「晴れの炎ってのは大したもんだな」
「はい……、どうしてこんなことができるんだろう」

食堂を後にした了平を見送り、その場に残ったみちるとディーノは、手のひらの傷跡を見ながら感心していた。

「晴れの炎の性質は“活性”だからな。傷を治せるのは、人間の身体の自然治癒力を強制的に引きだしているんだ」
「はあ……」
「傷が治るのには時間がかかるが、炎の力で短縮できる。みちるの左手は、他の部分より早く歳を取ったってことだな」
「えっ…大丈夫なんですか、それ」

みちるが顔を青くする。
ディーノはみちるの正面に回り、了平が座っていた椅子に掛けると、みちるの表情を見てけらけら笑った。

「平気だよ。小さな切り傷が治るのに何年もかからないのと同じだ、大したことないさ」
「……それもそうですね」
「まぁでも、目立たない場所とはいえ、少し跡が残っちまったなぁ……」

眉を八の字に下げ、自分のことのように残念そうにディーノが言った。
みちるは顔を上げて微笑み、大丈夫ですと答えた。今は痛みがないのだから、きっと時が経てば忘れられる。そう信じたかった。
なのに、傷跡を見る度、雲雀に与えられた熱は蘇り、消え去ってはくれない。みちるは徐々に笑みを消すと、正面のディーノの顔を見上げた。

「ディーノさん……雲雀さんとの修行は、大丈夫でしょうか」

気がかりなのは、どこかへ行ってしまった雲雀の存在だ。
遠ざかる背中を思い出す度、様々な感情がみちるの中に渦巻く。

「大丈夫、ちゃんと戻ってくるさ。今までもそうだったからな」
「…よかった」
「もしかしてケンカでもしたのか?みちるが恭弥に怒ってるとこ見たの初めてだぜ」

気にかける割に、心配しているようには見えない。ディーノはみちるを見て、そんな印象を抱いていた。
みちるは目をまるくして、え?と口から音を零す。

「わたし、怒ってました?」

予想外の反応に、ディーノも疑問符を浮かべる。

「怒ってなかったのか?ひどい、どうしたらいいのかわからないって言ってただろ」
「あ…ええ、そんなことを言ったかも……」
「まぁ、猫にだけどな」
「……………」

猫にだった。
いや、猫にではないのだが、そういう話になっていた。
みちるは閉口し、居酒屋での一幕に記憶を巡らせた。正直、あの時は気が動転し、何を口走っていたかよく覚えていない。
あの時、わたしは怒っていたのだろうか。傷が痛くて声を荒げ、涙を流しただけだ。
怒っていたとしたら、何に対して?状況を、感情を、受け止めるだけで精いっぱいで、何も考えていなかった。

「……雲雀さんに、噛まれました。ぶちってすごい音がしました」

ディーノは肩を竦めると、やっぱりなぁとぼやきながら苦笑した。

「そうだろうな……。ったく恭弥の奴、女の子に傷をつけるなんて何考えてんだ」
「……前に、雲雀さんを怒らせちゃった時に、壁にガンッて押されたことが、あるんですけど……」
「はぁ?前科があるのかよ……。ほんとおっかねえな、あいつ」
「………怒ってたんでしょうか、今日も」

わたしに対して。
みちるはどんどん尻すぼみになる自分の声を聞きながら、無性に落ち込んでいた。
少しは近づけたと思っていた。雲雀が感情的に、自分に気持ちや行動をぶつけるのは、心を開いてくれたからだと思っていた。
100パーセントではなくとも、出会った時よりは随分とましなレベルで。

「別に、怒ってなかったんじゃないのか?恭弥、俺と戦うときなんかイキイキしてるぜ」
「え、……いやでも、わたし相手でそういうことじゃ……」

ディーノの分析に、みちるは反射的にそう返しながら、考えていた。
そうだ。雲雀恭弥という人間を、自分と同じものさしで考えるから上手くいかなくなるのだと、みちるは思い至る。

ディーノは俯くみちるの顔に視線を落としながら、しばらく考えた後、口を開いた。

「みちる。恭弥に……好きだって言われたんじゃないか?」

みちるは顔を上げ、ディーノの相貌をじっと見つめた後、唇を震わせ、やがて観念したように息を吐いた。

「………えっと」
「あのな、みちる」

「別に追求したいわけじゃない、聞いてくれ」と付け加えると、ディーノは真剣な表情でみちるに向き合った。
みちるはディーノのまとう空気が急に張り詰めたものになったことを察知し、閉口し背筋を正した。

「どんな状況だったかは俺は知らないし、おまえたちが話した内容も知らない。恭弥にも何か言い分があるのかもしれない」
「……言い分……?」
「みちるに怪我させた理由だ。故意なんだろう?」

一切の誤魔化しも許さない、そんな迫力のある瞳で、ディーノはみちるの目をまっすぐに見つめていた。
みちるは眉を八の字にしながら、ゆっくりと頷いて答えた。
ディーノはふうと小さく溜め息を吐いた。

