- ナノ -

08

徐々に意識が覚醒し、目を閉じていても明るさを感じる。ゆっくりと瞼を開けると、カーテンの隙間から差し込んだ日の光に照らされていた。

その光は目が覚めたばかりの私には眩しすぎて、逃れるように狭いベッドの上で体を動かすと

「名前、起きた?」

彼の声が直ぐ側で響いた。

そのまま声のする方へ寝返りをうち、シーツの中で自分以外の熱を発するその人と向かい合わせになる。

角名さんは自分の腕を枕代わりにして私を見つめながら薄く笑った。
すっと伸びてきた手のひらが私の前髪を優しく掬う。おでこを掠めた彼の指はやはり熱い。

「おはようございます」

「おはよ」

私に比べてはっきりと発音する彼の声は先程起きたという雰囲気ではなかった。

「もう起きてたんですね」

「ん、ちょっと目が冴えちゃって」

「いつから起きてたんですか?」

「明け方には目が覚めた」

「……夜中の私とまるで逆ですね」

「そうだね」

彼の肩越しに壁に掛けている時計で時間を確認すると7時をまわったところだった。
数時間の間、彼は何を思って過ごしていたのだろう。

「そろそろ朝食の支度しますね」

温かい布団から抜け出そうと両手をついて体を起こそうとしたが、腰に角名さんの片手が触れる。
しっかりと筋肉のついた腕は見た目より重くて体と一緒に気持ちまでベッドへ戻されそうになった。

「もう少しこのままでいようよ」

「ずっと起きてたんでしょう?お腹空きませんか?」

「まだ大丈夫」

角名さんは私の腰に巻きつけた腕を肩に延ばしてぐっと引き寄せた。
私は簡単にバランスを崩してまたベッドの中に戻され、あっという間に組み敷かれてしまった。

口元は笑みを浮かべているのにその瞳には情欲を宿している。そんな目で見つめられると体の奥が疼いてそのまま流されそうになった。

ゆっくりと角名さんの顔が近付いてきたので、わずかな抵抗を試みようと唇が触れる直前に

「……私はお腹空きました」

そう告げると、近付いた顔がすっと離れて私を見下ろす。角名さんはしばらくすると軽く吹き出して

「そんなこと言う名前って初めて見た気がする」

と言ってくっくっと笑う。
私だってそんなふうに笑う角名さんは初めて見た。

考えてみれば私と角名さんが出会ったのはまだほんの一週間前。
一緒に過ごした時間をすべて足しても2日にも満たないだろう。お互いの事を何も知らないのは当然の事だ。

「だめですか?」

「ううん、そういうのもっと見せてほしい」

「じゃあ何か食べましょうよ」

「……それはあとで」

再び彼の唇が近付いてくる。今度は素直にそれを受け入れることにした。


次に目が覚めた時にはベッドには私しかいなかった。

随分と明るくなった部屋は朝に比べると室温も高くなっているはずなのに閑散とした寒々しさを放っている。

角名さんはどこへ行ったのだろう。

床に脱ぎ捨てられていたカーディガンを羽織り、一通り部屋の中を見て回ったが彼の着ていたスーツも荷物もなにも無かった。
確認しなくても分かってはいたが、最後に玄関を見に行くと彼の靴は無い。

もう彼は帰ってしまったのだろう。
私には何も告げずに。

ふとスマホの存在を思い出し、リビングのテーブルに駆け寄って画面のロックを解除すると一件の通知があった。

アプリを開くとそれは角名さんからのメッセージだった。

急な呼び出しが入って帰らないといけなくなってしまった事、鍵は玄関の新聞受けに入れた事が簡潔に書かれていた。

そのメッセージは次の約束について一切触れられていなかった。

先週は彼を駅まで送ったときに「来週また会おうか」と約束してくれた。予定を確認してから連絡すると言った彼の背中を見送りながら、また会えることが嬉しかったのに。

どんな返事をすればいいのか全く思い浮かばない。こちらから次の約束を催促して面倒な女だと思われるのは嫌だった。

働かない思考を揺り動かすべくバスルームへと向かう。
熱いシャワーを浴びてしまうといよいよ彼の気配は感じられなくなってしまった。

部屋に戻ると、はじめからここには私しか居なかったんじゃないかと思わせるような静寂が私を迎えた。


あれから、どこかへ出かけることも何かをする事も億劫で、でも静かなのは耐えられなくてテレビをつけた。

見たい番組があるわけじゃないのでチャンネルは変えず、放送していた野球中継をそのまま見ることにした。

今は交流戦の時期みたいだ。
特に贔屓のチームはないけど淡々と進んていく試合を見ていると気が紛れる。

試合が終盤に差し掛かった頃、スマホから着信を知らせる音が鳴る。

テレビを消してベッドに投げ出したままのスマホを手に取ると、吉岡さんからの着信だった。

「苗字、今どこにいるの?」

開口一番に私の所在を聞いてくるあたり、今から私を呼び出そうとしているのだろう。

吉岡さんの声とは別にいろんな音が聞こえる。彼女は外から電話をかけているようだった。

「家にいます」

「ひとり?」

「……ええ」

吉岡さんには昨日の浮かれた様子を見られているので恐らくその話を聞かれるに違いない。

「そっか、そっか。ちょっと出てきなよ、いつもの店で飲んでるから」

私の話をお酒の肴にされるのは目に見えていたが、今は誰かと一緒に笑って過ごしたかった。

「一時間後に合流します」


きっかり一時間後、吉岡さんの家の近くにあるスペインバルに着いた。

週末の18時、賑やかな店内に足を踏み入れる。もう顔見知りになってしまったマスターに挨拶のついでにビアカクテルを注文して、いつもの席に足を運ぶと吉岡さんと木葉さんが談笑していた。

