獄寺が去った後の喫煙スペースで、みちるはぼけっとその場に突っ立っていた。
かさついた男の人の指の感触が、ひとひらの熱と共に、みちるの頬に残って消えない。
もう、ふれていた指はそこにはないのに。この熱が獄寺の残したものか、それともみちる自身のものか、もうみちるには判別ができない。

「………」

やがて、一人きりの時間をたっぷりと無駄に過ごしていることに我に返ったみちるは、のろのろと歩を進め始めた。
スケジュールは空っぽではない。午後は買い物に行くのだ。フゥ太と約束をしている。
朝食の後、「みちるちゃんには内緒にしておくの難しいので、ネタばらしします!」と元気に手を挙げて宣言したのち、ハルは今夜の歓迎会の存在を教えてくれた。
了平、バジル、そしてみちるを歓迎するための催しだそうだ。みちるは驚きと喜びが入り混じる心持ちで、ありがとうと感謝を述べた。

「そういうわけなので、午後は広間を飾りつけするんです」
「みちるちゃんにはお買い物に行ってきてほしいんだけど、いいかな?」

ハルと京子に任務を与えられ、みちるはもちろんと笑顔で応えた。

「でも、荷物が多くなりそうなんですよね……」

顎に手を当て、うーんと眉を八の字にして悩むハルに、「じゃあ、僕が荷物持ちでついていくよ」と助け船を出したのがフゥ太だった。
いいかな?と許可を求められたみちるはこくこくと頷いた。フゥ太は今や19歳の立派な男の子だ。彼がついてきてくれれば百人力というものだ。

(お昼ご飯食べたら、お買い物。しっかりしないと)

気を紛らわさなければ。
じっとしていると、獄寺の体温が戻ってくるような心地があった。
そんなものは幻でしかないというのに。手を伸ばしても目をあけても、彼の姿は今ここにはないのに。

(……隣にいても、いいんだ)

獄寺の言葉が、みちるの背中を押すようだった。
安心できる場所のように。逃げ場のように、居場所のように。
いつでも目標に向かって走り続ける獄寺の背中しか見えないような気持ちでいたのに、彼はいつでも、一歩踏み出せば近くにいた。
獄寺の優しさが明確に形を成して、みちるに届いた。みちるのやりたいようにしたらいいと、そんなあたたかい言葉で指し示して。

(でも、そのためにも、ちゃんとしなくちゃ)

みちるは顔を上げて、しっかりとした足取りで歩き始めた。
修行に戻った獄寺は、ボンゴレファミリーと仲間と未来のために、今この瞬間も努力を重ねているのだから。
今は、自分もそうするのだと、みちるは静かに心に決めた。獄寺の言葉の一つひとつは、きちんと胸にしまっておくことにして。

――忘れないよ。ちゃんと嬉しかったよ。近くに行きたいって、伝えてくれたこと。



* * *



みちるが食堂に戻ってくると、京子とハルが笑顔で振り返って迎えてくれた。
ハルが湯呑みに湯気の立つお茶を準備している。来客だろうか。みちるが疑問を口にすると、京子が答えた。

「入江さんって人が、リボーンくんのところに来てるの」

その言葉を聞いた瞬間、どきりとみちるの心臓が疼いた。
「お弁当箱を返しに来てくれたみたいですよ」とハルが付け加える。
聞けば、昨日メローネ基地に立ち寄ったツナが差し入れとしてお弁当を届けたそうだ。

「あの!わたしがお茶出ししても良い?」

テーブルに手をつき、みちるは少々興奮気味に言った。
急須のお茶を注ぎ切ったハルが顔を上げた。

「いいですけど、どうしたんですか?」

香り立つ深緑が、ゆらりと水面に波紋を作る。
丸盆を準備しながらみちるは「知り合いなの」と言って微笑んだ。


――やっと会える。
何を話せば良いのか、正直なところわからない。
大事な話に割って入るほど、大した話題は持ち合わせていない。
それでも、正一の顔を見たいと思った。みちるは自分でも不思議なほど、衝動的な感情で足を踏み出していた。

