月に迎ふ 1/2
(こちらの話はmai様より頂いた『色無君とお月見団子』の色無雫視点です。作者:依)「天高く馬肥ゆる秋……ねえ」
一人帰路に就きながら、遠くの小さな月に手を伸ばす。まだ夜と言えるような時間ではないが、十月にもなれば部活帰りの街はすっかり夜の
帳が下りてしまう。空気もここ一週間で随分と冷え込み、手をポケットに入れずに歩くと、何かに触れずとも自分の手が冷たいことがわかるようになった。
寒いのは嫌いじゃない。寒すぎたり急激に冷え込まれるのはあまり好まないが、耐寒性は人よりもあると思う。まァ、その分暑いのは嫌いなんだけど。
十月三日土曜日――どうやら今夜は中秋の名月らしい。
今日は中学二年生と三年生、そしてその保護者を対象にした学校説明会があった。しかし生徒ボランティアが十分に集まらなかったらしく、最終的にはいつもの如く学級委員長という都合のいい肩書きを濫用した教師によって、わざわざ部活を抜け出してまで午後二時から一時間半にも渡って拘束されることとなった。葵くんの「ならオレもやるよ」という立候補で、酷く退屈な午後を過ごすはずが退屈な午後までで滑り止めがかかったことを、幸いのうちに含むのもアリだと思う。
閑話休題、やや緊張の色が見える中学生を案内しながら葵くんが嬉しそうに言っていたそれを、満月には一日早いけれど、なんて思いながら特に感慨もなく聞いていたのだった。
僕の家でももちろん季節の行事は行うが、それらに楽しみがあるわけでもない。むしろ母親が気に入るように僕という人間を着飾らなくてはならないのだから、憂鬱と言ってしまっていいだろう。
都会の天は決して高くなどなく、薄く黄ばんだちっぽけな月は僕にとって名月と呼ぶに値するようなものでもなかった。
「帰りたくないなァ」
遠回りして
人気の無い路地にローファーの靴音を響かせる。心
許ない街灯がぼんやりと僕の姿を薄い黒色でアスファルトに貼り付けた。少し前までは
灯りに群がっていた蚊も今はもう見えない。
名月のこよひに死ぬる秋の蚊か――中秋の名月に詠んだと言われる
正岡子規の俳句を心の中で
掬い上げた。
「あ! いろに!」
細い路地から元の道へと戻って歩いていると、不意に幼い子供の声が聞こえた。この声は、たしか――。脳内でページを
捲りながら該当する人物を探し出す。
そもそも僕に小さな子供の知り合いなんて、数えるほどしかいないんだけどねェ。ああ、べつに子供が嫌いなわけじなないよぉ?
「色無のにーちゃんだ!」
「こら待て! 急に走るな!」
続いて別の二人の声がした。振り向いた直後、下半身に軽い衝撃が訪れる。どうやら晃くん――葵くんの弟だ。まだ片手でも数えられる年齢だったか――が駆けてきたらしい。「晃くん、こんばんは」なんて、何となくテツくんが笑ったときに見せるような顔をイメージして作ってやれば、「こんばんは!」と保育園児らしい
溌剌とした挨拶が返ってきた。
元気のいい挨拶にその笑みを深めて幼い子供特有の毛量の少ない細くて絹のような髪を撫でると、晃くんは嬉しさの表現なのか、高い声で笑いながら何度か跳ねる。彼は子供によく見られるような痩せ型だが、その細い足首に目をやるたびにいつ体重に負けて崩れてしまうだろうかと気が気でなくなってしまう。こんなの、僕がコート上でのようにほんの少し悪意を持って動いてしまえばたちまちぽっきりと折れてしまいそうだ。今となってはもう慣れたが、初めはどうにも扱いがわからなくてわかりやすく戸惑っていたような気がする。僕に妹や弟はいないのだ。
