▼ イノセント
言い訳を探している。
私が無力であることや、世界が残酷であることや、彼の瞳の半分が光を失い、脚が不自由になったことについて。朝目を覚まし、ベッドから起き出すと無意識に考えを巡らせた。そうして溜飲を下げている。もともと私にできることなんてなかった。世界は誰にも優しくない。そして彼は……彼は。
天と地の戦いを終えて。私はリヴァイ兵長とともに、マーレ北方の地へと身を寄せていた。多くの軍事施設があったレベリオ近郊からは距離があり、軍からの干渉を受けず、しかしガビたちの救援の活動の恩恵は受けられ、静かに療養するにはちょうど良い場所だった。
たずねてくる人たちといえば、物資を運んできてくれるガビやファルコ、医師をつれてきてくれるオニャンコポン。それから様子を見にきてくれる調査兵団の一〇四期たち。
毎日はおどろくほど穏やかなはずなのに、心はいつも静かではない。
「散歩に行ってくる」
「待ってください。私も一緒に行きます」
「いや、いい。その辺歩くくらいはひとりでできる」
「でも」
「お前もやることがあるだろう。いちいち俺にかまうな」
会話は長く続かない。私は朝に生きているのに、リヴァイ兵長は夜に生きているみたいに、仕草のひとつまでもが噛み合わなかった。
私たちはこの人里離れた場所へ住みついて以来、まともに話をしていない。本当は聞きたいこと、聞いてもらいたいことはたくさんある。でも誰かの名前を出すのが怖かった。私が涙を見せることでもあれば、ただでさえ傷だらけの彼は余計に傷つくだろうから。
ひょっとすると、私の存在自体が彼にとって煩わしいものかもしれない。
マーレのことを、戦いのことを、ひいては喪った仲間や居場所のことを思い出すのかもしれない。島にいたとき。私たちがまだ敵同士だと思っていた頃の方が、お互いを理解していたような気さえする。
まだ、出口のない森の中にいるのだろか。木々が深いこの土地は、朝がくるのも遅い。
▽
ピークが訪ねてきたのは突然だった。
「駆け落ちで有名なプッペさんがどんな暮らしをしているのか、見にきたよ」
マーレの救援物資のマークが入ったクッキーの包みを抱え、冗談めかして笑う。
ピークとは島で一度再会している。ピークとガリアードが調査兵に成りすまし、潜入していた時だ。
「……笑えない冗談はよして」
「本当のことじゃない。や、兵長もお久しぶりです」
暖炉の前のロッキングチェアに座っていた彼は、片目だけの視線をピークに向け、声にならない挨拶をした。
ピークの冗談は本当に笑えなかったけれど、訪ねてきてくれる人がいるのは気がまぎれて嬉しい。お土産のクッキーを開きながら、他愛ないお喋りを楽しむ。
しかしピークが訪ねてきたのは、ただクッキーをもってきてくれただけではなかった。
「レベリオ収容区のあたりに行くことが決まったんです」
レベリオの名を聞いて、全身が冷たく痺れた。
ピークやアルミンたちはパラディ島と世界との和解の道を探す傍ら、国の復興作業を手伝っている。地鳴らしの影響を受けた場所に赴き、使える資材や破棄するものを選別し、土地を起こすのだ。
「人手が足りないんです。だからナマエにも手伝ってもらいたくて。いいですか、兵長」
「ああ、俺はかまわねぇが。ナマエが顔を出して大丈夫なのか」
「それはもちろん……」
ちょっと待ってと、口に出した時はひどく低い声になっていた。ピークとリヴァイ兵長、ふたりともが驚いた顔で私を見る。
「そんなのダメ。私がここを離れるわけにはいかないから」
「でも兵長だって、もうひとりで立てるくらいには回復したんでしょ? この間アルミンが嬉しそうに話していたよ。プッペは元気なんだし、少し手伝うくらい……」
「その名前で呼ばないで!」
彼が斬った人が私につけた名だ。マーレにいた時の私に。すぐに笑って誤魔化せばいいのに、どうしてもできなかった。
「……ピーク、出直してもらえるか」
「わかりました」
ピークは困ったようにほほ笑み、私の肩を二度叩いて出ていった。ひとり減った部屋の中は、それ以上に気温が下がる。
「どうした。お前らしくもない」
「すみません」
