“応接室”のプレートの下がった教室の白い引き戸の前で、千崎みちるは緊張の面持ちで、ゆっくりと息を吐いていた。
彼女の胸にはお弁当箱の入った巾着袋が二つ。
一つはみちるのもので、もうひとつは、この応接室を風紀委員としての活動拠点にしている、雲雀恭弥に渡すべく用意したものだった。

応接室のドアは、もうノックした。
中から返事はなく、どうやら誰もいないようだ。
みちるは肩透かしを食らい、だが少しホッとしたような心地もしながら、深呼吸をした。

手土産もなしに訪ねることはできない。
そんな思いで頭をひねり、みちるは差し入れを作って持っていこうと決めたのだった。
時刻は放課後なので、雲雀の好物のハンバーグを含むちょっとした軽食だ。
ハードルが高い気がしないでもないが、以前にも一度、雲雀にはお手製のお弁当を渡したことがある。
その際、彼は無言で完食してくれた。空っぽのお弁当箱を受け取りながら、みちるは心があたたかくなるのを感じた。

これまでみちるが自分から進んで雲雀の元を訪れたことはほとんどない。
みちるの記憶では、骸の元から戻ってきた後、ハンカチを返してくれた雲雀にお礼を言うために尋ねた一度きりだ。
この応接室の中で、仕事を手伝ったことは何度もあるが、雲雀に来いと言われ、それに応じる形でしか、足を踏み入れたことがない。

今回の訪問の理由はズバリ、ディーノに背中を押されたから。
祝勝会の時、彼は「恭弥のところにも顔を出してやってくれ」とみちるに告げた。
他人と関わるのを極端に嫌う彼が、みちるのことを心配していたからと。
にわかには信じ難い話ではあるが、ふと思い返すとみちるも随分長い間、雲雀と会っていないような気がした。
日数としては久しぶりと声をかける程開いていないのだが、みちるはここ数日入院していたのだから。

(でも、何のために来たかって聞かれたら、なんて言えばいいんだろう……)

みちるの緊張の原因はそれだった。
お弁当を渡すため?いやいや、それもあるが、順番が逆だろうと思った。自分は会いに行くためにお弁当を作ったのだ。
ディーノさんに言われたから?そんなこと絶対に言えない。
わたしか、ディーノさんか、はたまた近くにいる風紀委員の誰かが、八つ当たりで咬み殺されることになってしまうかもしれない。

(わたしは雲雀さんに、何を伝えたいんだろう)

みちるには、以前もその自問自答に対する答えが見つからなかった。
異世界の話は、以前にしたことがある。
だから、「わたし、異世界から来たと思ってたんですけど、勘違いでした」と、正直に釈明をすべきなのだろう、が。
もちろん、伝えるべきだと思っている。彼が本当に心配をしてくれていたのであれば。
一度じっと腕の包帯の下の傷を見つめて、複雑な表情を浮かべた雲雀に、もう心配は要らないと伝えるべきだ。

何よりも雲雀自身が、雲雀が知らない異世界の千崎みちるではなく、彼と絆を結んできたみちるだけを、求めていたから。
異世界に消えてしまう日が来るかもしれないと泣いたみちるに、「そんなの気に入らない。お別れなんてさせない」とまっすぐに言ったから。

「何してんの?」


不意にみちるの背中にかけられた声があった。
みちるは驚きに肩を跳ねさせながら「ひいっ」と短い悲鳴を上げ、素早く声のした方向を向いた。

「ひ……雲雀さん……」

みちるはびっくりしたような表情を浮かべながら、雲雀の目を見つめた。
雲雀は何も言わなかった。が、みちるが手の中に抱えているものを一瞥した後、みちるの目を見た。

「僕に用があるなら入りなよ」

雲雀の手によって引き戸は開かれ、見慣れた応接室の風景がみちるの目に飛び込んできた。
用があるなら入れ。雲雀はそう言った。
雲雀が登場するまで、みちるは懸命に考えていた。自分はここに何をしに来たと答えるべきなのかと。

話がしたい。
雲雀は今まで、みちるにたくさんの言葉や感情をくれたから。
考えれば考えるほど、雲雀に話すべきことが、話したい内容が、泉が沸くように次から次へと浮かんできた。

