正一が届けてくれた弁当箱を手に、みちるは食堂に戻ってきていた。
京子とハルはみちるの呼びかけに気付くと、振り返って微笑んだ。

「あ、それ、お弁当箱!ありがとう、みちるちゃん」

弁当箱を受け取りながら京子は言った。
みちるの顔を見つめて、赤くなった目に気付くと気遣わしげな表情を浮かべる。みちるは慌てて「あ、平気だよ」と声をかけた。

「……正く…、入江さんに会ったら、泣いちゃった」

へへへ、と苦笑するみちるに暗い色はない。
京子は隣のハルと顔を見合わせ、そしてもう一度みちるを見つめた。
なんだかんだと、長い時間を一緒に過ごしている。どうやら心配なさそうだと、二人は気持ちを合わせた。

「ごめんね、お弁当箱、ありがとう。これからお買い物に行ってくるね」
「あ、そうですよね!待っててくださいね、今買い物カゴを」

ハルがぱんっと両手を叩き、買い物用のカゴを取りに、足早に食糧庫に駆けていった。
京子はみちるに買い物メモと予算の入った財布を手渡すと、気を付けて行ってきてねと声をかけた。

「フゥ太くんが一緒だから安心だけど」
「あ、そのことなんだけど……。入江さんと一緒に行くことになったの。予定より少し、帰りが遅くなるかも」

みちるのその言葉に、京子は微笑みながら僅かに首を傾げた。



* * *



「積もる話もあるだろう。正一、みちる、二人で買い物に行ってこい」

え?という声が二人分ハモった。
リボーンの提案はフゥ太とジャンニーニも聞き届けていた。フゥ太は椅子から立ち上がると、みちるの隣まで歩いてきた。

「みちる姉、僕はどっちでも大丈夫」
「えっ、あ、えっと……けど、しょ……、入江さんは、戻ってやることがあるんじゃ」

ただでさえ時間がない状況を、みちるは全てを知らないまでも、当然のこととして察していた。
正一は長い時間をかけて、8日後に控えている戦いのために準備をしてきたはずだ。
戦いに勝つためには色々と支度があるだろう。みちるはそんな考えを胸に、ちらりと遥か上の正一の相貌を見上げた。

みちるの視線に気が付くと、正一はぱちくりと数回瞬きをして、ほんの少し微笑んだ。

「僕で力になれるなら、構わないよ」

正一はみちるから視線を外すと、フゥ太の顔を見つめた。

「彼女と一緒に買い物に行けばいいの?どこへ?」
「駅の近くの、並盛ショッピングモールへ。買うものはメモにまとめますね」
「助かるよ、ありがとう。……みちるちゃん。お供は彼じゃなく、僕でもいいかい?」

今度ははっきりと、頼もしげに笑う正一と目が合った。
みちるはどぎまぎしながら、「はっはいもちろん」と舌足らずに声を発しつつ、こくこくと頷いた。

「正一。時間があるならついでにゆっくりコーヒーでも飲んでこい」

リボーンがニヤリと笑みを浮かべながらそんなことを言うものだから、みちるは心臓が落ち着く気配がなかった。
「うーん、まぁ、作業自体はスパナが進めてくれているから。たまには息抜きしようかな」などと答える正一の表情はみちるが思っていたより呑気なもので、みちるは喜ぶべきなのかそうではないのか、わからずにいた。

「……いいんですか?」

みちるがおずおずと言葉を発する。正一は「うん」と短く答えた。
準備することはあるかな、と正一が続けたので、みちるは買い物カゴや財布の必要性に考えが至り、「支度してきます!」と答えた。



* * *



並盛駅の方向に程近い出入り口の傍で、正一が待っていた。
出遅れたみちるは正一を見つけると、京子とハルに託された買い物バッグを手に、ぱたぱたと足音を立てながら彼の傍に走り寄った。

「ごめんなさい、お待たせしました!」
「平気だよ。急がなくていいのに」

みちるははあ、と大きく息を吐きながら、正一の隣に並んで彼の顔を見上げる。
「なに?」と尋ねる正一の穏やかな表情は、知らない大人の男の人のそれではあるのだが、やはりその面影には懐かしさを感じて、みちるはどうしてもどきどきしてしまう。

