じゃあ灯りを消すよ、と正一が言った。
二つ並んだベッドの掛布の下に潜り込み、みちるは頷きながら、にこにこと笑顔で正一の顔を見上げた。
正一も笑みを返しながら、内心は複雑だった。

みちるが笑顔で、楽しそうで何よりだと思う。
今が平和で、それがこれからも続いていくような。みちるの笑顔は、その根拠のない証明のひとかけらであるような気がした。
それはそれで良い。
だが、入江正一という一人の男は、どうしても、みちるの危機感のない姿に向き合う度に、心がざわつくのだった。

「みちるちゃんは、好きな男の子はいないの?」

だからその質問は、意図せず意地の悪い意味を含んでしまったかもしれない。
みちるの「えっ!?」という上擦った声を聞き届けてやっと、正一は自らの質問に些か後悔した。

「あ!ごめん、デリカシーのないことを聞いて……!答えなくて良いんだ」

正一はわかりやすく慌てながら、取り繕うようにそんなことを言った。
そして、「その……、嫌でしょ、いくら十年後の姿といっても……。好きな人がいたら特に……と思って」と言葉を次々に付け足しながら、そもそもこのタイミングで振る話題ではない、自分は彼女の監督者として早く就寝させるべきなのに、などと考えていた。
そんな正一の心中など知る由もないみちるは、呑気にくすくすと笑った。

「何も嫌じゃないよ。けど、うーん、……なんて答えたら良いのかな」
「まともに取り合わなくていいよ、みちるちゃん。ほら、電気消したよ。明日のために早く寝ないと」

正一がベッドのヘッドボードに備え付けられた灯りを落とし、薄ぼんやりと、双方の顔が暗闇に浮かんだ。
みちるは返答に窮し、ごろりと顔を天井に向けた。丸い電球の輪郭が薄っすらと視界の中央に映る。
「うんそうだね、おやすみ」と言えば良いことはわかっていた。
だが、みちるはこの時間と空間が惜しかった。
いつ変わるとも知れない戦時下の状況。思い返せば自分は一度も、飢えも痛みも、差し迫った身の危険も、恐怖すら感じていない。
思い当たるのは、不安や寂しさ、自分自身の力不足。それもほんの束の間のことで、傍にいる誰かが必ず慰めてくれた。
それを忘れてはいけない。みちるはずっと、自分にそう言い聞かせていた。
こんな幸せは奇跡だ。
だから応えたかった。
正一の意図の読めない質問も、当人からしたら重要なのかもしれない。
だからこそ、一つひとつに真剣に向き合いたい。正一と一緒にいる今は、奇跡の産物かもしれないから。

「正くんは、……好きな人いる?」

静寂の暗闇の中に、少女の声が小さく落ちた。
正一は「え」と反射的に声を零した。みちるは可笑しかった。

「……仕返しかい?」
「ううん。質問の答えだよ。わたしにはまだよくわからないから、ヒントが欲しくて」
「……」
「他の人とは違うって感じる人は、いるよ。でもそれが好きって気持ちなのかわからなくて、……最近よく考えるよ」
「……答えは出そう?」

みちるは暗闇の中でかぶりを振った。衣擦れの音が正一に否定の意図を伝える。

「ううん。じっくり考える余裕がなくて。だからね、聞いてみたかった。正くんは知ってるかなって……」

みちるの声は純粋だった。そして真摯だった。
正一も決して軽い気持ちで、先の質問を口にしたわけではない。衝動的ではあったが、ずっとぶつけてみたかった。
真剣に向き合いたいという気持ちは、正一も同じだった。

「……好きな人か。そうだな……、いる、という答えのほうが適切かな」
「そうなんだ……」
「うん。でも長く会っていないんだ。彼女が今どんな人なのか、よく知らない」

みちるは目をまるくした。正一はそれに気付かない。
「それでも好きなの?」と尋ねるみちるに、正一は暗闇の中で頷いた。みちるには、その動作は見えなかったが。

「他の人に目移りする暇はなかった。だけど忘れることもなかった。彼女はきっと僕のことなんてもう忘れて、幸せになっていると思うよ」
「そんなに時間が経ったの?……そんなに素敵な人なの?」
「うん」

正一のいらえがあまりにもまっすぐで、みちるは心臓がどきりとした。

「どんな人?」

どうしてわたしは緊張しているのだろう。みちるは咄嗟にそんなことを思った。相手が正一だからだろうか。
踏み込みすぎだろうかとみちるが一瞬不安に思うも、正一は少々弾んだ声で答えた。

「怖がりで泣き虫で、だけどすごく頑張り屋で、優しい女の子」

正一が誰かに恋をしている。
みちるは心臓の高鳴りを抑える術を知らなかった。
相手はきっと素敵な人なのだろう、そう思った。昔も、そして成長した今も、正一は優しい。みちるは改めて思うのだ、彼はすごい。尊敬すると。

「……、もしまた会えたら、何を話したい?」
「え?……うーん、そうだな。彼女が幸せな顔をしていたら、それで良いかな。今更、何かを伝えられなくても」
「…………」

――それが好きって気持ちなのかな。
みちるの呟きに、正一は寝台の中から視線を向けた。

「僕にとってはそうだけど、人によって違うよ、たぶん。……僕も、その子が相手じゃなかったら、違っていたと思う」
「……、違うことがあるの?同じ正くんの気持ちでも」
「そうだね。好きになってから、もうだいぶ時間が経ったから。……もし次に会った時に彼女が幸せそうな顔をしていなかったら、僕はきっと声をかけるよ。どうしたの?僕になにか出来ることはある?って」
「……幸せになってほしいって思うんだね、正くんは」

たとえ、その隣――好きな人の隣――にいるのが自分じゃないとしても。
正一らしい。みちるはそう思った。
たとえ自分の幸せを置き去りにしても、正一は迷わずにそう言うのだ。とても優しい人だから。

「みちるちゃん。さ、寝よう」
「……うん。おやすみなさい」
「おやすみ」

正一の声が、落ち着いていてとても心地が良かった。
きっとこれが彼の愛情の一端なのだと、みちるはわけもなく感じた。
多くの人の幸せを願う彼の特別な存在。彼の声が紡ぐ“好きな女の子”。
幼いみちるはこの夜、やはり好きという感情の輪郭を掴み切れずにいた。

正くんは、欲張ったりしないの?
好きな人の“好き”を、自分にだけ向けて欲しいって思わない?

みちるには正一に聞きたいことがまだたくさんあった。
だが、それは夜のまどろみの奈落にゆるりゆるりと落ちていった。

 | 

≪back
- ナノ -