- ナノ -

09

伊藤さんが職場に戻ってきた週、結局角名さんからの連絡は1度も無く、かと言って私から連絡をすることもなかった。

次に会うときに彼との関係を断つと決めたのに先延ばししようとしている。いっそこのまま連絡をせずに自然に関係が消滅するのを待ってもいいのかもしれない。

それでも外を歩くと背の高い人を目で追ってしまう。彼に似た声が聞こえるとつい振り返ってしまう。

それが角名さんではないと確認する度に少し落胆している自分に気が付いてうんざりする。


6月に入った。
梅雨が近いせいか雨は降らないものの晴れ間は少なく、どんよりとした天気とともに気分まで沈みがちになる。

そんな気持ちに引き摺られるように普段は絶対見落とさないようなミスを見逃してしまい、修正した書類を持って経理部へ謝罪に行った。

担当者は幸いなことに仲良くしてくれている先輩だったことと、正式に処理される前に見つかったのでお咎めはなしだった。

「苗字さんがこんなミスするの珍しいね。次は気をつけてね」

と先輩は笑いながら水に流してくれた。

経理部を出てエレベーターホールに向かいながらため息をつく。

このままじゃだめだ。
気持ちを切りかえないと。

身につけるものを新調してみようかな。
そうだ、梅雨入りの前にレインブーツを新調しよう。雨の日が待ち遠しくなるような素敵なブーツを探そう。

ちょうど週末に吉岡さんと中華を食べに行く約束をしたので、食事の前に一緒に見てもらうのはどうかな。一人だとどうしても同じようなものを選んでしまうだろうし。

エレベーターを待ちながら気分をリセットすべく深呼吸をすると、ポケットに入れていたスマホが短く震えた。

あとすこしで到着しそうなエレベーターを待たずにフロア内のリフレッシュルームに移動してスマホを確認する。

通知からアプリを開くと角名さんからのメッセージが届いていた。

【昼に電話してもいい?】

10日ちかく何の連絡もなかったくせに、つい昨日も一緒に過ごしたような気安さだ。

すぐに返事をするのは癪だけど無視はできない。でも彼の声を聞いてしまうと簡単にほだされてしまいそうだった。

今日の昼休みはランチミーティングがあるので電話には出れないと嘘をついた。

角名さんは

【そっか。じゃあそのうち連絡するよ】

という短い一文であっさりと私とのやり取りを終えた。
そのメッセージをずっと見つめていると

『都合が合わないんだったらいらない』

そう言われているような気がした。



吉岡さんにレインブーツの件を相談すると

「私もちょうど新しいの欲しかったから一緒に見たい」

と待ちあわせの時間が当初の予定よりも早まった。

昼過ぎに待ち合わせることになったが、掃除や洗濯をしているうちに時間が迫ってきて慌てて部屋を出た。
スマホを家に忘れたことに気が付いたのは電車に乗ってからだった。

最近、本当にこんなミスが多い。

吉岡さんに連絡しようにもスマホが無いことには彼女の連絡先もわからない。仕方がないのでそのまま向かうことにした。

待ち合わせ場所は近くに商業施設が多くてアクセスも良い駅の改札前だった。スマホを諦めたおかげで遅刻はせずに済んだし吉岡さんとはすんなり会えた。

二人で靴屋ばかりを5軒まわったところでカフェで休憩しながら気になった靴について相談し合う。吉岡さんは2軒目に見たショートタイプでベルトの付いたグレーのものが、私は4軒目に見た黒いエナメルでバックにリボンの付いたレインブーツが気になると話した。

「でもリボンなんて……年甲斐もないですよね」

自嘲気味に笑って手元の温かいハーブティーを啜る。
吉岡さんはアイスコーヒーをストローで吸い上げて一口飲んでから

「欲しいって思ったんだったらいいじゃん、年甲斐っていうほど年取ってるわけでもないし。あんた周りの目気にしすぎ」

と笑う。

気分を変えるためにレインブーツを探していたはずなのに、無意識にまた欲しい物を諦めるところだった。

「……それもそうですね。私あのレインブーツ買うことにします」

一人で見に来ていたら絶対に選べなかった。

吉岡さんに背中を押されたことと、カモミールの優しい香りがささくれだった私の心を少しだけ前向きにしてくれた。


「カンパーイ!!」

もう何度目だろう。小さなグラスをカチリと合わせて紹興酒をぐいっとあおる。小皿に取り分けたエビチリを口に運びながらうまーと笑う吉岡さんは今夜も陽気な酔っぱらいだ。

「そういえば苗字最近絶不調じゃん、今日なんてスマホ忘れて来るし」

「誰だってそんな日くらいありますよ。でも今日は良い買い物できたから絶好調ですよ?」

「言うねぇ」

空になった彼女のグラスに紹興酒を注ごうとすると、おかまいなくーとお酌を断られた。少し飲みすぎたのかなとグラスから彼女へ視線を移すと吉岡さんはさっきまでとは打って変わって真面目な顔をする。

