次の日、病院に出かけて行く山本くんの背中を、あたしは黙って見送った。
それしか、できなかった。



早く、病院に入院している人が元気になりますように。

あたしはそれだけをずっと願いながら、両手を握り合わせていた。
山本くんのためにできることは、ほとんどないんだって思ったから。
昨日、山本くんに拒絶されたことはもちろんショックだったけれど、あれは自業自得だ。

「そういえば…10年後のあたしって、いったい何してる人なんだろう…」

固く握ったままの手はそのままに、ぽつりと呟いた。
10年バズーカは、10年後の自分と入れ替わる道具だ。つまり、10年後のあたしはこの場所にいたのだ。
よく思い出せ。確か、ここに来たときあたしは、…山本くんの部屋にいた。
…なんで?あたし、ここで働いているの?
でも、マフィアなんてとんでもないものに関わってるつもりはないんだけど…


「10年後のきみは、山本武の恋人だよ」


その声色と、内容に、あたしは本気で幻聴なんじゃないかと思って辺りを見回した。
「ねぇ、コーヒー淹れてよ」その言葉と同時に、ことん、と目の前に置かれたカップ。
指輪のはめられた指を伝って、ゆっくり視線を上げていくと、そこにいたのは、

「雲雀先輩…」
「きみ、誰もいない大広間で何してるの」
「…すみません、部屋にいるのに飽きてしまって」
「よく追い出されなかったね、ここの使用人に」

そういえば、と思った。どうやら、彼の言う使用人とやらは今ここにはいないらしい。
だから、コーヒーを淹れる人材もいないわけだ。あたしは「はい」と返事をして、雲雀先輩のカップを手に取った。

ていうか、ていうか、っていうか!

「…え、こ、ここっこここっ恋人ですか!?」
「山本武の」
「ぎゃあああ嘘ですよ嘘ぉ!な、なんでそんな素晴らしいことにっ」

雲雀先輩は「うるさい」と言っただけだった。あたしは慌てて謝りながら、暴れまくっている心臓をどうにかしようと奮闘した。
深呼吸しながら、コーヒーを注ぐ。手が震えていたけど、なんとか零さずに済んだ。

「僕には、どこが素晴らしいのかさっぱりだけど」
「だ、だってあたし…」

山本くんのことが、好きなんです。
改めてそう思うと、顔に熱が集まってくるのがわかった。
あたしはコーヒーのカップを雲雀先輩に手渡しながら、どうにかして平静になろうとした。

「話はこれからだよ、千崎みちる」
「…はい?」
「10年後のきみ、振られたんだよ。一週間前に」

…カップを渡した後でよかった。
もし持っていたら、今頃落として粉々だ。

「…な、んで…?」
「さぁね。僕の部屋に泣きながら駆け込んで来たけど」
「…え、意外と仲良しなんですね…?あたしたち…」

雲雀先輩は「まぁね。不本意だけど」とぼやいた。くそう、10年経っても生意気な。

「…じゃあ…なんででしょう…」
「察しはつくじゃない。半月前に、山本武は例の任務だったんだ」

例の任務。「…殺しかけたっていう、」あたしが弱々しく呟くと、雲雀先輩は答えず、続けた。

「相手は瀕死の重体で、目覚める可能性は10パーセント以下だ」
「そんな…」
「このままだと、死ぬだろうね」
「っ、でも!」

あたしは声を荒げた。
このままだと死ぬ。彼は…山本くんは、“人殺し”になってしまう。

「でも…まだ生きて…」
「そりゃあ、死んだ人間の見舞いなんて行かないでしょ」
「…そうです、…まだ、死んでないんだもの」

あたしは言い聞かせるようにそう繰り返す。そして、さっきまでしていたように、両手の指を絡ませた。

「もしこのまま、死んだら」
「雲雀先輩っ!」
「10年後のきみは、人殺しの恋人になる」

え、と間抜けな声が出た。
…確かにそうだ。けど、それがいったいなんなのだ。


「山本武にとっては、そのことがいちばん耐え難いんだよ」


あたしは何も言えなかった。
「……どうして、そんなこと言えるんですか」やっと出てきた言葉。
雲雀先輩は、もうカップを置いて部屋を出ようとしていた。あたしは、答えを求めて、彼の背中に小さく投げかけた。

「きみたちを見ていればわかるよ」
「…きみたちって言っても…あたしじゃありません」
「きみはきみだろ。考えたらわかるんじゃないの」
「わ、わかりませんよ!」

山本くんが、あたしを人殺しの恋人なんかにしたくないって?
確かに彼は優しい。そうかもしれない。
けど、あたしはそんなに…そんなに、大事な恋人なの?
あたしは、そんなに価値があるの?

もし山本くんが本当にそう思ってあたしを振ったのだとしたら。
10年後のあたしは、それに気がついた?
あたしは、山本くんに振られて、簡単に引き下がったの?
山本くんから離れてまで、一緒に罪を背負う覚悟を捨ててまで、あたしは自分自身の未来を大事にするべきだったの?

「全然…わかりません……」


雲雀先輩が開けたドアは、彼が出て行った後、無情な音を立てて閉まった。大広間にあたしだけを残して。


それでも、たったひとつだけわかったことがある。
山本くんが、とっても優しい人だって。
さっき雲雀先輩が言ったことは、彼の推測に過ぎない。
でも、きっとそうだ。先輩は、あたしより長い年月を山本くんとともに過ごしてきたのだ。
何より、彼は、大人だから。

…今ここで、あたしだけが、子ども。
追いつけない、どうやったって埋められない。この、もどかしい10年の空白。
10年後のあたしは、山本くんの傷を癒せただろうか。…ダメだったんだろう。現に、今の彼は暗闇の中だ。

あたし、大人じゃなかったの?
大人は、人の気持ちを、もっと上手に感じ取れるんじゃないの?
雲雀先輩が山本くんの気持ちをわかってあげられるように、あたしは山本くんの気持ちをわかって、彼を救えるんじゃないの?
どうして、あたしには、できないの…?

ぼろぼろと涙が出てきた。…止まらない。
泣き虫なのは、あたしが、子どもだからだろうか。

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