大きめのボストンバッグ、スニーカー、そしてテイクアウト用のホットチョコレートを購入し、みちるは晴れやかな気持ちだった。
他に買いたいものは?とガブリエーレに尋ねられ、みちるは少し考えた後、「もし、帰りまでにお店を見かけたら言います」と答えた。

「なんだ、遠慮してるのか?まだ時間はあるからどこでも言ってみな?」
「いいんです、もう必要なものは全部揃ったので……。お二人はお酒を買うんですよね?」

そういえばそうだったな、と今思出したかのようなマルコを小突き、ガブリエーレは「あっちが酒屋なんだ、みちる嬢、ついてきてくれ」とみちるに声をかけた。

傾斜のある石畳の坂道に立ち並ぶお店は、どこも活気に満ちていた。
ソムリエエプロンを巻いたトラットリアの店主らしき男性が、食材を腕に抱えながらドアを開けて店内に入っていく。
買い物客は皆おしゃべりに花を咲かせ、手にはホットチョコレートのカップを持って笑っている。
全てが風景に調和しているようにみちるには思えた。
黒いスーツを身に纏う屈強な男二人についていく東洋人の小娘は、周囲の目にはどう映るのだろう。

ここだ、と言いながらマルコが立ち止まった。
彼は酒屋と言ったが、バーの営業を兼ねているようだ。カウンターの背面に所狭しとワインが並んでいる。
薄暗い店内に躊躇なく足を踏み入れていくでかい男たちに、みちるは圧倒されながらも背中を追いかけ入店した。

奥から初老の店主が顔を出すと、二人は気安げに手を挙げて応えた。
イタリア語の会話が目の前で繰り広げられている。
みちるは全く内容が掴めず、手に下げていたカフェの紙袋を胸のあたりでぎゅっと抱きしめながら、大人の世界といった風情の店内を物珍し気に眺めた。

「シニョリーナ・みちる、はじめまして」

言葉はわからなかったが、自分をまっすぐ見つめる店主の表情に、みちるは迷いなく振り返った。
未婚の女性に対する呼びかけを、イタリアに来てから何度となく聞いている。シニョリーナ。
店主はマルコやガブリエーレよりずっと年上に見えるが、その人懐っこい笑顔はお店に来る誰をも虜にしてしまうのだろう。

「かわいいお嬢さん、大人になったら必ずまたおいで。良い旅を」

ワインの代わりにこれを。
マルコの通訳と同時に手の中に落とされたのは、小さなチョコレートの包み紙だった。
みちるはぱっと笑顔を浮かべると、グラッチェ!と元気よく答えた。



――もしかして、会うのが久しぶりだったりするのだろうか。
とうとうバールのカウンター席に着席し、昔話に花を咲かせ始めた男三人についていけなくなったみちるは、重いドアを押し開けて外に出た。
うーんと伸びをしながら身体をほぐし、ふうと息を吐き出す。再び吸い込んだ息は冷たい外気そのままで、喉の奥がひやりとした。

平和だ。あの人たちがマフィアだなんて、とても信じられないほどには。

くるりと振り返り、ガラス張りのバールの店面に向き合うと、磨かれたガラス面に自身の姿が映った。
淡いブルーのシフォンワンピースに、長袖のジャケット。小ぶりな皮のショルダーバッグ。
全て、10年後のみちるの部屋のクローゼットから拝借したものだ。
せっかくのお出かけなんだからと、イザベラが短くなった髪を器用に編み込み、可愛らしい花の形のバレッタで留めてくれた。
「これ、本当は七分袖なのよ」と、みちるの羽織ったベージュのジャケットをにこにこと見つめながら、イザベラは笑った。

「おかしいですか?」
「いいえ、可愛いわ」

その返答は日本語だった。
聞けば、みちるのおかげで簡単な日本語を学んだという。

「友達の幼い頃に出会えるなんてきっと奇跡よね。会えて嬉しいわ、ありがとう」

最後に述べた長いその言葉はイタリア語だった。
イザベラの笑顔が美しいことはわかったが、彼女が紡いだ言葉の意味がわからない。
くるりと助けを求めるようにみちるがディーノを振り返ると、ディーノが通訳して教えてくれた。
途端に目に涙が滲んで、みちるはイザベラの細い身体に抱き着いた。


大人になった自分は、今とは随分ファッションの趣味が違うらしい。
みちるはクローゼットを開ける度にそう思った。
このワンピースはまだ大人しいほうで、レースやリボンのあしらわれたスカートやアクセサリーがいくつも並んでいた。
心身ともに自己評価の低いみちるは、持ち物が地味になりがちなのだが、10年という時間はみちるの何を変えたのだろう。

(バレッタって持ってないなぁ。どこかで買えないかな)

髪が短くなって真っ先に思ったことは、髪を束ねることができず、お気に入りのアクセサリーが仕舞い込まれてしまうことへの寂しさだった。
だが、この未来の世界で出会った美しい友人は、そんな寂しさを杞憂であったと信じさせてくれた。
気持ちに余裕がなく、着飾ることなど長い間ちっとも意に介すことがなかった。
自信がないから努力しないのではない。努力をしないから、自信がもてないのだ。
可愛いと言ってもらって、初めて自分の姿をきちんと見つめたように思う。借り物を身に纏った自分の姿への賛美を、きちんと自分のこととして受け取りたいと思った。

不思議だった。
みんなに大切にされているのは今も過去も変わってはいないのに、環境は目まぐるしく変わり、間違いなく絶望的なのに。
受け取るばかりだった愛情が、ゆっくりとした時間の中で、体内にじんわりと溶けていくみたいだ。
今まで一度も、立ち止まることがなかった。忙しなく与えられ続けた日常は、幸せだったけれど、同時に浅い呼吸しかしていなかったのかもしれない。

(ちゃんと考えよう。そして、後悔しないように行動しよう)

なんの決意にもなっていないようなことを、みちるは小さく誓った。
守ってもらうだけじゃない。わたしにも何かができると信じるんだ。

ウィンドーに映る自分の姿にふと足を止めると、髪の中できらりと輝く花のバレッタがやっぱり可愛らしく、みちるは何度もその輝きを見つめた。
何か自分のものが欲しいと、漠然と考えていた。未来の自分は間違いなく自分自身ではあるけれど、出会ったことがない別人だ。
バッグも靴も新調したが、おしゃれは格別なものなのだと、今更実感している。胸がときめく買い物。なんてすてきなのだろう。

ふわふわとした心地で、みちるはゆっくりと歩を進めた。間違いなく浮かれていた。
ガブリエーレもマルコも、まだまだバールから出てきそうもない。

「……うーん」

みちるはしばし逡巡した後、バールの店内に視線をやり、首を上に向け看板を眺め、外観をしっかりと目に焼き付けた。
この場所に来るまでに見かけた、気になる雑貨店があった。同年代か、少し上の年代の女性が好みそうな、ピアスやネックレスや、バッグが店頭に並んでいた。

少し見に行くくらい、許してくれるだろう。
みちるは緊張とときめきに高鳴る胸を抑えながら、石畳に一歩を踏み出した。

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