「だけどきみも、僕の部屋に入るんだったら、少しは覚悟したほうがいい」

すぐ背後から聞こえた雲雀のその声に、みちるはぞわりと背中が粟立つ感覚があった。
次の瞬間、雲雀の右手がみちるの右手の甲に重なった。
ごとん、とシンクの中に湯呑を取り落とし、みちるは二重の意味で「わあ!」と驚嘆の声を上げた。

「あ、あぶなっ……」

背後にぴったりと、覆いかぶさるように立つ、雲雀の存在を感じる。
みちるはシンクの中で転がる湯呑を追って手を動かそうとするが、雲雀が右手を握ってしまい、それは叶わなかった。
一瞬にして胸の中で暴れまわるように速度を上げる心拍が、みちるに動揺を伝えている。
恐怖ではないが、それに近い何か。

「ひばりさ…」
「あの男と一緒だったんでしょ、ずっと」

後ろを振り返ろうとかぶりを振ると、雲雀の呼気が耳にかかり、みちるは思わずぎゅっと目をつぶった。
あの男?と、みちるは思案する。そして、ディーノのことだと思い至る。
握られたままの手を動かす度、抵抗ととっているのか、雲雀の力が強くなるように感じていた。

「あのっ!話せば長くなるんですけど、10年後のわたしがイタリアに留学していて」
「そんなことどうでもいい。きみとあの男は全然釣り合ってないよ」

反射的にえ、と声が漏れる。
急に思いもよらない言葉が飛び出し、みちるはぐるぐると考えを巡らせた。
雲雀は何が言いたいのだろうか。説明しようと口火を切ったら、一刀両断されてしまった。
沈黙が流れる中、背後で雲雀が動く感覚があり、みちるは身構えて肩をすぼめる。
次の瞬間、顔を伏せたみちるを追いかけるように、米神のあたりに雲雀の唇がふれた。

「……!」

頭がカッと熱くなる感覚があった。
みちるは、雲雀に顔を見られないよう、逃げるように顔を背けた。

「きみが行方不明になったのは、山本武が行方不明になった日と同じ。……18日前かな」
「………」

そんなに経つのかと、みちるは混乱のさなかで、なんとか雲雀の考えを理解しようとしていた。

「てっきり一緒にいるのかと思ってたよ。でも違った。怪我はなさそうだけど、髪は短くなっているし」
「……せ、説明させて、ほし……」
「何も不安じゃなかったの?跳ね馬に守ってもらっていたから?」
「へっ……あ、の、」

言葉で説明がしたい。
そのために、せめて正面に立ちたい。その思いが先行してじたばたと下肢を動かすみちるを抑え込むように、雲雀は両腕で彼女の身体をホールドしていた。
こんな場面でなければロマンチックなバックハグなのだろうかと、みちるは頭の片隅で考えていた。
みちるの懇願を聞き入れる気がないのか、彼女が口を開こうとする度、雲雀は唇や呼気や指先で、みちるにちょっかいを出した。
雲雀の指がみちるの指や手の側面をするすると撫でまわす度、みちるはくすぐったくなり、雲雀の腕の中でバタバタと暴れた。説明どころではない。

声を出すのを躊躇するあまり、ひいひいと息が上がってしまったみちるを見て、雲雀はようやく悪戯の手を止めた。
雲雀が腕を解きみちるを解放すると、みちるは逃げずにその場で深く呼吸を繰り返した。
すっかり涙目になってしまったので、ごしごしと手の甲で目元を拭った後、おそるおそるといった様子で、みちるは雲雀のほうへ身体を向けた。

お互いの表情を見る暇もなく、雲雀は今度は正面からみちるを抱きしめた。

「…………釣り合ってない、って……?」

雲雀の腕の力は、存外優しかった。
みちるは逃げようとはしなかった。話がしたいのだ。本当ならもう少し距離を置きたいが、言ったところで叶えてもらえるとは思えない。
観念して、雲雀の胸あたりにおでこをくっつけながら、みちるは尋ねた。