揺れる椅子の上から彼が手招く。私は叱られた子どものように俯いて、彼の前に立った。
「お前の友人が困っているんだろう。手を貸してやれ。俺を気にする必要はない」
「でも私はリヴァイ兵長が心配です。ひとりにはできません」
その時彼は、驚くほどまゆ尻を下げて私を見上げていた。
「俺ももう、兵士長なんてモンじゃねぇぞ。そんな役職からはとっくに解放された」
なんだか泣きそうになる。唇がわななく。奥歯を食いしばった。
「いいから行け。紅茶もひとりで入れられる。なんの不便もない」
そんなことはない。階段の昇降も、着替えも、ひとりではすごく不便そうにしている。そんなあなたを放ってはいけない。
しかし彼は私を煩わしいと思っているかもしれないから──少し、離れた方がいいのかもしれない。
「あなたがそんなに言うなら」
「ああ」
出口はどこにあるのだろう。
唇に触れると、前にはなかった感触が余計に私を切なくさせる。なめらかに触れ合っていたはずのそこに、キスの間ですら、現実を忘れることはできないのだと思い知る。
▼
レベリオの街は瓦礫の山になっているかと思っていたけれど、瓦礫すらが薄くなった土地は文字通り地が均されていた。
「来てくれないかと思ってた」
いつもはおろしたままの緩いくせっ毛のピークも、今日は髪をひとつに束ねていた。私もポケットの中から髪留めを取り出し、流したままの髪を結う。
見渡すと見知った顔が集まっている。ライナーとアニ。他にも収容区内で見たことのある兵士の顔が多かった。
「ここに住んでいた人を集めたの?」
「まぁ、結果的には。みんな色んな所で活動しているから……各地から呼べそうな応援を集めてきたらこうなったの」
「そう」
大型の軍用車両もきている。資材は貴重なので、使えそうなものはすべて車両に載せて運ぶ予定らしい。
作業は単調だ。使えそうなものは運び、そうでないものは燃やす。人が歩くに不便なほどの足跡を埋めていく。使えそうなものは少ない。
ぼんやりと、マーレを裏切ってからレベリオに帰ってきた時のことを思い出した。エレンを迎えに行くためとはいえ、私もこの街に戦火を放ったひとりだった。まさかこうして、復興の手伝いに帰ってくるなんて。
みんなポツポツと麦穂を拾うように腰をかがめて散らばっている。しばらく作業をしていると、肩を叩かれた。
「ねぇ」
顔を上げれば、額に汗をにじませたアニが立っている。
「どうしたの」
「これ、見て」
太陽は頂上より少し傾いていた。昼時分。アニに誘われるまま、瓦礫を積んだ上に腰をおろす。
「うちの家のあたりを掘っていたら、出てきたんだ」
アニが持っていたのはお菓子の缶だった。見たことがあるようなないような、おぼろげなクッキーの缶。蓋も缶そのものもひどく錆びている。中に入っていたのは写真だ。
「これ……」
「多分、お父さんが保管していたんだと思う」
水を吸っているけれど、かろうじて見える。戦士候補生の制服を着た子どもたち。記憶を割るような薄い音を立てて、アニは写真を一枚取り出した。
「ベルトルトが写っているのもある」
「なんだ、何サボってんだ」
私が持っていた写真が奪われる。ライナーもまじまじと写真を見ながら腰をおろした。気づけばピークも一緒だ。
「へぇ。アニのお父さんマメだね」
「知らなかったよ。私も今初めて知った」
「ベルトルトの父さんも生きていたら、見せてやれたのにな」
ライナーが悲しそうに笑う。
「ま、ベルトルトの写真はアニが持っててやれよ」
「なんで私が」
「そもそもこれはアニの家のものだろ」
「殺されたいの?」
「そう怒るなよ」
ライナーが言っている意味がわからないアニがなんだか可愛くて、私はピークと顔を見合わせて笑う。
写真は他にもたくさんあった。私が写っているものも。
「ああ、懐かしいなぁ。プッペが私たちと一緒にいる」
ほら、とピークが写真をめくった。何かの演習の前に撮ったものだろうか。私には覚えがないシーンだ。
「じゃあこれはプッペにあげるよ」
ピークが見ていた写真がアニの手に戻り、そして私へとやってくる。
戦士候補生の制服を着た私。後ろの方にアニやピークやライナー、ベルトルト。そして私と同じくらい中央にいたのはジークだった。