にしても、よく周りを見もしないで歩道も車道も分かれていないような道を駆けてくるのはいただけないなぁ。このような小さな子は心
許ない街灯の
下ではドライバーの目には映らないかもしれない。……
流石に僕のところに来ようとして事故、だなんて遠慮したいよねェ。僕だって全く心が痛まないわけじゃないんだ。
彼がもう飛び出さないように「元気に挨拶できて偉いね」と取った柔らかい小さな手はカイロのように温かくて、改めて年齢の差を感じさせられた。
僕もこんなに手が温かかったのだろうか。考えていると手を繋いだ葵くんと秋斗くんが晃くんを追ってやってきた。きちんと車が来ないか確認してから早足でやってくるその姿に、立派にお兄ちゃんをやっているなァ、なんて緩く目を細める。「こんちは!」と秋斗くんが葵くんと繋いでいない方の手を僕に向けて舌足らずに挨拶をした。
「色無、部活帰りか?」
「うん。君たちは……食料品店の帰り?」
葵くんの腕から提げられた、食料品店のロゴ入りの半透明のプラスチックバッグ二つが、彼が持ち直すのと同時にぶつかり合ってガサリと音を立てた。小さな子供とはいえ五人兄弟だとやはりそれなりの量になるようだ。随分と重そうにも関わらず小分けをしないですべて一人で持つあたりが彼らしい。
「きょうね、おつきみ。おだんごだよ」
秋斗くんが葵くんとそっくりな形をした目を僕に向けた。今日は中秋の名月だから観月するのは理解できる。ただ帰路に就いていただけとは言えど、僕だって今さっきまで観月していたばかりだ。そして彼の言う“おだんご”とは月見団子を指すのだろう。けれどどうしてそれが僕の質問への返事になるのだろうか。
月見団子って食料品店に売っているものなのかな、なんて普段あまり行く機会が無い食料品店の売り場を頭に思い浮かべる。そもそも月見団子を食べたことがそう何度も無い。家では和菓子屋で購入された木箱の月見干菓子とうさぎ饅頭が置いてあることが多いように思う。まァ、僕が好きだからなんだけどぉ。
その和菓子屋は中央区に本店があり、新宿や渋谷、池袋などにも店舗を構えているから自分の足でもふらりと立ち寄りやすい。他県だと埼玉に茨城に千葉だったような。饅頭ならそこのものが特に好きって征くんも言っていたけれど、京都に店舗は無かったはずだから今度詰め合わせでも送ってあげよう。
「今からお月見団子作るんだよ! あ、色無のにーちゃんも一緒に作ろうよ!」
晃くんが繋いだ手を引っ張る。そのまま「にーちゃん、いいでしょ?」なんて期待の色を隠さない声色で葵くんに尋ねた。
……一緒に作ろうって言った? 月見団子を?
「色無がいいって言ったらな」
「え、月見団子って作るの?」
はしゃぐ晃くんを
宥めるように言った葵くんに、思わず答える前に質問を重ねる。「うん。せっかくだし」と昼間見せたような微笑みが街灯に照らされた。
本当に料理が好きなんだねぇ。僕にはその気持ちはわからないけれど。でもまァ、彼からしたら僕が持つ何かへの好意を共有することはできないだろう。しかし共有できないことが尊重できないことに繋がるわけではない。
「……作ったことないや」
どうしようか、と先ほどからポケットの中で静かに震えているスマートフォンを布越しに押さえる。どうせ家からだ。もともと今日は遅くなると伝えてはいたが、
流石にふらふらとしすぎたのかもしれない。ハウスメイドは半泣きだろうか。迷惑をかけちゃってごめんねぇ?
