正一の眼前のモニターに映るビデオチャットアプリが、通話の受信を伝える。
時刻は午後九時。発信元は正一の予想通り、ボンゴレアジトだった。

「はい」
『入江さん、こんばんは。あの、みちる姉はまだそこにいますか?』
「フゥ太くん。うん、いるよ」

モニターの向こうで正一の返事を聞いたフゥ太は、ほっとしたように小さく息を吐いた。

「すまない、本来はこちらから連絡すべきだったのに」

正一の言葉に「いえ、そんな」と言葉を返すフゥ太。
その声に被せるように「全くだ」とチャーミングな声音が横槍を入れた。

「はは……リボーンさんは手厳しいね」
『みちるはまだ子どもだからな。そんでもっておまえは大人だろ、正一』
「返す言葉もないよ……」

正一が肩を竦める。
早く連絡を入れなければとは考えていた。こんな場所にいつまでも少女を放置しておくのは忍びない。その思いに嘘はない。
だが、みちるの気持ちの良さそうな寝顔を見てからというもの、少しでもこの時間を長引かせたいと考えてしまった。
これは正一のごく個人的な感情でしかない。頭ではきちんと理解していた。

『おまえもみちるを独り占めしてーのか、このロリコン』
「え……!?」
『何言ってるの、リボーン!……あの入江さん、みちる姉は今何をしてます?』

リボーンの突然の罵りに、正一の心臓が跳ねた。
心の準備がなかったこともあるが、一瞬、心を読まれたのかと錯覚した。
フゥ太が良心からリボーンを咎めると、当の本人は相変わらず読めない表情を浮かべている。正一の心臓はしばらく早鐘を打ち続けていた。……が、それはそれとして。

「あ、みちるちゃん?えーと、……寝てるよ」
『寝てる?そこでですか?』
「うん、すぐそこで」

信じられないといった反応をしたフゥ太の気持ちは、正一にも理解ができる。
正一の背後には、暗くて冷たい谷底以外には何もない空間が広がっている。白い装置が放つ明かりが照らすのは正一の身体の下の瓦礫だけだ。
正一はパソコンのモニターを手に持つと、カメラの向きをみちるのいる方向に向けた。これでカメラの向こう側にも、小さな身体が寝転がっていることくらいは視認できるはずだと考えてのことだった。
フゥ太は目をまるくしてモニターを見つめると、やがてふっと息を吐いて笑った。

『なんだか寝心地が良さそうですね。安心しきった顔をしてるような』
「ええ?そんなはずないんだけど……」

今度は正一が驚く番だった。
この場所で熟睡できる人間などいるはずがない。自分とスパナが生き証人だと、正一は胸を張って言える。
風は埃を纏い、固いコンクリートの地面は毛布を貫通して冷気と痛みを伝える。
確かに今、みちるの身体に巻き付いているのは正一とスパナ二人分の寝具ではあるが、それでも限度はあるだろう。

『みちる姉がゆっくり寝られてるならよかったです。最近、あんまり寝られてなかったみたいだから』
「そうなのかい?」

正一がみちるの寝顔を振り返る。相変わらず呑気で穏やかな表情だった。

『ここの生活で落ち着くことなんて、たぶんそんなにないですよ。みちる姉にとっては特に』
『おまえたち、みちるを甘やかしすぎなんじゃねーのか?』
「いや、この数時間で、僕もスパナも彼女を甘やかす暇なんかなかったと思うけど……疲れちゃったんじゃないかな?今日はよく働いてくれたから」

もしくは、フゥ太の言うことが本当ならば、みちるの寝不足が蓄積していたならば、この熟睡も無理もないのかもしれない。
悪いことをしてしまった。正一はこの数時間のみちるの行動と、自らの甘えた態度を思い返す。

「と、とにかく。今すぐみちるちゃんをそっちに送り届けるよ!」
『いや、そのまま寝かせといてやれ』
『リボーン……それじゃ入江さんたちの寝床がないんじゃ……』
「あ、あぁ、それは気にしなくても良いけど……」

寝る場所がないなら作業を続けるだけだ。みちるを叩き起こすよりも、気の置けない技術仲間のスパナに無理を言って残業を強いる方が気が楽でもある。
そんな正一の胸の内など知る由もないスパナは、相変わらずモニターに向き合いキーボードを叩き続けている。

『まぁ、おまえたちが休めないのはボンゴレ陣営の不利益でもあるな』
「そんなに大層なことじゃないよ、リボーンさん。けど、みちるちゃんのことについては指示をくれるかい?」
『とりあえず、三人まとめて今日はもう休め。そこから駅が近いだろ。今夜はビジネスホテルの布団で寝ろ』
「え……」
『そこは寝心地が悪いんだろ?』
「まあ……そのはず……」

