「お電話いただいた入江様ですね、どうぞ」

ホテル入口のスタッフに声をかけられ、正一はフロントデスクへと歩を進めた。
二人はそこで待っていてと制され、みちるとスパナは数歩離れた場所に立ち止まった。

時刻は午後十時。
観光シーズンからややずれているため、シティホテル周辺は賑わいはなく静かなものだ。
しかし駅が近い立地のため、ルームキーを手に赤い顔のカップルが複数人、ホテルの自動ドアをくぐり抜けて正一の背後を通り抜けていく。
並盛駅周辺の居酒屋は、この時間も元気に営業中である。

やがて正一に手招きされ、みちるとスパナは彼の隣に並んだ。
宿泊台帳に名前を記入し終えると、若い女性スタッフが施設の説明を始めた。
みちるがうんうんと頷きながら聞くので、スタッフもまたみちるの顔をにこやかに見つめ返した。

「ホテルの中にコンビニがあるな。部屋に上がる前に食事を買いたい」

スタッフの丁寧な説明が終わった瞬間、スパナが待ちかねた様子で口を開いた。
正一はそうだね、と同意すると、隣のみちるの顔を見下ろして言った。

「お腹すいてる?みちるちゃん」

みちるは一つ頷いて見せた。

「じゃあ、二人ともカゴに好きなものを入れて。明日の朝食はレストランで摂るからね」
「あ。……えーと。着替えを買いたいから、わたしは別で支払うね」

みちるが言った。出だしは少々言い淀んだが、意を決したように言葉を続ける。
正一は一瞬目をまるくしたが、すぐに思い至ったように「あぁ、そうか。そうだったね」と答えた。

「じゃあ、こっちの一枚はみちるちゃんに持っていてもらおうかな」
「うん?……お部屋の鍵?」
「そう。レジの人にこれを見せて、部屋付けって伝えて。そうすればチェックアウトの時にまとめて支払いになるから」

正一がみちるに渡したのはカードキーだった。表面に、今夜泊まる部屋の番号が刻印されている。

「でも、払ってもらうのは申し訳ないし……」
「大丈夫。後でボンゴレに請求するから」

みちるはそれを聞いて小さく笑った。正一が応えるように微笑む。

「じゃあ、買い物が終わったらさっきの入口で待ち合わせしよう」
「うん。ありがとう」
「ううん。別に僕は何もしてないよ」

正一はそう言うと、スパナの肩を叩いて飲み物の冷蔵庫に向かっていった。
みちるはその背中を思わずじっと見つめた。大きい、知らない大人の男性のそれだった。

『別に僕は何もしてないよ』

ふと、幼い正一の声がみちるの中で反響して、大人の彼の声と重なって消える。
小学校二年生の時、一緒に黒曜ランドに遊びに行った。あの日の彼も優しかった。
その変わらぬ事実を、みちるは不意に思い出した。
心臓が高鳴った。あの日もそうだっただろうか。みちるにはもう思い出せない。



お待たせしました!とみちるがコンビニ入口に駆けていくと、正一が手を振って応えた。

「大丈夫だよ。行こうか」
「部屋は何階だ?」
「六階だね」

四基あるエレベーターのうち、一基がすぐに到着した。
部屋のドアノブ付近にカードキーをかざすと、緑色のランプが点灯した。
そのままドアを押し開けると、短い廊下の先が二手に分かれている。その一方の部屋にスパナはさっさと歩を進めた。
正一が後に続こうとしたが、スパナは素早く振り返ると「正一はそっちだ」と正一の後方を指差す。
ちょうどその指先が自分に向いていると勘違いしたみちるは「えっ?」と間抜けな声を漏らした。

三人が宿泊するのは四台のベッドがある部屋だった。
元々、一時間前に急きょ予約となった事情もある。それでも四人用の部屋が空いていたのは僥倖だった。
ベッドは二台ずつ、二部屋に分かれて置かれていた。
部屋に入ってそれを認識した瞬間、スパナは一人で淡々と結論を出した。

「正一とみちるはそっち。ウチはこっち」
「え……僕らの意見は……?」
「みちるは一人が嫌なんだろ?それに、ウチよりは正一と一緒の方が良いだろ。じゃあ部屋割りは決まりだ」
「……スパナは、時々そういう強引なところがあるよね……」
「そういうおまえたちは押しに弱いよな。異論は?みちる」
「……えっ、あ……ありがたいです……」

