時は得難く
「倫太郎……」
俺のシャツを掴むなまえは潤んだ瞳で俺を見上げる。
彼女の少し湿った唇が部屋の灯りのせいかグロスを塗ったように艶めいていた。見慣れたはずのその唇は妙に扇情的で、俺はいつの間にか自身の口内に溜まった生唾をごくりと音を立てて飲み込んだ。
○
「おまたせ」
部活を終え着替えを済ませた俺は部室の前で待たせているなまえに声をかけた。
「あ……お、お疲れ」
「ごめん。も少し早く帰れるはずだったんだけど」
「あ!ええねん、ええねん!」
「暗くなっちゃったね、帰ろっか」
「あ……う、うん」
体育館を出て一緒に部室棟まで来た時からおかしいとは思ってたけど……どうしてなまえはこんなにガチガチに緊張してるんだろう。
一緒に帰るのは数日ぶりだけど……。
部活終わりで空腹のせいか、思考が上手くまとまらない。
まぁ、いいかとその時はスルーすることにした。
校門を出て駅へと向かう道中、なまえはやはりそわそわと落ち着きがない。ちらりとこちらを見上げて目が合うとすっとそらして。
さすがにこの挙動不審っぷりはおかしい。
「どうしたの?なんかあった?」
「あ……の」
こちらから話すきっかけを作ろうとしたもののなまえは話すことを戸惑うような素振りを見せた。けどこのままにしておく訳にはいかないので昼間何でも話すと言っていたことを引き合いに出して諭した。
その話を思い出したのか、なまえはようやく俺と視線を合わせた。
彼女の頬がいつもより少しだけ赤い気がする。もしかして体調でも悪いのだろうか。
けれどなまえが動揺していた原因は俺の想像をはるかに越えていた。
「……あのな、明日台風来るやん?」
「みたいだね」
「それで明日の昼過ぎから電車止まるから……おかんがな、どうしても明日までにやらなあかん仕事あるらしくて……」
「あれ?計画運休ってたしか夕方からじゃなかったっけ?」
「早まったみたい」
「あ、そうなんだ」
「うん、だから今日帰られへんねんて」
なるほど。
ということは、今日は俺達と義之の3人か。
市子さんが仕事で帰ってこれない事は以前にもあったのでなまえがこんなに動揺する理由にはならないと思うんだけど。
「晩飯どうする?義之の分もなんか買って帰んなきゃだよね?」
「それが……ユキは明日休み確定らしくて友達の家に泊まりに行ってんて」
「義之が?」
「うん」
なるほど。
台風の前日に友達の家に泊まりに行くなんてあいつもなかなか大胆だな。
まぁ、それは俺もだけど。
ということは
……あれ?
ということは?
「もしかして……今日俺達ふたりきりって……こと?」
「……うん」
え、チャンスじゃん
っていう突然降って湧いた邪な願望にさっと蓋をした。顔には出てないはずだ
……多分。
いつもどおりを装って返事をしたつもりだったけど
「……そっか」
その時の俺の声は少し上ずっていたと思う。
○
台風の影響か駅までの道も風が強く、外食はせずに早めに家へ帰ろうということになった。
いつもは手を繋いで帰るところだが、さっきのなまえの話を聞いてからふたりして妙に意識しすぎている。
並んで歩くけどその手に触れることを躊躇っているうちに学校を出て駅に着いていた。
なまえの家の最寄駅で下車し、駅前のコンビニで適当におにぎりなどを買って家路を急ぐ。
歩いているときも偶然お互いの手の甲が触れるだけでなまえは「ひっ」と声を上げた。
ああ、今晩もお預けか
なまえの様子からそう察した俺はリュックの中に常時スタンバイさせている箱に思いを馳せる。お前を開封する日はまだ先だ。
家に着く頃には俺は冷静になっていたがなまえは相変わらず動揺し続けている。