自分がそう言った手前、引っ込みはつかないが、僅かな反抗心から正一は煮え切らない返事を絞り出す。
正一がちらりと背後を振り返ると、自分に向けられた視線に気付いたかのように、みちるが毛布の下で身じろぎをした。
同時に、ぱちりとまぶたが上がる。

「…………あれ」
「あ。……起きちゃったみたいだ」
「へっ……わっ!リボーンくんとフゥ太くん!?」

正一の声に気付いた瞬間、みちるははっきりと覚醒し、自身の身体にかけられていた毛布を掴んで勢い良く上体を起こした。
モニターの向こう側から向けられていた視線に驚きながらも、みちるはほとんど反射的にその場で姿勢を正し、次の瞬間には裸足のまま正一の隣に並んだ。

『ようやくお目覚めか、みちる』
「う、うん!ごめんなさい!もう夜中!?」
『落ち着いてみちる姉。まだ九時だよ、大丈夫』

全くもって“まだ”ではないので、みちるは赤い顔で冷や汗を流した。
正一はみちるの横顔をちらりと見た後、モニターに視線を戻す。

「みちるちゃん。アジトに帰る?それとも、ホテルで休む?」
「え?」
『おい正一、みちるにもおまえにも選択権はねーぞ。もうアジトのハッチは施錠済だ』
「え、そういう事情だったの?……わかった。じゃあ、みちるちゃんは明日の朝そちらに送るから……」

いまいち状況が掴めないみちるは、諦めの境地に達して溜息を吐き出す正一の横顔を見上げていた。
モニター越しにフゥ太が苦笑を浮かべる。みちるはその表情を見ると、あ、と思い出したかのように声を漏らし、そして口火を切った。

「フゥ太くん。ボイコットはどうなった?」
『あぁ、それなら安心して。ツナ兄が事情を話したんだ。まぁ、その後は少し大変だったんだけど……』
「……?何かあったの?」
『明日ちゃんと話すよ。でも、京子姉とハル姉は大丈夫だよ』
「……そう。わかった、ありがとう」

みちるが微笑んだので、フゥ太もにこりと小さく笑って見せた。
みちるのすぐ隣に座っていた正一は、みちるの声の纏う雰囲気が僅かに変わったことを感じ取っていた、
例えるならば、それは寂しさに似ていた。だが、僅かながら滲んだその気配はすぐに消え去る。みちるが取り繕って隠したような、そんな余韻を残して。

「おやすみなさい、フゥ太くん、リボーンくん」
『あぁ、三人とも身体を休めろよ』
『おやすみなさい』

直後、音もなく通信が終了し、あたりに静寂が戻ってきた。
みちるは小さく息を吐いた。笑顔が徐々に、弱々しく曇っていく。

「大丈夫かい?」
「……うん。なんだか最後、かわされちゃった感じがするけど」
「心配を掛けたくないんだよ。きみに」

正一がパソコンの周辺機器を片付けながら、みちるの横顔に向かって返事をする。
みちるは正一の顔を見て、口元だけ笑って見せた。

「うん。いいの。わたしが正くんとスパナさんのところに来るって決めたんだから。あの場にいないことを選んだのは、わたしだから」
「……うん」
「……ごめんなさい。どんどんワガママになるみたいで、嫌だなぁ」

――わたしは欲張りだ。いつからだろう。
みちるの声が徐々にか細くなって、霞んで震えた。
声が泣いているように、正一には聞こえた。
だが正一は、その感情を知っていた。十年長く生きただけ、持ちえた経験と知識があった。

「みちるちゃん。きみには大切なものがたくさんあって、そのどれもを選び取りたいだけだ。それはすごく、素敵なことだと思う」

みちるが顔を上げたので、正一はまっすぐその視線を受け止めた。

「大人にはできない。大人は、僕は、理論的で合理的だ。失敗するのを恥ずかしいと思う」
「……」
「大切なものは重たいんだ。一人で全部持つのは簡単じゃない。……僕は、みちるちゃんが今ここにいることを、嬉しいと思っているよ」

みちるは自分のことを欲張りで子どもで、愚かだと思う。
だが、正一は決してそうは言わない。

みちるが選び取った“大切”が、今この瞬間、正一の志と重なる。
それは、ずっと一人きりで戦ってきた正一にとっては、奇跡にも思えることだった。

「言ったでしょ?ここに来てくれてありがとうって」

正一のその言葉の意味の全てを、幼いみちるは理解できない。
それでもみちるは、正一がとても優しいことを、この瞬間だけは誰よりも深く知っていた。

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