスクアーロやリボーンはスイの存在を知っていたのか、とみちるは秘かに得心した。
「初代ボンゴレファミリーはすごく人気者だし、その時代のことはみんな知りたがるんだ」とあくあは言う。どこか食傷気味な様子で。
みちるは、あくあがこれまで如何に“愛姫”として生きることを求められてきたか、その顔つきから察することができる気がした。

「みちるちゃんも、もしスイの生まれ変わりだったら、きっと追い回されてうんざりするよ」
「…………、わたしも、スイさんの不思議な能力をもっていた時期があります。少しの期間だけ」
「超直感?それは大変だったでしょう」
「……はい……」

大変だった。それは間違いない。
敵方に利用価値があると判断されたのは、当時のみちるも同じだ。今のあくあと同様に。
だが、みちるはスイと離れることをいっとき拒んだ。一緒に生きていけるものなら、それが良いと望んだ。
みちるとスイが完全な別人格だからそう思えたのかもしれない。結果として、スイは自分自身の人生を尊び、みちるにも自分自身を生きろと叱咤し消えてしまった。
あくあにとって、愛姫はそういう存在ではない。地続きの同一人物の記憶は、あくあに何を与えたのだろう。

「とにかく、その生活から外へ連れ出してくれたのが白蘭さん。ボクは白蘭さんをどんどん好きになったよ」
「……」
「白蘭さんは優しかった。ボク自身を見て、あくあとして扱ってくれた。少し経ったら、白蘭さんもボクを好きって言ってくれたんだ」

みちるは無言のままあくあの横顔を見つめた。あくあがマグカップを手に、笑顔でみちるの顔を見つめ返す。

「白蘭さんの気持ちを疑ってる?」
「えっ……いいえ、そんなことは」
「ボクには白蘭さんしかいなかった。だけど白蘭さんはそうじゃない。みちるちゃんはボクを心配してくれてるんでしょ?わかるよ」
「…………」
「大丈夫。ボクたちはちゃんと恋人だよ!……なんて、みちるちゃんにとっては何の得もないけど」
「そんなことは……あくあさんが幸せなら、それは嬉しいことですから……」
「ごめんね、ボクの惚気話なんてどうでもいいの!それよりみちるちゃんの話!」
「ええっ……」

あくあは勢いよく手の中のマグカップを傾けて中身を飲み干した。
音を立ててサイドテーブルにカップを置くと、代わりにクッションを胸に抱いてみちるに詰め寄る。

「みちるちゃんは、傷ついてほしくない人はいる?」
「……傷ついてほしくない人?」
「“好き”がわからないなら、考えてみようよ」

みちるはまだ中身の入ったままのカップを置き、視線を重ね合わせた両手の甲に落とす。
傷ついてほしくない人。身体の傷であれば、今戦っている大勢の仲間たちだと思った。
では心は?みちるはそっと目を伏せた。真っ先に浮かんだのは、正一の笑顔だった。

「……好きだった、って言える人がいます。その人の顔が、浮かびました」
「そっか。その人は、今も会える人?」

あくあの問いに応えるべく、みちるは顔を上げた。一つ頷く。

「つい最近、久しぶりに再会したんです。嬉しかった」
「その人はどんな人?」
「……すごく、優しい人です」

あくあは笑みをますます深め、「どんなふうに?」と重ねて問いかける。

「わたしが好きだったものを覚えていてくれました。その人にとっては十四年も前のことなのに」
「うん」
「それから……他人思いで、我慢強くて、努力家です。必ず、幸せになってほしい人……です」
「そうなんだ。その人とは、これから先も一緒にいるの?」

みちるは首を横に振る。穏やかに微笑みながら。

「これからもずっと、思い出を大切にします。……また会えるって信じて」
「みちるちゃんは、会いたい人には会いに行くんでしょ?」
「……、そうですね。……うん。大切な友達だから、きっと、そうします」

みちるはそう言葉にして、ふと自覚に至る。
“好きだった人”として過去の恋愛になった瞬間、相手は果たして友達になるのだろうか。
正一はみちるの気持ちを知らないはずだ。みちるが告げていないのだから。
二人は友達同士だから、みちるがそのままが良いと望めば、友達同士なのだろうか。

「みちるちゃん?黙っちゃって、どうかした?」

横からかけられた明るい声に、みちるははっと我に返る。

「あっ、ごめんなさい……大丈夫です」
「ふふ」

あくあが上品に微笑んだ。
その直後、ちょっぴり崩れた満面の笑顔で首を傾げる。まだまだ聞きたいことがある、そう顔に書いてある。

「じゃあ、この先も一緒に生きていく人は、どんな人かな」
「この先……?」
「隠したって駄目だよ。雨と嵐でしょ!」
「え!いっ、いいえっ!?」
「そりゃあ、好きな人なら二人ってわけにはいかないだろうけど……」
「いや、そうじゃなくて……!」

あくあがにんまりと楽しそうに笑う。笑顔のバリエーションが豊富な人だとみちるは思った。
あくあはみちるが話し出すのを急かすことはなかった。みちるはバクバクと高鳴る心臓を呼吸で落ち着かせながら、たどたどしく言葉を紡ぎ始める。

「……二人とも、ずっとわたしを見ていてくれました。でも、最初はきっと違った。……山本くんはスイさんを忘れなかったし、獄寺くんはわたしだけで良いって言ってくれました」

雨と嵐。ボンゴレファミリーのボスの守護者を差す記号。
あくあはそう呼ぶが、みちるにとってはクラスメイトである山本武と獄寺隼人のことだ。

「わたしはずっと自分の居場所が欲しかった。スイさんがいるから、わたしの居場所はないと思いました。だけどスイさんが言ったんです、一緒にはいられないって」
「それはスイが、過去の人間だからだよね」
「はい。だから、今のわたしの心は、わたしが決めることができるんです。……きっと」

みちるの隣で、あくあがゆっくりと頷いた。

「……それに、わたしを好きだと言ってくれた人もいるんです。今でも夢を見ているみたいだけど」

雲雀のことだった。みちるが到底追いつけない程遥か高みにいるのに、いつだって気ままにみちるの隣にやってくる、孤高の浮雲。
みちるが自ら、誰か一人の手を取る日が――選択の瞬間が迫っている。
雲雀が既にスタートを切ったのだから、この予感はきっと当たっている。何よりも、みちる自身が一番感じている。このままでは済まないと。

「だけど……わたしなんかが、みんなの隣に立っていいって、まだ思えないんです」

みちるは手のひらをぎゅっと握りしめる。
何も掴めない手だと思った。白くて小さい、不安に震える冷たい手。

「だったら、手を引いてくれる人が、みちるちゃんの前に現れるよ。絶対に」
「え……?」
「最初は引っ張られるだけでもいい。背中しか見えなくても、いつの間にかちゃんと隣に並んでる。大丈夫だよ」

あくあがみちるの方を向き、手を差し伸べた。
みちるはそっとその手に自分の手を重ねた。あくあの温かい体温がじわりと沁み込んでくる。

みちるの心臓は、再び落ち着きを取り戻していた。

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