「……私はいらないよ」
「これだけあるし。持っていきなよ」
断ろうと思ったけれど、タイミングが悪く昼食の声がかかった。軍用車両のまわりにオープンタープが立てられ、簡易の食料を配っている。
写真は胸のポケットへと滑り込ませた。少し、心の奥がざわつく。
▼
数日はレベリオで寝起きをした。軍のテントでピークとアニと肩を並べ、毎日同じ作業の繰り返し。時間があっという間に過ぎてゆく。
作業の目途がついた夜、明日はリヴァイ兵長のところに帰ると呟いた私に、アニが初めて問いかけた。
「あの人のどこがそんなによかったのか教えて」
と。ピークも面白がって身を乗り出してくる。いつか聞かれるかもしれないと思っていたけれど、私が思っていたよりずっと軽い調子だった。もっと、責められるかと思っていた。
「どこなんて……そんなのいきなり聞かれてもわからない。気づいたら好きだったから」
「へぇ」
薄暗いテントの中。アニの表情は読めない。
「それにしては、この間家に行ったときは険悪そうに見えたけど」
ピークが少し意地悪そうに言う。ばつが悪くて、言い返す言葉もない。
「そうなんだ」
「そう。プッペは明日死ぬかもしれない状況から解放されて、考えることをやめているのかもね」
そうだろうか。考えることなんて、これ以上何があるというのだろう。
「国を裏切ってまで逃避行した人に言うには失礼かもしれないけどさ。私の知ってる人なら、考えることをやめないだろうね。現状を変えることを、諦めない」
それはきっと、アルミンのことを言っているのだろう。すかさずピークが「アルミンでしょ」と茶化すと、アニは「もう寝る」と言って寝袋にもぐりこんだ。
明日も早い。ピークがランプの灯を落とした。
歩みを、考えることを止めないこと。息をすることを諦めないこと。
寝る前の雑談の中に紛れ込んだ、生き残った私たちの会話。
ピークの言う通り、私は思考を停止していたのかもしれない。思えば自らこの街に炎を放ったその日から。リヴァイ兵長のことだけを考えしか考えず、自由の翼の後ろに隠れていた。だから彼が傷ついて、私は寄る辺を失ってしまったのだ。捨てたものを言い訳にして、ずっと甘えていた。
今になって気づく。失ってからしか気づけない。なんて愚かなのだろう。
それでも私たちは生き残った。私は、彼は、生き残った。
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上着のポケットに写真を入れたまま、車両に揺られる。道が悪いので視界が上下に揺れる。アニたちにしばしのさよならをして、見渡す限りの荒野を走りながら、ぼんやりとジークのことを考えた。
ハンジさんが生きているときに、リヴァイ兵長の傷はジークに刺した雷槍を受けて負ったものだと聞いている。同時に強くジークを憎んだ。でも最期にジークが斬られた時、憎しみと同じ分だけの喪失感があった。それを抱く自分に、負い目を感じている。
リヴァイ兵長に謝りたかった。でもそれは違う。彼も違うと言うのはわかっている。だから謝らないで済む言い訳を探し続けていた。考えを止め、絶望の底にいるふりをして。
「おかえり」
数日ぶりに会った彼は、優しく笑って私を出迎える。急に胸が熱くなった。泣いてしまいそうだ。
「ただいま帰りました」
「お前がいない間、オニャンコポンがきた。紅茶と果物を置いていって……」
「リヴァイさん」
車椅子の彼の前に座り込み、膝頭に顔を埋めた。額を強く押し付けると、やわらかく頭を撫でられる。
「話がしたいです。リヴァイさん」
ほう、とため息みたいな返事。
「私たち、しばらくちゃんと話なんてしてなかったですよね」
髪を梳くみたいに、本数の足りない無骨な指が抜けてゆく。
「そうだな……まずは前に俺が言ったことを覚えているか」
「前?」
「ああ。他の男の目に触れるときは、髪をくくっておけと言ったはずだ」
リヴァイさんなりの冗談だ。私が緊張しているのがわかっているのだろうか。嬉しくなって、笑ってしまう。
「今日は軍用車両の運転手としか会っていませんよ」
「それでもだ。で、なんの話がいい」