「そう思ったから言っただけだよ」
「……ディーノさん、わたしと違って、大人で、かっこいいから……」

みちるのようなちんちくりんな子どもが、ディーノの隣に並んだところで、妹がいいところで、せいぜいアイドルと追っかけ程度の関係性が関の山だろう。
見た目ですぐに判別可能なように、国籍も違うので、そのあたりが良い線かもしれない。要するに、釣り合っていない。雲雀の指摘通りというわけだ。
そういうことを言いたくてみちるは言葉を選んだつもりだったのだが、雲雀はそうは思わなかったらしい。

「あの男が好きなの?」

雲雀はみちるを解放し、一歩分距離をとった。
そしてその質問。みちるは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
雲雀と目が合うと、みちるはみるみるうちに顔に熱が集まってくるのを感じた。
この反応では、言外に「そうです」と告げているようなものではないか。
その考えに至ったみちるは、慌てて素早くかぶりを振った。顔の前で両手をバタバタと動かすのも忘れずに。
雲雀は無言だった。みちるは、目の前の雲雀の感情の読めない表情と目に射抜かれるのがたちまち怖くなって、パッと顔を背けた。

「あっ…ちがくて、その、感謝しています。大好きです、大切な、本当のお兄ちゃんみたいに」
「………」

わたしは、何を言っているのだろう。みちるは熱に浮かされた頭で、そんなことを考えていた。
雲雀に、そんな質問をされる日がくるなんて、夢にも思っていなかった。
雲雀は直情的だが、戦闘に関すること以外の感情はあまり見えない人だ。
それでも、みちるには比較的優しい態度を見せてくれた。みちるはいつもそれが嬉しくて、誤解なく気持ちを通わせ合いたいと、強く思うようになった。
雲雀はいつかに、嘘が嫌いだと語った。みちるが何かを隠そうとしていると、みちるの考えなどお構いなしに白状させてきた。

雲雀はよく、興味の対象以外には、どうだっていいと吐き捨てる。
――どうだっていいじゃないか、わたしが誰を好きかなんて。
みちるは雲雀に距離を詰められながら、そんな言い訳を心で唱え続けた。

「……好きって、あの……、そういう、家族愛みたいな、ことを、言って……?」

「違う」

おそるおそる、確認するようにみちるが口にした言葉を、雲雀はぴしゃんとねじ伏せた。
低く冷徹な声音だ。感情が希薄なところも、雲雀の涼やかな雰囲気によく似合っている。
それなのに、卑怯なぐらい、彼の腕の中はあたたかい。
今、思い知りたくなどなかったのに。
本能的に逃げを打とうとし、一歩下がろうとしたみちるを、雲雀はいとも簡単に再度、抱きしめてしまう。

「触れたい。閉じ込めたい。同じ気持ちが欲しい。誰にも渡したくない。自分で選んで、隣にいてほしい」

どんな表情でその言葉を紡いでいるのか、みちるは知らない。
知りたい時、ほとんどいつも、雲雀はみちるを腕の中に閉じ込めている。

「笑ってほしい。困ってほしい。逃げても嫌がってもいい、僕のことだけ考えていればいい」
「………」
「噛み付きたい。消えない傷をつけてやりたい、二度と他の男なんか見ないように」

――誰の、話だろう。
それ以上、雲雀にも自分自身にも、問いかけることを、みちるはしなかった。
雲雀が撫で梳くように、みちるの短くなった髪を弄んでいる。甘くて弱々しい刺激に、みちるは手を固く握りしめて耐えた。

雲雀のその手が優しいことだとか。
今まで彼と一緒に過ごした時間に、何を話し、何をされたか、とか。
彼がたった今、口にした幾つもの欲望と、合致してしまうのではないか、とか。
一瞬でも気にかけてしまったら、ぐらつく足元が崩壊してしまう予感がした。

「きみは?」

耳に直接注ぎ込まれる低音が、その質問が心底恐ろしい。
まるで0時の鐘の音のようだと、みちるは思った。

全てが幻で魔法のようだ。
こんなに美しい人に、どうしてわたしは、抱きしめられているんだろうか。

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