「角名倫太郎」

突然、彼女がその名前を口にしたのでびっくりして思わず目をみはる。

「最近苗字がなんか変なのって角名倫太郎のせいなの?」

また私はこの人に心配をかけていると気付いた。浩次のことであれだけ迷惑かけたのにまた同じ轍を踏むところだった。

お酒に酔った勢いもあり、これまでのことを洗いざらい話した。
もちろん次に会うときには関係を清算するつもりだということも。

「……ねぇ、木葉の言ってた話って勘違いとかじゃないの?それか苗字が忘れてるだけで実は会ったことあるとかさ」

なんとか良い方向に考えてくれようとする吉岡さんには申し訳ないけれど

「鷲尾さんから聞いた話なので勘違いではないと思います。それに角名さん高校は関西だったみたいなんですけど私関西には親戚もいませんし初めて行ったのも社会人になってからですし」

そう告げると吉岡さんはそっかとだけ呟いて黙ってしまった。

私はというと、吉岡さんにこれまでの経緯を話すことですぅっと熱が引くみたいに冷静になっていくのを感じていた。

今なら彼にさよならって言えそうだ。


いつもならもう少し深い時間まで飲み歩くのだが今日は早めに解散した。

電車に揺られながら彼へどう別れを告げるかをずっと考えていた。

こんな結果になってしまったけど、角名さんはずっとくすぶっていた私の日常を一瞬でも明るく照らしてくれた人。

ちゃんと終わらせるのなら電話か直接会うか、どちらかが良い。

まだ私は誰かを想うことができる

彼はそれを私に教えてくれた。

駅からマンションまで10分程の夜道を歩きながら、明日電話で角名さんに別れを告げると決めた。

ようやく見えたマンションの植え込みに誰かが座っている。
そんなに遅い時間ではないとはいえ少し気味が悪い。

いつもならすぐに通報できるようにスマホをスタンバイするのだが、今日に限ってそれができない。

コンビニまで引き返して時間を潰そうか、でももっと遅い時間になっても立ち去らなかったらどうしよう。

迷っているうちにその人が立ち上がってこちらに向かって歩いてきた。

随分と背が高い。

街灯に照らされてその人の顔がはっきり見えた。

……どうして

どうしてこんなところにいるの?

まっすぐに私の前まで歩いてきた角名さんはそのまま私を抱きしめた。

「よかった……名前」

やっと決心できたのに

なんの反応も無い私を他所に、角名さんは話し始める。

「今日名前にメッセージ送ったんだけど全然既読つかないし。電話しても出ないから伊藤に頼んであいつからも電話かけてもらったけど出ないって言うから……名前になんかあったんじゃないかって思ったらじっとしてらんなくて」

「……心配かけてごめんなさい」

ゆっくりと体を離して顔を上げると角名さんと目が合う。彼は私が初めて倫太郎と呼んだときのように切なげに眉根を寄せて「名前……」と私の名前を呟いた。

しばらくするとその視線は優しさをにじませた。私はそれを受け止めきれずに俯いてしまう。

本当は他に想う人がいるのになぜそんな顔で私を見つめるの?

もう、やめてほしい

「……今日、スマホを忘れて出かけてしまったので……すぐに来れる距離じゃないのにごめんなさい」

彼の手が私の頬に触れた。
いつもは熱く感じる彼の手が今日はひんやりとしていた。

「俺こそ……勝手に心配して騒いでごめん。
びっくりしたよね?」

名前、もう一回顔見せて?

そう囁く角名さんは私が顔を上げるのを待っている。

「ありがとうございます、心配してくれて……でも 」

もう、ここで言ってしまおう。

唇が微かに震える。
このままだと声まで震えてしまいそうだ。
ぎゅっと唇を噛んだ。

ちゃんと彼に届くように

そう自分に言い聞かせて私は顔を上げる。

「角名さん」

「何?」

「もう……ここへは来ないでください」

私が発した言葉に角名さんは一瞬目を見開く。彼の喉の奥からひゅっと空気がもれる音がした。

「さよなら」

状況を飲み込めない様子の彼を置いて私は走り出した。

振り返ることなんてしない。

彼のもとへ置いてきた未練から逃れるように私はエレベータへ駆け込んだ。

真っ暗な部屋に戻ると少しだけホッとした。

テーブルに置かれたままになっていたスマホから着信を知らせるメロディが流れる。
たぶん角名さんだろう。

音を鳴らし続けるスマホをそのままにしてバスルームへ向かいシャワーを浴びる。

なにもかも、すべて洗い流してしまおう。

彼に触れた肌も心もこの涙も。