作戦室の前で、みちるは深呼吸をした。
この扉の向こうに、正一がいる。
ほこほこと湯気の立つ緑茶を数秒間見つめた後、みちるは覚悟を決めて扉を開けた。

作戦室の中では、フゥ太、ジャンニーニ、リボーンが定位置に腰かけていた。
そしてみちるに背を向ける形で、来訪者である正一が立っていた。何かを相談しているようだ。
正一の後ろ姿を視界に認め、みちるはどくんと心臓が大きく音を立てたのを感じていた。
懐かしいはずの、だが知らない大人の男の人の背中だった。
10年の年月を多く過ごした幼なじみが目の前に立っている。みちるは、ひどく胸騒ぎがした。

みちるが口を開く前に、訪室に気付いたフゥ太がにこりと微笑み、みちるを気遣うように声をかけた。

「みちる姉。お茶持ってきてくれたの?ありがとう」

みちるはフゥ太の気遣いに内心感謝しながら、その場から一歩を踏み出した。
同時に、正一が言葉を止め、ぐるりと身体を反転させた。みちるの姿に気付くと、正一は動揺したように一歩後ずさりをした。
次の瞬間、彼の手から音を立てて、風呂敷包みの弁当箱が滑り落ちた。
空洞のプラスチックが床にぶつかり跳ねる。乾いた音がその場に響いた。

みちるはというと、眉間にしわを寄せ口を半開きにしたままの、間違いなく“予想外”の出来事に驚いている正一の表情を見つめ、その場から動けなくなっていた。
正一のほうも、足元の弁当箱に手を伸ばすこともできず、何かを言いたげに瞬きを繰り返していた。

(な、なんでそんな反応……?)

正一の話は、リボーンやツナから聞いていた。
みちるが元々持っていた、小学生の数年間の思い出などでは到底計り知れないような、正一の壮絶な人生の話を。
みちるが未来で出会った正一は、聡明で、頭が良く、予定通りに物事を確実に進める実行力と行動力、組織を束ねるリーダーシップをも併せ持った男だ。
14歳の千崎みちるが隣に並ぶには、遠すぎる存在になってしまったかもしれない。
みちるの胸の中にそういった不安は当然あった。
だが、“ミルフィオーレファミリーの幹部の入江正一”という遠い存在ではない入江正一を知っているのもまた、この10年後のボンゴレアジトでは、みちるしかいない。
幼い頃の思い出が、正一の優しさを覚えている自分の心の確かな高鳴りが、みちるの背中を押した。
正一に会って、喜んでもらおうなどとは思っていない。会いたいのは自分のほうなのだ。
それでも、ほんの少しでも、正一の心に何か少しでも、心地の良い風が吹くような瞬間が訪れてほしい。自分の一歩が、そうなれたら僥倖だと、みちるは考えていた。
またしても、わたしはしくじったのだろうか。
正一の表情をじっと見つめ、みちるの両目からみるみるうちに光が消えていく。
微動だにしない正一は、おそらくそれに気付いていない。
みちるははっと我に返ると、手にしていた丸盆に意識を戻し、湯呑を配り始めた。

(正くんは、わたしが、ここにいること、知らないんだっけ……?)

