精神の美 1/3
(こちらの話はゆり様より頂いた『憧れのあの人 2』の色無雫視点です。作者:依) 朝練の片づけを済ませ、登校の遅い生徒たちに混ざりながら教室へと向かう。たしか今日は朝読書の日だったか、なんてぼんやり考えながら前や横の眠そうな足取りを真似ていれば、教室に着いたのは朝読書が始まる五分前だった。
数名がまだ揃っていない教室は薄暗い。蛍光灯が一つとしてついていないのは快晴だからだろうか。朝の陽光に照らされたなかで、僕や葵くん、ちひろちゃんの席を含む窓辺の
机上は冴えた光が、そこから離れていくにつれ、ぼう、と薄れていく反射光は、全体で見ると真珠の表面を
彷彿とさせた。
綺麗だねぇ。心の中だけで呟き、小気味のいい音を鳴らしながら電気のスイッチを一つずつ潰すようにオンにしていく。明かりがつけば、今まで普通に過ごしていた生徒たちも室内が暗かったことに気づいたのか、操り人形のように揃って上方に視線を持ち上げた。
すべての蛍光灯が白い光を放つ頃には朝の真珠はすっかりと飲み込まれて趣も何も無い淡白な人工光が
机上を照らす。宝物をこの手で破壊してしまったようで、残念な気持ちが喉奥に渦巻いた。
複雑な表情を見せてしまわぬよう、目の前の黒板へと視線を移す。日直欄は空白。前日のものが綺麗に消されたきり深緑一色の海が広がるその場所に、手近にあった真新しいチョークでヒールの歩行音を澄ましたような音を乗せて記していく。今日の日付、曜日、日直――風峰、色無。
日付欄のやや斜めに倒れるさらりとした英数字に比べて、曜日や日直欄の漢字はテキストをなぞったようにほとんど癖が無い。この不釣り合いさをテツくんに指摘されたのはいつだったか。僕の書く日本語を真ちゃんは見易く好ましいと言い、涼ちゃんは機械が打ったようで気持ち悪いと言い、大くんはつまんねぇと言った。……人の書く文字を気持ち悪いやらつまらないやら言うとは言い度胸をしているよねぇ。
「おはよー色無君」
「おはよう、ちひろちゃん」
朝練があるために僕が教室に戻ってくるときにはクラスメイトのほぼ全員が教室には揃っており、僕が席に着くまでにそばを通る席の人は挨拶をしてくれる。そのなかでもちひろちゃんは前の席だからか、何か作業をしていても欠かさずに――場合によっては僕が教室に入ったその瞬間に――挨拶をしてくるものだから、よく気づく子だと思う。悪く言えばレーダーでも付いていそうで怖い。
僕が着席すると、ちひろちゃんは窓を背中に、体を横に向けて「日直やだね」と黒板の右隅を
一瞥した。
「学級日誌が少し
億劫だよ」
「お、色無君でも嫌だって感じるんだ。意外かも」
「あはは、誘導尋問の真似ごとかな? 僕だって面倒に思うことの一つや二つあるさ」
例えばこうして優等生の顔をすることとか、ねェ? そんなことは口から出ないように飲み込んで、ぐるりと自分の席の周囲を見渡す。
後ろの席の二人――葵くんと柿原ちゃんは二人揃って朝っぱらからワークに向かっていた。見たところ
昨日出された課題だから、やり忘れたかやる時間が無かったかだろう。葵くんは後者な気がするけれど、柿原ちゃんは……ああ、もしかしたらやる場所を間違えていた、なんてこともあるかもしれない。
「葵くん、ここの前置詞間違っているよ」
「えっ。あ、色無……」
並び替え問題を解いていた葵くんに、指摘するか一瞬悩んだものの、その一つ前の大問である前置詞穴埋め問題を指差す。「はよ」とワークを押さえていた左手を手首だけ動かして上げた葵くんに、「ん、おはよう」と返した。
「……前置詞間違ってるか? 『私たちはその問題について話し合った』って『We discussed about the matter.』だろ?」
葵くんは顎先でシャープペンシルをノックしながら、「『〜について』がaboutだからこの
括弧にはそう埋めたんだけど……」と険しい表情でワークを睨む。その考えは間違いでは無いんだけどねェ。
「これ、引っ掛け問題なんだと思うよ。『〜について議論する』って意味のとき、discussって単語は自動詞じゃなくて他動詞になるんだ。だから、その後に目的語を導く際の前置詞は不要だよ」
「てことはこの
括弧にはバツを書けばよかったのか……。『We discussed the matter.』……いやらしい問題だな。しかも脇に模試頻出マークついてるし」
aboutと書かれていた