「沢田くんたちには、会わなくて良い…ですか?」
「ああ、…うん。修行の邪魔しちゃ悪いから。……じゃあ、行こうか?」
「あ、はい……忙しいのに、いい、の?」

敬語とそうでない言葉遣いが行ったり来たりする。みちるは無性に正一と向き合うのが恥ずかしくて、視線を頻繁に外してしまう。

「買い物に行く時間くらいあるよ。それに、きみとゆっくり話せるのは……嬉しい」

出入り口の前に立つと、無機質な銀の扉が開き、上りの階段を木漏れ日が照らしていた。
ああ今日は晴れていたのかと、地下アジトの生活に順応している自分に気付かされる。
正一の白い肌も、きっと長い研究職に順応して、彼に馴染んでいったのだろう。
それでも彼の言葉や態度の端々に現れるみちるへの気遣いや優しさは、10年前と変わっていない。
並んで明るい日光を浴びながら、みちるはふと、そんな風に思った。

「あ、ねえ、その話し方」

一歩前を歩いていた正一が不意に振り返り、みちるのほうを向いて口を開いた。
みちるはどきりとしながら、はいと答える。

「僕ときみは同い年だよ。話しやすいように話してくれればいい」

みちるの迷いながら発する敬語や、「正くん」という呼び方を急に言い換えたことを、正一は気付いていた。
優しく指摘されたことにどことなく気恥ずかしさを感じつつも、嫌な気持ちは微塵もしない。みちるは不思議な居心地の良さを感じながら、照れたように微笑んだ。

「……じゃ、じゃあ、……うん。正くん……」
「………あはは、懐かしいな。その呼び方はきみしか……みちるちゃんしか、してなかったよ」

自分ばかりが、正一の言動の一つひとつに心を大きく揺さぶられている、みちるはそんな心地がした。
みちるにとっては約四年ぶりの、正一とのまともな会話。だが、目の前の彼は同い年ではない。
彼が敵でなくて、本当に良かった。穏やかな笑顔を向けられる度に、みちるは強く確信していた。
引っ越しというお別れの節目と、約四年という年月の中で、意図せず遠くに追いやった淡い恋慕は、今この瞬間正面に立つ10歳も年上になってしまった正一の前では、そのかたちを正確に掴むことができない。

『きみとゆっくり話せるのは嬉しい』

みちるの脳内で反響するその声は、むず痒くみちるの肌の上を走る。口許が緩んで落ち着かない。
自分も“嬉しい”のだと、認めざるを得ない。
それはそうだと思う。正一に会いたいから、みちるは自らお茶出しに出向いたのだから。
だが、目の前の正一はみちるの想像の中の人ではなく、一つもみちるの思い通りになどできない他人だ。
みちるが勝手に憧れ、勝手に諦めた存在。正一の思いなどみちるは一つも知らない。

「わ、わたし……わたし、ずっと話したくて……会えて嬉しいっ……」

教えてくれた気持ちに、ほんの少しだけでも応えたくて。
みちるは小さな声で、正一の背中に向かって呟いた。
振り返った正一が目をまるくして、その場に立ち止まった。みちるが隣に並ぶと、歩くペースを揃えるように足を踏み出した。

「僕は、また昔みたいに呼んでもらえて、嬉しいよ」

前を向いたまま正一は言った。
彼は大人で、10歳も年上で。14歳のみちるより、10年多く生きてきた。
多くのことを諦め、多くのことを成し遂げ、歯を食いしばって、何度も覚悟を決め――今もまだ、戦いのさなかにいる。

(そんな小さなこと、どうだっていいはずなのに)

取るに足らない存在が、あなたをどう呼称するか、など。
どうだっていいことに、してくれていいのに。
彼の大きな宿命と野望の前では、吹けば飛ぶ綿毛も同然のはずで、それで良いと思っていたのに。

胸が弾む。
足が軽くなる。
嬉しいという感情が、こんなにも特別になる。

(これが『好き』なんだとしたら、わたしはどうしたらいいんだろう)

雲雀にぶつけられた感情が、ふと頭に蘇る。
相手の気持ちを知った時、それを嬉しいと感じられる時。
雲雀の言葉から、導きだせなかった自分の感情。

(……やっぱり、正くんと話せば、わかるような気がする)

おそるおそる、みちるは足を進める。怖いけれどそれだけではない、誰かの感情と向き合うその場所へと。

 | 

≪back
- ナノ -