わたしはまだ知らない。
どんなに考えても、それが答えだった。

「し……、知りません……」

みちるの声が震えていた。
縋ることができない。慰めるように雲雀の体温に包まれながら、みちるは自分から、雲雀の背中に腕を回せない。

雲雀の言葉は欲なのだろう。おそらく、想い人への。
みちるはすてきだな、とも、憧れるなぁ、とも、思うことができずにいた。
健常な思慕なのか判断が難しい、少し歪なかたちの感情も、雲雀はそのまま言葉にした。
ひょっとしたら彼なりの言い方だというだけかもしれないが、雲雀らしいと、みちるは思う。

自分には答え合わせなどできない。みちるは、その結論に至った。
幼い淡い恋心は、かつて好きだった正一に、雲雀が言うような浅ましい欲望を抱くことすら知る前に、流れる年月の中に霧散した。
“好き”な相手に“触れたい”と、“閉じ込めたい”と告げた雲雀の腕の中で、みちるは未知の感情への恐れに震えた。

まさかと思う。だから、それ以上は踏み込まない。
怖いのは、他人事と思えなくなっているからだ。気付いていながら、みちるは目を背ける。

ギシギシに固まるみちるの身体を、さすがに哀れに思ったのか、雲雀はゆっくりと解放した。

「……も、もう、あなたの前から、黙って逃げたくは、ないんですけど」

雲雀と向き合うかたちになりながらも、みちるはすすす…と足を擦りながら、正面から逃走を試みていた。
雲雀は、そんなみちるを黙って見ていた。怒るでも笑うでもなく、落ち着き払った無表情で。

「けど……っ、ご…ごめんなさい!」

みちるは一度も振り返らず、無様にも全力疾走で、その場から逃げた。
雲雀は追いかけることはなかった。似たようなやり取りが前にも何度かあった気がする。
しんと静まり返った水面のように、心が自然と凪いでいる。
みちるはいつも、どうしても明かしたくない心の内を隠すように逃げていく。
みちるは逃げているつもりだろうが、雲雀は追わない時は、追いかけるつもりもない。

以前、ヴァリアーとのリング争奪戦の折、屋上で修行中の雲雀の前に不用意にみちるが現れた。
その後、応接室で共に昼食を摂った。そしてあの時も、みちるを腕の中に閉じ込めた。
みちるはそのすぐ後、照れからか全力疾走で逃げていった。

あの時初めて、彼女から向けられる信頼を感じた。

生まれて初めて、忠誠以外の人の感情を心地良いと感じてしまった。
雲雀にとっては予定外で、間違いなく不覚だった。
だが、やがて自分から彼女への、欲が生まれるのを感じた。そして、認めざるを得なくなった。

今、心が穏やかなのは、満ち足りているからだろう。あの時逃げる彼女を見逃した感情と同じ。
半月以上姿が見えなくなったみちるが、ひょっこりと、自ら雲雀の元へと顔を出した。
また傷つけて、また彼女は泣いて、無事でいるのかどうかもわからぬまま、目の前から消えた。
無事でよかった、なんて柄でもない。
怖かったと泣いていたなら、次に会った時は、隣にいることくらいはできると思っていた。
だが存外、みちるは元気そうにしていた。
未来へ飛ばされるという未知の経験も受け入れていたし、何があったかは知らないが、切り落とした髪に未練は一切ないようだった。
久しぶりに見たみちるの顔は、自分にどうやって謝ったら良いのかとびくびく怯える、並中で何度も見た、呑気な表情でしかなくて。

「きみはどこにいたって、誰かと一緒に生きてるんだね」

雲雀がぽつりと呟いた。
ツナや獄寺や山本を心配して涙を流し、どうしようと雲雀を頼って応接室を訪ね、未来ではディーノの元で元気に回復し……
そのひとつひとつに、ひりつく感情を持て余す男の気持ちなど、みちるは知ろうともしない。
どうにもならないことばかりだと、雲雀は心の中で静かに溜め息をついた。彼女の自由も、焦れる自分の心も。
それでも、それが気に入らないばかりではないのだから、厄介なのだ。

まさか先程、雲雀がみちるに告げた言葉の全てを、全く自分へのこととして受け取っていないはずがない。
意に介していないなら、逃げたくないと宣言しながら、逃げたりはしない。

「次は、猶予なんかやらない」

みちるのせいで、随分気が長くなったと、雲雀は思う。



* * *



もしも心臓の拍動に上限回数があるなら、今夜使い切ってしまうだろう。
みちるはそんなことを考えながら、自室のベッドの中に潜り込んだ。
落ち着かない心臓をぎゅっと抑え込むように、自身の身体を抱きしめながら、布団の中で深呼吸を繰り返した。

あれ以上雲雀さんと一緒にいたら、本当に気を失ってしまうところだった。混乱して。

全身がまだ、雲雀の体温に包まれているような心地がする。
意識をするとは、そういうことを言うのかもしれない。
困った。だが、どうにもできない。
みちるはただ、息を吸って吐くことしかできなかった。

雲雀の問いの答えを、何度も考えようとした。
好きとは、閉じ込めたいと思うこと。隣にいてほしいと思うこと。自分のことだけを考えてほしいと思うこと。雲雀はそう言葉にした。
みちるの出した一つ目の結論は、「知らない」だった。
みちるの中には前例がない。他人に対して、そのような強い感情をもったことがない。
だが、今の問題はそれではない。
みちると共にいる時の雲雀の行動の一つ一つを思い返す度、みちるは自然と浮かんでくる仮定を、必死に頭から振り落とそうとした。

(…………でも、やっぱり、そんなこと、ないと思う)

否定の根拠のほうが、どんどん劣勢に追い込まれるような図が、脳内で展開している。
なんにせよ、みちるの中でひとつ確定したことがある。
自分はまた、雲雀と顔を合わせづらくなったと思っていることだ。

(どうしよう、どうしよう……)

もう逃げ道がわからない。
だが、普通にしていることができるかも疑わしい。
そのくらい、破壊力のある行動に出たのだ。雲雀恭弥が、自分に対して。

(……わたしは……好きな人に、どうしてほしいのかなぁ……)

以前、ハルに聞かれた質問だ。
彼女はツナが好きで、一緒に出掛けたい場所も、一緒にやってみたいこともあると言った。
胸がときめく経験を共にしたい、同じ時間を一緒に過ごしたい。そういうこと、なのだろうか。
誰かが自分に、強烈に、それを望んでくれたとしたら、どう思うだろうか。
それを嬉しいと思えたら、その人が、好きな人なのだろうか。

「………っ……」

頭が熱くて仕方がない。
いくら否定しようとも、また行き止まりで足を止めるみたいに、消えない言葉や行動が思い起こされる。
頭がいっぱいなのだ。
雲雀の腕のあたたかさが、忘れさせてくれないのだ。

(でも、……嬉しいって思ってるのか、答えが、わかんない)

この心臓の高鳴りが答えなら、そうなのかもしれない。
それでも、まだわからないと唱え続ける。自分に自信がないからだ。

(正くんと話したら、わかったり、するのかな……)

会いたいという気持ちが答えなら、また、想いはかたちを変えてしまう。
自分にはまだ会っていない仲間がたくさんいるのだから。

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