括弧内は消しゴムで消され、代わりにクロスマークが入る。火神くんは帰国子女でもそういうのって特に気にしなさそうだよねぇ。細けぇんだよ、なんて言う様子が想像に難くない。
「あはは、でも今回のことでもう間違えないでしょ? これが出題されたらラッキーとでも思っておけばいいんだよ。……あ、でも、同じ訳でも単語がdiscussじゃなくtalkだったら、aboutは必要になるからね」
最後に「自動詞だから」と付け加えると、葵くんは「オッケー、覚えた」と言って解きかけていた問題へと戻る。そのまま急くように数問を解くと「色無って英語得意だよな」と再び一瞬だけ顔を上げた。
「そう? 別に点数にあまり差はつけていないと思うんだけど……」
勘違いだったかなァなんて前回の定期考査の点数を思い浮かべる。そもそも教科によって問題の難易度に差はあったが、どれも通知表でA+を優にとれる点数になるように答えているはずだ。
「うわ、僕は全部できますって嫌味か?」
「ええ……どうしてそうなるのさ……」
「じょーだん。お前に限ってそんなこと思わねーよな」
ワークに視線を落としながらも、からからと葵くんは笑う。けれどその無垢さに笑う気も起きず、葵くんの視線が僕に向いていないことをいいことに電話のように声の調子だけで笑ってみせた。
「たしかにどれも点数はいいと思うけど……俺が訊いたときとか、英語が一番スラスラ詳しく教えてくれる気がして」
「……そんなことを考えていたんだ? うーん、じゃあ今度から得意科目を訊かれたら英語って答えちゃおうかな」
「おう」
葵くんの普段のノートよりも崩れた文字が並ぶこのページをざっと見る限り、ほかに間違っている箇所は二つほどだろうか。妥当な正解数だと思う。どちらも先ほど指摘した問題のような簡単に修正できる場所ではないため、口に出せば急いでいる葵くんの時間を奪いかねない。
それに、葵くんに限ってそれはしないとは教師も思っているはずだが、少しは間違っていたほうが答案を写したとも思われないに違いない。……まァ、いくら誤りを作っても工作が下手な人はバレると思うけどねぇ。
「んじゃ、苦手科目は?」
「……古典はほかよりも苦労しているかも」
「あー……たしかにな。中学んときと比べものになんねーし。あんときはとりあえずワークして暗記さえできればいくらでも点とれた……。えーっと……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり?」
語末に疑問符が付いた葵くんに、くすりと小さく笑う。ちゃんと合ってるよ、なんて言おうと口を開きかけると、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす!」と柿原ちゃんが顔を上げてシャープペンシルをピシリと葵くんに向けた。それだけ言うとすぐに何事も無かったかのようにワークへと向き直るものだから、葵くんはぽかんと口を開けて数度瞬きをする。
「んー……。おごれる人も久しからず……ただ春の夜の夢のごとし?」
後ろから聞こえた声に視線を戻すと、ちひろちゃんがわずかに首を傾げていた。その表情には不安そうな色が
滲む。そういや涼ちゃんや大くんも、おごれる人も、からが覚えにくいと
溢していたこともあったか。
にしてもどの学校でも等しく平家物語の冒頭部は暗記させているらしい。自らの作品を必修のように暗記される作者は光栄だと喜ぶのだろうか。それとも読み手の感情に関係無く記憶したものだからと冷たく吐き捨てるのかもしれない。
「……たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに――風の前の塵に同じ」
嫌な話だ、と口の中に広がった苦い何かを飲み下す。風の前の塵なんてものは盛者にもなれなければ、たけき者と呼ばれることもないというのに。昇れぬものが衰えるわけがないのだ。平家物語を著したどこかの作者が心の底からそのように考えているのであれば、僕とは相容れない存在に違いない。
そんなことを考えている僕とは違って、ちひろちゃんは「リレー成功だね」なんて朗らかな笑顔を浮かべた。その笑顔を真似して「やったね」と僕も微笑む。
「そういえば席替えっていつするんだろう」
ワークに真剣な最後列二人をそっとすることにして体制を戻し、ちひろちゃんに問いかける。話題を変えるためなら何でもよかった。
「え……席替え、したいの……?」