みちるは必死に平静を装い、笑顔を顔面に貼りつけながら、考えを巡らせていた。
知っているとばかり思っていた。このボンゴレアジトにいる10年前の姿の関係者は、正一が10年バズーカを当ててこの時代に送り込んだはずだ。
そこでみちるははたと気付く。自分は正一が“当てようとして放った”10年バズーカに被弾したわけではない。

「……どうしてきみがここに………」

正一がみちるを見つめたまま、掠れる声でそう言うと、リボーンが顔を上げて口を開いた。

「何をそんなに驚いてるんだ、正一。タイムトラベルは全部、おまえが過去の自分に指示したんだろ?」
「……………」

正一は青い顔で、視線を下に落とす。フゥ太とジャンニーニ、そしてみちるが、固唾を呑んで続く言葉を待った。

「千崎…、千崎みちるちゃんに、10年バズーカを当てる指示は、僕は出していない」

「え?それって……」とフゥ太が動揺を示す。
みちるは「あっ、あの!」と口を挟んだ。自分が答えを持っているかもしれない。

「わたしも、そうだと思います。正く…入江さんは、わたしを見て『きみのことはなんの指示も受けていない』って言いました」

だけど足に偶然、10年バズーカの弾が当たってしまったんですとみちるは付け加えた。
正一は顎に手を当てて、何やら考え込んでいる様子だった。みちるはおそるおそる、彼の顔を見上げた。
随分と身長差ができてしまった。10年バズーカを手にした彼と相対した時、ほとんど背丈に差はなかったというのに。
面影は小学生の頃と変わらないのに、重すぎる宿命を背負ってしまった正一の表情はどこかやつれて見えた。
それでも、彼は確かにこの時代の人で、みちるより10歳も年上の大人の男性だった。
かつて恋をした同い年の男の子が、24歳に成長して目の前にいる。
その事実が、みちるの想像を遥かに超えて衝撃的で、みちるは気付けば、話したかったはずの言葉を、きれいさっぱり忘れてしまった。

不意に、正一がみちるの顔を見た。
みちるは正一の顔を見上げていたので、電撃のようにばちりと視線が合う。
気恥ずかしさに、みちるは思わず視線を外してしまう。懐かしい顔なのに、知らない顔だった。

「……どこも怪我はないかい?」

正一がみちるの正面に立ち、そう声をかけた。
みちるは「へっ」と間抜けな音を口から零しながら、弾かれるように顔を上げた。
正一が穏やかな表情で、だが心配が滲んだ声で、間違いなくみちるに言っていた。

「う…うん、はい。大丈夫……、です」

目が合い、言葉を交わすと、みちるは緊張に顔に熱が集まってくるのを感じていた。
伝えたい言葉がたくさんあった。とっ散らかってどうにもならない感情が、たくさんあったはずだった。
なのに、そのひとつも伝えられず、みちるは焦っていた。彼を支えたかった、身を案じたかった、それを言葉にして伝えたかったのに。

「……よかった。きみが無事じゃないと、なんの意味もない………」

へにゃりと優しい笑顔を向けてくれた正一に、みちるは何も言えなかったばかりか、じわりと涙が滲んで、やがてそれはぼたぼたと大粒に成長し零れ落ちた。
正一が「えええっ、な、なんで泣いてるの!?」と狼狽し、みちるも原因不明の涙に大層動揺していた。

(ちゃんと伝えたいのに、わたし……言えるのかなぁ……)

心配も、再会の喜びも、かつて遠くに追いやった気持ちも、綯い交ぜになってぐるぐると回る。
ゆっくりしている時間など、彼にはおそらくない。そして、ツナたちにも。
もっと成長しなくてはいけない。やりたいことが、伝えたい気持ちがあるならば。
10年という年月を飛び越えようと努力する仲間たちのように、自分も、今すぐに。

みちるは焦った。
ぶつけられるばかりだった人の思いと、答えを待ってくれる人の優しさを思い知りながら、少しずつ気付き始めていた。
大切な人を目の前にして、伝えたいことが確かにあるのならば、もっときちんと考えなくては。
自分だけの話ではないから。
相手はそれほど、待ってはくれないから。
待ちたくとも、運命がそうさせてはくれない。そういうことも、きっとあるから。

自分が“伝える側”に立っているのだと思い至った瞬間、みちるは自分自身の不安と焦りと未熟さを直感した。

涙が勢いを増す。
泣いている時間など、ないというのに。

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