大切にされているのかそうでないのか、時々わからなくなる。いや、間違いなく色無雫は大切にして貰えているのだろう。むしろ大切にされすぎていると周りには言われるかもしれない。僕は間違いなく彼らに感謝をするべきで、実際に感謝はしている。しかし大切にされているのはあくまで雫という名の子供であって、俺でも僕でもないのだ。
「――いいよ。行く」
頷いて肯定の意を表すと晃くんと秋斗くんは嬉しそうに声を上げて跳ねた。子供の高い声はよく通る。「近所迷惑だ!」葵くんが焦って二人を止める姿に小さく笑ってみせながら、そっとスマートフォンの電源を落とした。
ねえ、色無でも雫でもない、ここにいる自分として戯れたって、少しくらい許されるでしょ……? あの人たちには帰った後で好きなだけ微笑んでやれば多分丸く収まるはずだから、さ。
ああ、それに月見団子を作るっていうのもなかなかに興味深いよねぇ! やりたいなんて言ったらすぐに準備してくれるんだろうけど、一人ならレシピを見るだけでも事足りるしぃ。
「色無のにーちゃん、手全然温まらないね」
彼の家までの道のりを歩いている途中、談笑しているなかで晃くんが不意に話題を変えた。晃くんは火神くんのバスケに一目惚れしたらしく、会うたびに部活での火神くんのことを教えてとせがまれるが久しぶりに会った今日も例外ではなかった。彼は小学校に上がったらジュニアバスケットボールチームに入りたいらしい。
しかし今日はもう満足したのか、それとも耐えられなかったのか、晃くんは僕と繋いだほうの手をまじまじと見つめてそう言ったのだった。
「寒かった? ごめんね」
咄嗟に晃くんの手を離す。たしかに僕が彼をカイロのようだと感じるのならば彼にとって僕の手は保冷剤かのように思えてしまうかもしれない。夏ならば歓迎だが、肌寒い今の時期にそれは迷惑だろう。
しかし、もっと早く言ってくれればよかったのになァ、なんて
掌を冷涼な空気に撫でられるのを感じるのも
束の間、予想とは違って彼はすぐに僕の手を取り直した。
「ううん、にーちゃんが言ってたよ。『手が冷たい人は心が温かいんだ』って! やっぱりにーちゃんの言う通り色無のにーちゃんは優しいんだね」
ふるふると彼が首を振る。へえ、そんなこと教えてたのか、なんて秋斗くんと楽しそうに話している葵くんを
一瞥した。にしても、優しい、ねェ……。
「あはは、嬉しいな。素敵なことを晃くんに教えてくれた葵にーちゃんにありがとうって言っておかなくちゃだ。今度今日のお礼に葵にーちゃんに僕の好きなお菓子を持たせるからみんなで食べてね」
僕が行くと決まった後に葵くんの手から
半ば奪うような形で取ったプラスチックバッグのうちの一つが歩く度にガサガサと音を立てる。
この光景って
傍から見たらどのように映るのかなぁ。僕と葵くんは
流石に兄弟には見えないしぃ……。うーん……まァ、怪しくは見えないはずだから特に問題は無いよねぇ。
「色無のにーちゃんの好きなお菓子、オレいつも好き!」
「本当? それは選んだ甲斐があったな。僕は葵にーちゃんが作るお菓子も好きだよ」
「うん! にーちゃんの作るお菓子好き!」
無垢に笑う晃くんが繋いだ手を大きく揺らす。小指の爪ほどもない乳歯が覗いた。
「これからもお菓子は差し入れるから、葵にーちゃんにもいっぱい食べて貰ってね。それで葵にーちゃんがもっともっと美味しいお菓子を作れるようになってくれたら晃くんも嬉しいでしょ?」
「嬉しい!」
遠慮しているのか、僕が何かを差し入れようとすると葵くんはいつも「作った分の材料費は貰ってるから!」と初めは断ろうとする。けれど僕が傷ついたような顔をすればわかりやすくあたふたとして長考し、しまいには「……ありがたく戴きマス」なんて受けとるものだから、笑いを
堪えるのに毎度苦労する。正直、それを見たいがために渡している節も否めないんだけどねぇ!