「お待たせしました」

そう言って、吉岡さんの隣に座ると

「なにスカしてんだよー」

と、吉岡さんに肩を叩かれる。

「聞いたぞ苗字、お前昨日デートだったんだって?」

「どんな男?私達の知ってる人?」

二人してグイグイ質問してくるので
「少し落ち着いてください」といなした。

タイミング良く注文していたドリンクが運ばれてきたので三人で乾杯して喉を潤す。

そういえば、飲んでから気がついたが朝から何も食べていなかった。

アルコールはセーブしないと。

そう思いつつも彼女たちと一緒にいるといつものペースで飲んでしまう。

角名さんの話は適当にはぐらかすつもりでその名前も彼とはもう何度も体を重ねているという事も黙っていたのだが、二杯目のワインでポロリと彼の名前を口に出してしまった。

「えっ、角名ってあの角名倫太郎?」

木葉さんがその名前に反応するので、大人しく認めた。

「あー、苗字あの人と一緒に伊藤の結婚式の受付してたもんねぇ」

朗らかによかったねぇ、苗字と笑う吉岡さんに

「その節は……ご心配とご迷惑をおかけいたしまして」

と頭を下げると彼女は私に抱きついてきた。

「ほんと、あいつと別れてから心配だったんだから……よかったよ、本当によかった!」

と少し鼻をすすりながら話すので私までもらい泣きしそうになってしまった。

二時間後、陽気な酔っぱらいになった吉岡さんを木葉さんと一緒に家まで送り届けてから今度は私が送ってもらえることになった。

角名さんの名前を出してから木葉さんの口数が少ないのが少し気になる。

聞いてみようかと思っていた矢先に、木葉さんの方から口を開いた。

「あの……さ、黙ってようかとも思ったんだけど」

「……角名さんの事ですか?」

「うん」

木葉さんがこんなに言葉を濁すのは珍しい。

「何かあるなら教えて下さい」

私がそう言うと、しばらくの沈黙の後、木葉さんは話し始めた。

「今日昼間に偶然あいつ、角名を見かけたんだけど……その……女連れだったんだよね」

私の部屋を出て違う女の人と会ってたんだ。

「いや、仕事とかほら、その、チームの関係とかかもだから!」

黙る私のことを焦りながらも励まそうとしてくれる木葉さんに

「大丈夫です。それにまだ付き合ってるわけじゃないので」

と告げる。

そうだ、私達は付き合ってるなんて話を一度もしたことが無いんだ。

昨晩から抱えていた澱の本質はおそらくここにある。

私が角名さんを想う気持ちと、角名さんが私のことをどう思っているのか、双方の想いには乖離があるかもしれないということに。

「鷲尾に探り入れとくから、さっきの……無理かもだけど忘れてくれ!」

マンションの前で木葉さんを見送る。
部屋の鍵を開けて着替えもせずにベッドへ直進する。

もう、何も考えたくない。

瞼を閉じて、深い眠りの森へ私は誘われる。


休みも明け、仕事が始まる。

木葉さんはすぐに鷲尾さんに連絡を取ってくれたようで、日曜日に目覚めるとメールがきていた。

彼が見かけた女の人はどうやら会社の人だったらしい。
だったらきっと金曜のあの人なのだろう。

その話とは別の一文が少し安心した私の心を打ち砕いた。

【それにしてもお前と角名って高校の時から縁があったんだな!じゃあ月曜な!】

誰の話をしているのだろう。
私と角名さんは出会ってまだ10日と経っていないのに。

角名さんと高校時代から縁のある人、それが彼の本命ならそれは私ではない。

いつもの月曜日に比べて週明け特有の憂鬱さに拍車がかかった気がする。

重い気持ちを抱えて出社すると伊藤さんがお土産を配りながら挨拶に回っていた。

私の姿を見つけると、「苗字さーん」と言いながら駆け寄って来る。

おはようと挨拶を交わしてから

「素敵なお式だったよ、招待してくれてありがとう」

と結婚式のお礼を伝えると、彼女は

「こちらこそ、受付も休みの間の仕事も引き受けてくれて本当にありがとう!お土産なんだけど特別バージョン用意してるからお昼休みに渡すね」

とにっこり笑う。
あとね、と彼女は近付いてきて私の耳元で小声で囁いた。

「角名と付き合い始めたってほんと?」

すっと離れて笑顔で私の表情を覗う伊藤さんに「違うよ」と表情を変えることなく返事をする。

「え、そうなの?」

期待していた答えと違う、そう語る彼女の表情は雄弁だ。なんて素直なんだろう。

「その話、浩次に聞いたんでしょ?」

「……うん」

「二次会始まる前に浩次にばったり会っちゃって。困ってたら偶然居合わせた角名さんが助けてくれたの」

「そっかー、その話聞いたときお似合いだと思ったんだけどなぁ」

と、伊藤さんは残念そうに天井を見上げる。

「なんか……ごめんね?」

「ううん、こちらこそ。変なこと聞いてごめんね!じゃあお昼に」

彼女はまたお土産を持って出社した同僚のもとへと向かっていった。

そう、私達は付き合ってなんかない。

出会ってすぐに体から始まった関係。愛してるなんて言葉も行為の余韻でしかない。

『遊ばれないようにね』

ああ、これ以上の深入りはきっと身を滅ぼす。

溺れたいとは思ってはいたけど都合の良い女を演じて得たときめきなんて最終的には私が傷つくだけだ。

無理して履き続けたパンプスが足に傷を残すように、いつまでもヒリヒリと痛みを伴うような傷を。


それなら


これまでのことは私も遊びだったと割り切ってしまえばいい

私の心が守られるのなら

次に会うとき

それはきっと私達の別れのときになるのだろう