「恭弥は、ハッキリ言ってツナや獄寺や、おまえや、俺とは全然違う。……それはわかるだろう?」
「……、…はい」
「ああ、そうだよな。みちるはそれを悪いことだと思わないんだろう。それでいい。だがな、相手が自分と違うことを許容するだけじゃ、ダメだ」

二人を取り巻く空気がひりつく。
ディーノは絶えず周囲の気配を気にかけながら、みちるの表情の変化を観察していた。

「別に“普通はこうだ”って話がしたいんじゃない。好きなのに傷つけるなんて……ってな、そんなの、人によって答えがあるのかもしれない」
「……はい」
「だけどな、男は女より力があるんだよ。みちるが恭弥を腕ずくで押し返すことは絶対にできない」
「………」
「わかるよな?噛み付かれたってみちるに抵抗は無理なんだ。平等じゃない。……みちる。恭弥が、男が怖くないか」

動きを封じられ、一方的に身勝手に傷を付けられ――その上で、相手を理解しようと思うなど、理解ができずに憤る自分を置き去りにしてまで、することじゃない。
みちるはディーノの瞳の奥に大きな気遣いを見つけると、じわりと指先に熱が走ったような気がした。

「………怖いのかも、しれません」
「…そうか」
「傷つけるのなら、怒っているから。怒らせたのがわたしだから……。理由が欲しくて、考えて、わからなくて、混乱しました」
「なぁみちる。恭弥に向き合うのが怖くなったなら、それでもいい。俺や、ツナたちがついてる、みちるにはもう怪我はさせないから」
「いえっ……、あの、ありがたいですけど、雲雀さんは……優しい人で、」
「その台詞、まるでDVの被害者だ。みちる、頭を冷やせ。どんな理由でも傷つけるなら、当人同士の問題じゃないんだよ」
「………」

それは、確かにそうかもしれない。
自分はこれまで何度も、強い雲雀に縋った。傷つけられても近寄った。選んだのは自分自身だった。
雲雀はどうして決定打を与えたのだろう。傷を付けることも、想いを伝えることも、少なくとも受け取ったみちるにとっては大事件だったのだ。
ディーノがこれほどまでに本気で、警戒を忠告するほどのことなのだから。

「そのハンカチをどうやって返そうか、なんて考えてるんじゃないか?みちるがもう恭弥と口を利くのも怖いんなら、会わなくていい」
「………」

みちるはじっと、血に染まった雲雀のハンカチを見つめた。
雲雀は「使い終わったら捨てていい」と言った。それが答えなのだ。
もう一度顔を合わせる時は、雲雀とのこれからの関係に新たな名前をつける時だ。

『きみが好きだ』

心のどこかで、あれは何かの間違いだったんじゃないかと、思考を放棄していた。
まっすぐに、みちるの目を見て雲雀はそう告げていた。
身体に消えない跡を刻むことも、雲雀恭弥が想い人に向ける衝動だと、みちるは知っていたはずだった。
怒りではない。
雲雀が発した言葉も行動も、みちるを手に入れたくてしたことだと――みちるはやっと、辿り着いた。

ハンカチを自分の手から返すのは、雲雀の隣をこれから先も歩いていく決断をするのと同義なのだろう。
隣を歩く雲雀がみちるに傷を付けないという保証はどこにもない。少なくとも、みちるは知らない。

「……みちる?どうした?」

ディーノがみちるに声をかけ、肩を揺する。
みちるは両手で顔を覆うと、椅子に座ったまま上半身を前に倒すように、ゆるゆると崩れ落ちた。
身体の力が抜け、指先が震える。

「…………わたし…どうしたらいいの……」

何度言葉を交わしても、どんなに近くに立っていても、雲雀の心を理解できなかった。
教えてくれないあの人が悪い。そう思うのは自由だ。
だが、理解できなかったことが悔しいのも、理解したいと切望するのも、表裏一体のみちるの本心だった。

また話がしたい。
だが雲雀はそうじゃない。だからこそ、みちるに思いを告げたのだ。

あの人の気持ちを受け止めるには、わたしの身体は小さいのかもしれない。
それでもあの雲雀さんが求めているのは、そんなちっぽけなわたしだ。

――信じ難くても、まずはそれを受け入れなくちゃ。



* * *



みちるにとっては幸いなことに、女性陣は既に自室に引っ込み、浴室は無人だった。
誰と顔を合わせても、自然にリアクションを取れる自信がなかった。
みちるは周囲を見渡し、誰とも顔を合わせないよう細心の注意を払いながら、自室に戻ったのだった。
布団を頭から被りながら、自然と頭に浮かぶのは、至近距離で突き合わせた雲雀のまっすぐな眼差しばかりだった。

(返事……え、返事?返事って何?いつまでにするの?好きかどうかって?わたしが、雲雀さんを…?)

雲雀に、好きだと告白をされた。
何度考えても、この一行が受け入れ難い。信じられない。

みちるの左の手のひらに残る傷跡が、これが現実の出来事だと知らせ続けている。

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