征くんでは絶対に見ることができない反応だ。もし「チームメイトと食べてね」と送ったときに「いや悪いよ。雫こそチームメイトと食べたらいい」なんて言われたら肌が
粟立つかもしれない。「ああ、ありがとう。美味しく頂くとしよう」くらいがちょうどいい。
まァ、高校進学後初めて送ったときのクッキーでは無冠の五将の一人が遠慮なしに次から次へと食べているところを別の五将が怒っている動画が送られてきたのには僕も引いたけれど。あれ一番小さいやつでも六千円、一番高いものは二万六千円もするのにねぇ。
無表情でその姿をカメラに収めていたであろう値段を知っている征くんはその後で彼らに値段を告げて楽しんだのだろうか。あれは洛山へ送るときは量も考えないといけないことを学んだいい機会だった。
「オレ、カステラ好きだった! かっこいい名前のおっきいカステラ! 愛美ねーちゃんはかっこいい名前のフルーツケーキが好きで、彩音ねーちゃんはかっこいい名前のバームクーヘンが好き! パサパサしてなくて凄いっていっぱい食べてた! でもね、にーちゃんはバターが何とか、ってここにしわ寄せながら食べてたんだよ」
晃くんが口をへの字に曲げて、短い指で眉間を指す。晃くんなりの視点なのか、歌舞伎役者さながらに険しい表情を作るものだから、葵くんに置き換えてみて思わず笑いを誘った。子供は表情豊かだ。
にしても、パティシエになりたいって言っているだけあってきちんと考えながら食べてくれてるんだねぇ。葵くんってば、偉いじゃん?
「か、かっこいい名前……?」
「天下統一!」
「あー……なるほど……。天下までは合っているね……」
子供から見たらかっこいい名前になるんだねぇ、と納得をする。正しい名前を教えてやると、彼自身もスッキリしたのか「それ!」と明るく叫んだ。
「んー、その三つは全部同じ銀座のお店のものだね。じゃあ次はそのお店のプリンとかどうかな」
「プリン好き!」
「
流石に学校ではキツいから、今度届けに行くよ。楽しみに待っていてくれる?」
「待っててくれる!」
「うん、ありがとう」
ご両親含めて眞井家は七人だったか。たしか八個入りがあったから最後の一つは争奪戦でもしてもらうことにしよう。葵くんは絶対に譲るだろうけど。
今頃はついに探しに出ているかなァ、なんて僕がわがままなばかりに苦労の絶えないハウスメイドに心の中で合掌をする。暗いけれどまだ時間帯は遅くもないのにねぇ。普段は門限などあって無いようなものでも、あらかじめ家族で過ごすと決まっていた行事の日に帰ってこない、連絡もつかないとなれば当然かもしれないけどさァ。
「……そもそもいい子なんて俺に合うわけが無いっつの」
片側だけ長い横の髪を指で巻いて
弄る。「色無のにーちゃん?」なんて心配そうに握った手に力を込めた晃くんに綺麗に作った笑顔を見せてやれば、つられるように葵くんと似た、人好きのする顔で彼も笑ったのだった。……兄弟、ねぇ。
(「ねー、にーちゃん。色無のにーちゃんの手からにーちゃんの手と同じ匂いがするー」)
(「ん゛ッ」)
(「違うよ晃少年、君のにーちゃんの手から僕の手と同じ匂いがするんだよ」)
(「ん゛ん゛ッ」)
(「何が違うの?」)
(「僕がマーキングされた側ではないってことかな」)
(「まーきんぐ?」)
(「お、おま……! 色無お前たまに変なこと言うよな……!?」)
(「ただの“手が冷たい人”じゃつまらないかなと思って……。駄目だったかな……」)
(「いや、えっと、その……」)
(「あはは。プレゼント使ってくれているようで嬉しいよ、葵にーちゃん?」)
(P.41)