みちるは、今度こそ“見ていなかった”。
了平の勝負のときのように、大切な仲間が傷つけられる様を見ていることなどできない。
刃物で、電撃で、身体を傷つけられ血を流す。
そんな生々しい光景が目の前に広がっていて、しかもそれが五歳児のランボに向けられたものであるなら、みちるは、目を固く瞑り両手で耳を塞ぐより他はなかった。

勝負は、とっくについていた。
10年後のランボが現れ、更に20年後のランボが対戦相手を圧倒していた光景は、ついさっきまでの話だった。
レヴィ・ア・タンの剣がランボを貫かんとする瞬間、みちるはもう涙を流していた。

どうせなら、力が欲しかった。

未来を見通すことができたって、それでわたしは自分で、その力を活かすことはできない。

何も護れない。
この掌には、ひとつだって何も残らない。


「みちるっ、…おい、大丈夫か?」

その場に膝から崩れ落ちて震えるみちるの肩を叩き、声をかけたのは、山本だった。
みちるが恐る恐る顔を上げると、山本は「泣き虫だな」と言って、にこりと笑った。
みちるの頬の涙をあたたかい指で拭うと、そのまま彼女の腕を掴み、引っ張り立たせた。

「大丈夫だぜ。怖くない」
「……、」
「ほら、あれ見ろよ」


仲間が傷つくのは嫌なんだ。
そう、力強く言葉を発したのは、「沢田…くん…」

きらきら輝く憧れの視線を向ける獄寺が、真っ直ぐにツナを見つめていた。

そうだ。あの人が、彼らの…
わたしの、ボスだ。



しんと、一瞬の静寂が辺りを包み込む。
決して大声ではない、しかし不思議と、光線のようにその場を通り抜けた、声があった。

「ほざくな」

次の瞬間、何か強い衝撃波のような力が、ツナの身体を吹き飛ばした。
そしてその場に現れたのは、ヴァリアーのトップ、ザンザス。
みちるは緊張から、ごくりと息を飲み込んだ。

ツナの眼差しに、嘲笑を向けた。
雷だけでなく、大空のリングまで取られてしまった。
9代目に危害を与えたと疑われる発言をした。

その全てを、みちるが聞いていた。
去り際にザンザスはみちるを一瞥した。

『力のなかったお前が成しえなかったことを、俺が証明してやろう』

ザンザスとしては、この言葉を向けた矛先は“異端の姫”であったのであろう。
だが不思議と、みちるは彼のその言葉を覚えていた。


このリング争奪戦に負けたとき、ツナの大切なものは全て消える――


破壊によって手に入るものが、永遠のものだと思っているのなら。
わたしは、ザンザスを許さない。
証明なんか、必要ない。

「破壊するための力なんか、わたしは見たくない。そんなの、いらないっ…」

その言葉は、もうこの場にいないザンザスには届くことはなかった。



* * *



翌日、みちるは保健室の扉を叩いた。
獄寺が、晩のリング争奪戦の特訓をしているから。

…ではなく、体育の授業のハードル走で転んで、膝を擦りむいたから。

「みちるちゃんじゃねーか。うわ、派手にやっちまったなぁ」
「はは…」
「手当てしてやるからそこ座んな」
「はい、お願いしま…」

みちるがそう言いきる前に、どこからか窓を勢いよく開き、地面に着地したような音が聞こえてきた。
みちるは思わず視線を窓の方向へ向けたが、そこには窓ではなく、保健室のベッドと半開きの仕切りカーテンがあった。
その向こうの窓はちょうどカーテンに遮られて見えない。