雲雀はちゃんと話を聞いてくれることを、みちるは知っている。

「……失礼します」

みちるが雲雀の背中を追うように応接室に一歩を踏み出すと、奥の委員長の席に回った雲雀が振り返って、言った。

「ハンバーグ、ちゃんと入ってるんだろうね」

みちるはあっけにとられて、一瞬反応が遅れつつ、こくこくと頷いた。
二つ目のお弁当箱を、当然自分のものだと捉える雲雀が、ぐっと近い存在に感じた。

人と距離を詰めることに恐怖を感じないのは、到底自分とは違うところだとみちるは感じた。
それと同時に、心に染み渡るのは嬉しさ。
雲雀が相手だといつもそうだ。
最初は彼の生き方が理解できなかった。遠く感じていたからこそ、ギャップが埋まる感激が大きい。

今でも理解できないことはたくさんある。
だが別の人間なのだから、仕方がないと思う。今となっては。
みちるは、雲雀と出会って間もない頃、異世界に急に振り落とされた自らの運命に混乱し、孤高で生きる雲雀に対して不満を抱いた。
人にわかってもらえないことが怖かった。
遠くから見ているだけは何も変わらない。手を伸ばしたからこそ、今がある。

勇気を出して傍に行ったからこそ、雲雀が優しいことを、みちるは知ることができた。





「きみって、僕の知ってる千崎みちる?」

雲雀と自分のために淹れた緑茶の、自分用の湯呑みを両手で包んだまま、みちるは止まった。
雲雀の、吊り上がった形の良い両目がまっすぐみちるを見つめている。
みちるはその鋭い眼光に、思わずしゃっきりと背筋を伸ばした。

「えっと……はい。まちがいなく」

みちるは湯呑みをローテーブルに静かに置くと、できるだけ真摯に答えた。
以前、雲雀に問い詰められて、自らが異世界から来たかもしれないという話をしたことがある。
今となっては、以前とは逆で、みちるには異世界の記憶がないのだが、一言で言うなら「まったく同じ外見の少女に転生した」という認識だったと、目覚めた後に山本から教えてもらった。

「そう。だけど、確かめようがないことだ」

雲雀はそう言いながらみちるの対面のソファから立ち上がると、靴音を鳴らしながらみちるの隣までやってきた。

(そう言われましても……)

みちるは、黙って隣に腰かけた雲雀のほうを見ずに、内心で冷や汗をかきながら続く言葉を待った。

「包帯は」

疑問形でない問いかけに、みちるはいそいそと自身の右腕の袖をまくって、雲雀に見せた。
傷の痕跡が僅かに残る真っ白な細腕を一瞥した後、雲雀は無表情で正面を向いた。

異世界などなかったとしても、トラック事故に遭ったことは紛れもない事実なのだと、みちるは感じていた。
どんな痛みだったか、どんな傷や怪我だったのかは、事故の後一年程眠り続けた間に記憶の彼方に葬られてしまった。
包帯を替える度に目にしていた、生々しい血の滲む傷跡すら懐かしい。
少しだけ残ってしまった細く線を引っ張ったような傷跡と黒っぽい痣が、もう会えないスイの存在を感じて、ちょっぴり愛おしい。

「傷が治ったってことは、この世界の身体なんだね」

雲雀が、自分のした話をよく覚えていることが、みちるには少し意外だった。
他人と群れることを嫌う雲雀の興味を惹く話題といえば、勝負事と強い相手と、並盛の風紀くらいだ。

僕の隣に来ればいいんだ――信じられないことを言われた記憶が、不意にみちるの脳にフラッシュバックした。

雲雀の言葉の真意は知らない。
だが、彼なりにみちるの存在に興味を抱いていることは明白だった。みちる自身も、それは自覚している所だ。

「わたしは、異世界の人間じゃなかったんです。最初からこの……並盛に住んでいた千崎みちるで……」
「……」
「……雲雀さんと会った後のことは、ちゃんと覚えてます。……ッ、」

なんて気まぐれなんだろう。みちるは驚いて表情を強張らせながらそう思った。
みちるの目に視線を合わせるでもなく、雲雀はみちるの右腕の傷跡に指先でふれた。

「き、きいてくれてっ…ますか…!?」

くすぐったくて、鳥肌が立って、みちるはひっくり返りそうな声でそう尋ねた。
雲雀は「いいよ、もうわかったから」と返事をして、顔を上げてみちるの目を見つめた。

「確かめようがないから……やっぱり傷をつけておけばよかったかな」

――きみの身体に。
雲雀の付け加えたその言葉の、声音が、ねっとりと色っぽくて、みちるは耳まで熱くなり、自然と涙が滲みそうになるのを必死にこらえた。

口ではわかったと言ったのに。
信用されているのか、されていないのか、わからない。
それでも、どこまでも自由な雲雀に、みちるは安心してもいた。自分の知っている雲雀は、やっぱりこの人だから。

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