てっきり「うちの担任面倒臭がりだよね」なんて言葉でも返ってくると思っていたはずが僕が来る前の教室のような
仄暗い声を出したものだから、思わず口をついて出そうになった驚きの声を「逆だよ」と
咄嗟にすり替える。
正直くだらないとは思ったものの、ここで僕が肯定すればそれこそ真珠のような涙を
溢してしまいそうな表情だった。こんな大勢の前で僕が泣かせたなんてこと、やめてよねぇ……。
「いつまでこの席でいられるのかなって思っただけだよ」
哀色が差した声を作って手を顔に伸ばし、
溢れそうだったそれを親指で慎重に拭う。そのまま、『泣かないで』なんてリップシンクすれば自分でもようやく気づいたのか「ひゃい!」なんてよくわからない返事が来た。左手で包んだ頬が
掌から伝わるほどに熱を帯びる。
別に僕だってすべて口先だけで言ったわけじゃないんだよぉ? 担任がずぼらなせいで何度日直が回っても席替えの気配すらないものの、一緒に昼食を摂っているのは葵くんだし、今さらほかの席になるよりこのままのほうが楽だとは思う。席替えをしたくない、とまではいかないけどねぇ。どこでだって特に変わらない。
「……おっと、朝読書が始まるね」
「怒られないうちに前を向くといいよ」と触れていた手をゆっくりと離す。ちひろちゃんは今度こそ「はい!」と普通の返事をして僕に背を向けた。うーん……今度こそ、なんて言ったけれどそもそもちひろちゃんは僕に敬語なんて使っていなかったねぇ。
スクールバッグに入れていた上製本を取り出して、スピンを挟んでいたページを開く。ここは気に入らないな、なんて時折蛍光マーカーでラインを引いてから空白に修正を書き込んでいれば、ただの本が教科書のように見えてくる。
以前テツくんに見られた時、「キミは何てことをっ……それください」なんて迫られて、珍しいその必死さに思わず走って逃げてしまったのが懐かしい。あんなに欲しがるのならもう使わないものは誕生日にでもあげてしまってもいいかもしれない。
このクラスは二十五人だ。新設校で人が集まりにくいからなのか、少ないと感じるのは気のせいでもないだろう。縦五人が五列、奇数列だからかそれともこれがこの学校の普通なのか、隣とはくっつかずに机は一つずつ均等に間を開けている。
そんな1−Cの日直は、列も奇数でクラス全体でも奇数だというのに二人体制を敷いている。おかげで学級委員長の僕が二度課せられることになった。マネージャーをしておいてこんなことを言うのもおかしな話と思われるかもしれないが、雑用は好むところじゃない。
ペアの決め方は至ってシンプルにくじ引きだったものの、「二回やってもらう代わりに委員長様に引かせてやる」なんて生徒の名前が書かれた紙が入った箱を僕に押し付けてきた担任はただ自分が
億劫になっただけに違いない。
二枚ずつ引いては発表していき、そのペアを順にメモしていった。ルーズリーフに簡単に記しただけのそれは、担任は後でパソコンで打ち込んで日直表を作成するなどと言っていたものの、僕が涼ちゃん曰く気持ち悪い文字を書くせいか、それともそこでもまた面倒臭がったのか、はたまた両方か、「このまま使えるわ」と言って最後にはルーズリーフ自体を壁に画鋲で貼り付けたのだった。
閑話休題、一度箱の中に戻された僕の紙が再び引かれたのが、今回の日直の相手――
風峰凉香とだった。たしか風峰ちゃんって呼んでたはずだよね、とちひろちゃんの隣の席、すなわち僕の右斜め前の席で本を読み
耽る女子生徒の後ろ姿を見ながら考える。
「十番目の日直は、風峰さんと……あ、僕です」なんて言ったときには青い顔と赤い顔を繰り返して、結局しおしおと
俯いていたっけ。
あっは! 大変だねェ? 純情ってのも生きにくそうだ。
「じゃあ今日の日直はー……っと、お、色無と風峰な」
短い朝読書の時間が過ぎ、ショートホームルームにていつものごとく担任は日直を告げた。「んじゃこれ頼んだ」と横着して教卓から動かず学級日誌を持つ腕を伸ばした担任に、一拍の後立ち上がりそれを受け取る。
彼女のほうが近いんだけどなァ、なんて思ったものの、担任から日直を告げられた瞬間にびくりと肩を跳ねさせて夢中になっていた読書を中断していたし、早くも緊張していたのかもしれない。
担任みたく無精者ってわけではないだろうから悪印象を持ったりはしないけどさ。まァ、精々僕の足は引っ張らないでよぉ? ねぇ、風峰チャン?
(P.25)