「あぁ?おい隼人、何やって……」

シャマルが消毒液とガーゼを手に持ったまま、仕切りカーテンを勢いよく開いた。
しかしそこには、獄寺はおろか、誰の姿もなかった。全開に開け放たれた窓を残して。

「……獄寺くんがいたんですよね?」
「ったく、中坊が… みちるちゃんが来たから逃げやがったな」

みちるの表情に一瞬、陰が差す。
シャマルはすかさず「気にすんな。あいつが悪いんだ」とフォローを入れた。

「どういう意味ですか?」

みちるの正面の椅子に足を開いて座ると、シャマルは「沁みるけどちょっとガマンな」と言いながら、消毒液をガーゼに含ませた。

「修行で壁にぶち当たってる…ってほどでもねーんだけどな。一人で新技の完成形を考えてんのさ」
「……」
「それがうまくいってねーんだろ。そんなかっこ悪ィところ、あいつがみちるちゃんに見られて平気なわけねぇ」
「そう…ですか…」
「何度も言うようだけど、みちるちゃんがしょげることねーからな。あいつがムッツリなのがいけねぇんだ」
「か、関係ありますか、それ」

わかるようなわからないような。

「で、みちるちゃんは?なんで怪我なんかしたんだ?」

みちるは運動に対して鈍いところはあるが、不用意に怪我をすることなどない。
現に、こうして正式な理由で保健室を訪れたのは片手で数えるのに足りるほどである。

「……最近は、落ち着かないことのほうが多いですから…集中力が足りなかったんだと思います」
「今夜は隼人の勝負だしな」
「…獄寺くんにかける言葉が見つからないから、できればまだ会いたくないと思ってたんですけど」

それが、いわゆるフラグだったのだろう。
まんまと、みちるはここに来る羽目になってしまった。
だが、予想に反して、獄寺の姿はここにはなかった。

ヴァリアーとのリング争奪戦は、現時点で1勝2敗。
獄寺が負けてしまったら、もう後が無い。
加えて、新技はまだ完成していない。
今、彼の身体にのしかかっているプレッシャーは、半端なものではないだろう。

獄寺に今必要な言葉はなんだろう。
ズキズキ痛む膝を引きずりながら、保健室への廊下をゆっくりと歩きながら、みちるは必死に考えた。
獄寺が保健室で修行をしていることは知っていたからだ。

「顔合わせづらい理由でもあるのか?」
「ありません… けど、その、なんて声かけたらいいか」

頑張って、なんて。
詭弁もいいところだ。
獄寺くんが欲しいと思っている言葉は、きっとそれじゃない。
彼が、沢田くんのために頑張っていない時なんてないのだから。

「みちるちゃんのことだから、隼人がどんな言葉をかけてもらいたいかなんて考えてんだろ?」

図星。
みちるは返事の代わりに苦笑を浮かべた。
シャマルはいい加減なところもあるが、みちるにとっては理想の“保健室の先生”だった。
いつだって、怪我の手当てだけではなく、心のほうを解きほぐしてくれる。

「隼人みたいな奴にはな、計算された言葉とか、態度とか、そういうのは通用しねぇぜ」
「計算?」
「要は、素直にぶつかるのが一番だってことさ」
「………」
「みちるちゃんが一番言いたいことを言ってやんな」

みちるは、ふと思い出した。
以前、骸に監禁される前に、獄寺と気まずい別れ方をしてしまったことがあった。
ディーノからの通達で、昇進してイタリアに帰る話があると相談を受けた。

このときみちるは、獄寺がしたいようにすれば結果は上手くいくと、“知っていた”。
未来を見ることができたから。獄寺の答えを知っていたから。
だから、獄寺が最良の選択をできるように促した。
だが、獄寺はみちるのその答えに不満を露わにした。
彼が求めていたのは、みちるが寂しいかどうか、その答えだったのだ。

「わたしは…」

だが今は、みちるとしては状況が違う。
もう、未来を見ることができないから。
思い出すことができないから。
もう、獄寺の新技の形を、今夜の勝負の勝敗すら、忘れてしまったから。


「勝敗なんかどうでもいい。獄寺くんが、痛い思いをしなければ、それだけで、いいです」


わたしが最初から求めていたのは、これだったのかもしれない。
余計な情報なんかいらない、そのままの千崎みちるを求めてくれるまっすぐな感情を。

獄寺隼人は、それを持っている。

 | 

≪back
- ナノ -