ありがたがられても困る。だが、そう言われては強く否定する理由もなくなる。
正一は頭を抱えそうになった手をそのまま頭の後ろに回した。
自己肯定感の低いみちるに、これ以上要らぬ不安を与えるのは避けたい。

「それより、早く温泉に行こう」

目をきらきらと輝かせるスパナの顔を見上げ、みちると正一は同時に苦笑いを浮かべた。



* * *



温泉から先に戻ってきたのはみちるだった。
すっきりした表情のスパナと、少々疲れた様子の正一を室内で出迎えて、みちるは首を傾げた。

「おかえりなさい。どうでした?」
「気持ちよかった……」
「聞いてよみちるちゃん。スパナ、温泉を気に入って全然出てこないんだよ」

僕だけ外で待たされたよ、と文句を垂れる正一と、一緒に入っていればよかっただろうと事も無げに言うスパナ。

「僕をゆでだこにするつもり?」
「?ウチは平気だが……」
「スパナさん、ふらつきませんか?お水飲んでくださいね」
「……温泉は身体に良いんだろう?」

みちるがグラスに水を入れて運んでくると、スパナはそれを受け取りながら目をまるくした。

「何事にも限度ってものがあるんだよ、スパナ」
「そうか。覚えておく」
「全く、本当にわかってるのかな……」

スパナは水を一気に飲み干すと、空のグラスをそのままみちるの手の中に戻した。

「あ、はい。もう一杯持ってきますね」
「頼む」
「こら、“頼む”じゃないよ」

正一とスパナのやり取りを見て、みちるは声を出して笑った。
正一に気を抜いて接する相手がいることに、心の底から安堵した。



* * *



コンビニで購入したおにぎりとサンドイッチ、弁当をテーブルに広げ、備え付けのマグカップに緑茶のティーバッグを入れてセットする。
直後に電気ケトルが音を鳴らした。みちるがケトルを手に取る。

「ありがとう」
「ううん、熱いから気を付けて」

音を立てて湯を注ぐ姿を正一はじっと見つめていた。
その視線に気付くと、みちるは顔を上げた。

「嫌じゃない?僕と同じ部屋なんて……」
「嫌なわけないよ。すごく心強い」

まぁそう言うだろうな、と正一はそのままみちるの顔に視線を留めた。
みちるは電気ケトルを元の位置に戻すと、正一の斜め前の椅子に腰を下ろした。肩を竦めて見せる。

「……わたしが、二人に無理を言って一緒に泊まってもらったでしょう。むしろわたしが謝らなくちゃ。ごめんなさい」
「あ……いや、そういう意味じゃ……」
「ううん。それに、正くんは同じ部屋に泊まったことを内緒にしてって言ったよ。だから、それで手打ちにして?」
「そういえばそうだったね。じゃあ、僕らは二部屋取ったってことで、口裏を合わせよう」
「へへ。なんだか悪いことをしてるみたい」

みちるがレジ袋から取り出した割り箸を正一が受け取る。
サンドイッチを開封するみちるを見て、正一は悪戯っ子のように笑って言った。

「まぁ……こんな時間にきみみたいな若い子が起きててご飯を食べてるのは、悪いことかもしれないね」
「ええ……それは正くんも共犯でしょ?」
「僕は大人」
「24歳だって若いよ」
「……こんなやり取り、前もした気がする」

みちるが笑う。「うん。正くんが自分のこと責めたら怒るって、わたしが言った」
正一が眉尻を下げて笑った。

「今の会話、責めてはいないと思うけどなぁ……」
「自分のこと卑下してたよ。何度も」
「……そういう性格なんだよ、僕」
「うん、わたしもそうだから、わかる気がする。でも正くんはすごい人だよ。わたしとは違う」
「…………」
「ご飯食べよう?冷めちゃうよ」

みちるは話しながらずっと笑っていた。正一に向き合って。
正一はみちるの表情を全て本物と信じていた。
素直で、本心からの感情を表出する女の子だと、正一は知っているからだ。

だが今だけは、嘘ならば良いと思った。
みちるが正一を深く想うことを、正一自身が信じるわけにはいかない。そう思った。

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