どっちのものか、もうわからない。
獄寺の腕の中でみちるは、身体中を叩くようにうるさく鳴り響く心臓の音を聞いた。
たぶんこれは、わたしのものだけじゃない。
そう自覚する度に、みちるの拍動は加速するような心地がしていた。

「………お前…」
「……え…?」
「……なんつー顔すんだ、馬鹿……」

「か…顔……!?」

聞き捨てならない。
自分は無自覚のうちに獄寺を煽った……のかもしれない。
大して美人でもない、華やかでもない、自分の顔の造形を思い出しながら、みちるはグルグルと混乱の渦に落ちていった。

獄寺の手は、みちるの背中を優しい手つきでさすっていた。
みちるはそこで気付いた。自分は緊張と動揺の中、ほとんど半泣きのような呼吸で獄寺と向き合っていた。
みちるの呼吸のリズムがいくらか安定して、静かになってくると、獄寺はゆっくりとみちるの背中に回る腕を解いた。
そして、みちるの正面から彼女の表情を伺いながら、小さな声で言った。

「……やだってなんだよ」
「へ……」
「さっき言っただろうが」

獄寺は、心に少しでも引っかかったことはうやむやにはしておけない性質の人間のようだ。
みちるは近い距離で獄寺の整った顔に向き合う形になり、正直それどころではないと内心で悲鳴を上げながら、言葉を探した。

「ごっ、獄寺くんのことが嫌なわけじゃ……」
「……ふーん」
「…………」

ここでどう答えるのが正解なのだろうか。
獄寺はみちるがごまかすのを許さないだろうし、見破られてしまうのは明白だ。
だが、馬鹿正直に答えるには、みちるには自分の感情の処理が追いついていなかった。

最も嫌なのは、獄寺が機嫌を損ねてしまうことだ。

「……まぁ、いいよ。さみーし、帰るか」
「…えっ」
「ずっとここにいる気かよ。遅くなっちまうし、行こうぜ」

予想もしていなかった獄寺の行動に、みちるは少々面食らいながら、先に歩き出そうとした獄寺の隣に慌てて並んだ。
みちるは恐る恐ると言った様子で、獄寺の顔を伺い見た。特段、不機嫌な様子にも見えない。

「…………答えたくねーんなら、別にいい」
「……え……」
「……さっきの話も。言いたいことも、ないんなら別に」
「な、……ないんじゃないよ……ごめんね」

その獄寺の言葉は、みちるの気持ちを察してのものか、やせ我慢なのか。
みちるは獄寺の横顔を盗み見ながら、考えていた。そして辿り着いた答えは後者だった。

「何謝ってんだよ」
「……獄寺くんみたいに、ちゃんと言えなくて、申し訳ないって思ったんだよ」
「……はあ?」

獄寺が目を丸くする。
みちるは大きく息を吸い込み、そして吐いた。
獄寺は、いつだって言葉が足りているほうではない。短気だから、感情任せな言動で誤解も多い。
だけどいつだって、みちるに対しては彼なりの優しさに満ちていた。
今日の獄寺はいつになく、正直すぎるくらいにみちるに気持ちをぶつけた。
その愚直な甘さに、みちるがグラグラに混乱するほど。
獄寺が何らかの覚悟を載せたことは明らかだった。
みちるは自分への自信のなさゆえに、獄寺のそれを優しさとしか処理できないでいたが。
それでも、彼女を猛烈に揺らしたのは間違いなかった。まるで吹き荒れる嵐のように。

「…………獄寺くんの言ってくれたことが全部……夢かもって……信じられないくらい、わたしのことを思ってくれてて」
「………………」
「う、嬉しいのは、もちろんそうなんだけど……身体がむずむずして……これ以上欲しがるのが、こわくて」

変えられてしまうことが、怖かった。
きっとそういうことだったのかもしれない。
先程みちるが向き合った獄寺はあまりにも直情的で、欲しがってしまったら――みちるから手を伸ばしてしまったら、取り返しがつかないような、そんな危険を、本能的に感じた。

「それで咄嗟に、“やだ”って、言っちゃった……」

それは、急ブレーキだったのかもしれない。みちるはそう思った。
山本と向き合った時、自分の中の気持ちと相対することを、みちるは拒否した。

「…………怒ってたら、傷つけてたら、教えてほしい…わたし、直すから、……気を付けるから」

今日のことだけじゃない。
今までのことも、これからのこともそうだ。
獄寺は優しい。そして自分は鈍い。

獄寺はしばらく何も言わなかった。
それがみちるの不安を煽ったが、みちるは勇気がなくて、それ以上何も言えなかった。
とぼとぼと、揃わない二人分の足音が夜の静寂に小さく鳴る。
肩が触れ合うような距離を並んで歩きながらも、もう二人は手を繋いではいない。

「……あのなぁ」

獄寺がそんな言葉で、話を切り出した。

「気にしすぎ。お前が謝る必要なんてねーし、怒っても傷ついてもいねえ」
「そ、……そう。ならよかった」
「……怖いなら言え。つーか……他の奴には言うんじゃねえぞ」

みちるが、獄寺の返答にほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間で、彼の言葉の真意を掴み切れず、どういうことかと首を傾げた。

「俺も、その……傷つけないように、したいから」
「え?」
「…………危なっかしい顔してた」

ものすごくオブラートに包んで、獄寺はその表現を選んだのだろう、が。
みちるは、獄寺の耳が真っ赤なことに気付いてしまって、慌てて正面を向いた。
激流のように、先程の獄寺の逞しい腕の感触と熱さがみちるの中に蘇って、みちるもまた熱い頬を持て余した。

(……わたしの顔見て、危なっかしくて、抱きしめるって…………)

――わたしは相当物欲しそうな顔を、していたってことなんじゃないか?
もう考えれば考えるほどドツボにハマりそうで、みちるはがくりと項垂れ、自分の頬を両手で包んだ。とてつもなく熱い。


獄寺の両腕にきちんと包まれたのは、初めてのことだ。
山本や雲雀と比べて細身な体躯でありながら、その両腕も体幹も、みちるからしたら立派な“男の子”のそれだった。

どうして獄寺くんには、あんなにすらすらと白状してしまえたのだろう。

「やだ」という言葉の意味も、もらった言葉の嬉しさも。
みちるは山本には何も言えなかった。緊張のあまり尻餅をついた時、自分の身体と心に起こった緊急事態の理由を説明できなかった。

(二人は全然違うんだから……そういうことも、あるよね)

獄寺と繋がっていた手から繋がる熱が――わけもなく怖くなった。それは確信的なものだったのに。
それでも、傷つけないと言ってくれた獄寺の、優しさを信じているから、なのだろうか。



欲しがらないでほしい。
逃げたくなってしまうから。

そんなみちるの心の奥底など、みちる自身も知らない。

千崎みちるは一旦、背中を向けることにしたのだから。

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