その反応が面白い上に可愛いので誂いたくなるところだが、あんまり調子にのるとそれこそ口すら聞いてもらえなくなるかもしれない。
今日は仲直りしにきたんだと強く自分に言い聞かせて紳士的に振る舞うことを決意した。
その甲斐あってか、食事を終える頃にはなまえも随分リラックスして俺と話すようになっていた。
20時前に「お風呂の準備してくる」となまえはリビングを出た。
台風関連のニュースにも飽きて手持ち無沙汰になってスマホを見るとメールが着ていた。
内容を確認している間になまえが戻ってきたので「明日学校休みだって」とさっきのメールの中身を要約して伝えた。
「あ、そうなんや」
「電車止まんの早くなるかな」
「あー、そうかも。明日は早めに起きて帰ったほうがええんちゃう?」
「もういっそここで2泊しちゃおうかな」
「さすがにおばさんたちも心配するから帰ったほうがええよ」
「えー?」
駄々をこねる俺の様子になまえはクスクスと笑う。
その様子に安心した俺は
「風呂入ってくるよ」
と立ち上がった。
○
俺と入れ違いでなまえが風呂に入っている間に勝手知ったるみょうじ家の客間に布団を敷く。
明日は何時に帰ろうかなとぼんやりした予定を立てスマホを眺めたが退屈だ。
客間から出た俺はなまえの部屋に向かった。
しばらくすると、風呂から上がったなまえが濡れた髪をタオルで拭いながら2階へ上がってくる。
「倫太郎ここおったんや」
なまえはチューペットを一本持っていて、部屋に入るなりそれをパキリと音を立てて割った。俺の向かいになまえは座り片方を差し出す。
「ありがと」
「いえいえ」
俺の好物がチューペットだと知ってからなまえは家にチューペットを常備してくれてて風呂上がりにはんぶんこするのがお決まりのパターンになっていた。
「こっちおいでよ」
俺がチューペットを咥えて両手を広げるとなまえはうれしそうに俺の胡座をかいた足の上にちょこんと座り直す。
ふわりと漂うシャンプーの香りは俺と同じもののはずだけど相変わらずなまえの纏う香りは特別甘く感じる。
「なぁ倫太郎、これ食べたら頭乾かして?」
「いいよ。じゃあ俺の髪も乾かしてよ」
「ふふ、ええよ」
今この家には俺となまえの二人だけなの忘れてるみたいに彼女はいつもどおり振る舞う。
この様子だったらハグぐらいはいいかな?
食べ終えたチューペットの抜け殻を咥えたまま、なまえの背中にもたれ掛かるように抱きしめた。
その瞬間、なまえはそれまでの自然な様子から嘘みたいにガッチガチに固まってしまった。
失敗したなと思いつつなまえを抱きしめた腕を緩めると
「倫太郎?」
と少し不安そうな声でなまえは俺を呼んだ。
「ん?」
「……どっか行くの?」
「ああ、ドライヤー取って来ようと思って……なまえ?」
後から覗き込むと泣く一歩手前みたいな顔してなまえが俺を見上げる。そのままなまえが抱きついてきたので慌てて受け止めた。
「このまま……ここおって」
「ん、でも髪乾かさなきゃ」
「朝まで………一緒におって」
「……この部屋……に?」
返事の代わりになまえは俺のシャツをきゅっと掴んで俺を見上げる。
ほぼ諦めていたのに逆転満塁ホームランみたいな展開になって正直動揺した。
このチャンスを逃す手はない。
けれど
「なまえわかってる?今日ふたりきりなんだよ?」
「わかってるっ……」
「俺、多分はじめちゃったら止めらんないよ?」
「うん」
「……怖くないの?」
俺の質問になまえはまっすぐ俺を見つめて
「怖くない」
と言った。
なまえは俺の頬に両手を添えてゆっくりと唇を近付ける。
何もかも受け止めようと思う。
彼女の身体も心もこの先のこともなにもかも。
外は風が強く吹いてもうすぐ嵐が来ることを知らせていた。