「そうですね……私の子どもの頃の話から聞いて欲しい気分です。あなたの、子どもの頃
の話も聞かせて欲しい」
「わかった」
暖炉には薪が入っていた。小さな火が、控え目に祝福の拍手のような音を立てる。橙に灯る色は、夜遅くまで私たちを包んだ。
ひょっとすると私が話を切り出したことによって、彼の傷は癒えるどころかひどくなる一方かもしれない。私もジークの話をする時は辛い。それでもひとつ「苦しい」を吐き出すと、それは私たち共通の「苦しい」になって、ともに担う責任になるような気がした。生きてゆくための、責だ。
この世界で生きてゆくのは難しい。担う責はとても重いし、ひとりではとても耐えられそうにない。でも、一緒にいられるなら。
「好きです、リヴァイさん。どうしても、どうあっても、あなたのことが」
座り込んだままの私は、リヴァイさんに手を引かれて立ち上がる。誘われるがまま、唇を合わせた。傷跡を啄むようにキスを重ねる。あたたかさに眠くなる。
ぼんやりとした意識の中で、これが愛というものだと思った。絶望の底に残っていたものだ。やっと、見つけることができた。
▼
レベリオから帰ってきて、私の気持ちは前よりも落ち着いていた。
不思議とリヴァイさんのことを過度に心配するようなこともなくなって、リヴァイさんも穏やかに見える。
「少し安心した」
私の顔を見てそう言ったのは、ふたたび訪ねてきたピークだった。
「ピークにはいつも心配かけてばかりだね。ごめん」
「自覚があるならいいよ。それより今日は、用事があってきたんだ」
はい、と机の上に置かれた麻袋。見覚えのある形のそれは、私がパラディ島から持ってきたものだ。地鳴らしを止めようと、船に乗り込んだ時も、飛行船にも荷物と一緒に積んでいた。
あの時──最後の戦いに向かってゆく時、私はオニャンコポンと一緒にいた。私の立体起動装置はすでに故障していた。飛行船が不時着した時に気を失ってしまい、目が覚めてすぐにリヴァイさんを探しに走った。だから荷物などに構っている暇などなかったのだ。
「よく私の荷物だってわかったね」
「オニャンコポンが見つけてくれたんだよ。きっとナマエのだから、届けてやってほしいって」
「そう……ありがとう」
「また来るね」
なんだかピークが優しい。マーレにいた時よりも優しい気がする。私も、優しくできているだろうか。
ピークを見送ってから袋を開いた。キッチンにいたリヴァイさんが、何ごとかと覗き込んでくる。
「あの状況下でよく自分の荷物が持ち出せたな」
「私は本部の方にいたので……大切なものは身近に置いていたので」
袋の中からは懐かしいものが出てくる。私がきていた兵団のジャケットや、リヴァイさんからプレゼントしてもらったハンカチーフだとか。首飾りは今も変わらずつけている。
袋の一番底にあったのは、一冊の本だった。
「懐かしいな」
恥ずかしいような、嬉しいような、曖昧な調子で彼は言う。この本は私たちが離れ離れの間、文通のようにして使っていたものだ。ヴェロナの街の物語と、そうじゃない物語が交互に挟んである。
「バラしてねぇその本はどこかで読めるのか。パラディ島には存在しねぇ本だったようだが」
「以前は街の本屋さんに行けば、簡単に手に入る部類のものだったので。どこかに本が保存されていればあるかもしれません」
「探しに行くか。この間オニャンコポンが来たとき、奴の母国に行かないかと誘われた。ついでにこの本も探すか」
「え……ここを離れるってことですか?」
「最後が存在しないことには、締まりがつかねぇだろうが」
なるほど、それは悪いことじゃないかもしれない。私たちの物語はつぎはぎで、続きを見つけている最中だ。まだ終わりが見えないのなら、新しいページを探しに行こう。途中で躓いてもいい。あの本の続きを見つけに行くのは、とても有意義なことだ。
「見つかればいいですね」
「見つける。絶対だ」
リヴァイさんが手の中でパラパラとページをめくる。ここまで過ごしてきた時間みたいに、素早く過ぎてゆく。
無垢色の祭壇
完
完
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