無垢色の祭壇 | ナノ


▼ ある春の日。

若草を踏みしめると、足の裏に芽吹いた水の感触がした。リヴァイは一度立ち止まり、ブーツのつま先が土を踏んでいる様子を見て、再び歩き始める。

彼の秘書官の姿は、今日の午前中から見えなかった。

大抵はリヴァイの目の届く範囲で仕事をこなし、ささいな報告ごとも怠らない。リヴァイが彼女の姿を探すのは、珍しいことだった。

緩やかな傾斜になった野原は、調査兵団本部の演習場から続きになっている。雑木林で訓練をしていた新兵らが、秘書官はそちらへ行きましたと声をそろえた。

日差しが温かい。

リヴァイは目を細め、空を仰ぎ、歩き進める。

「ナマエ」

よく見知った後頭部が視界に入って、リヴァイは口を開く。彼女は少しだけ振り返ったが、視線はすぐに逸らされ、抱え込んだ膝頭へと頭を埋めた。

「何してやがる」

「少し、散歩を」

「お前が俺に……無断でか?」

「ええ」

わざと大げさなリアクションで、リヴァイはナマエの隣へと座り込む。ナマエは、リヴァイの方を向こうとはしなかった。

「まぁ……サボりたくなる時くらい、あるな」

「そうですね。私にとって、今日がその日でした」

リヴァイは口を噤み、ナマエから景色へと視線を移した。

草むらの中に、カマキリが一匹潜んでいる。少し先を飛ぶ蝶を、狙っているようだった。リヴァイもナマエも同時にそれに気付き、ナマエが小石を投げて蝶を逃がす。

「来週だ」

「わかってます。さっき、ハンジさんからも聞きました」

「どんな所だった。お前の故郷は」

「聞かない方がいいんじゃないですか」

「そうは……思わねぇが」

来週──

調査兵団はマーレへと出立する。ヒィズル国のキヨミに手引きを頼み、入国を試みる。ハンジの言葉を借りるなら、それは壁外調査だ。わからない他国のことを調べに行くというもの。

104期兵のサシャやコニーは、まだ見ぬ土地にわずかな期待すらを抱いている。しかしナマエだけは違う。マーレの内部情報を良く知る彼女は、元はマーレの諜報員だった。彼女だけは帰郷だった。

「私は島に残っていたいと、ハンジさんにも言ったんですけど」

「馬鹿言え。協力者が多いに越したことはねぇ。それにお前はもともと諜報にいたんだろうが。顔でバレるとも考えにくい」

「そうでしょうか。ニコロなんかは、私のことを知っていたし」

「えらく渋るな」

「当たり前です」

ナマエがパラディ島に来たのは、まだベルトルトとライナーが島に潜んで、始祖を有するエレンを奪還しようとしていた頃だ。

捕えられたアニを救出するため、調査兵団に潜り込んだところまでは予定通り。そこから先の想定外の出来事は、すべてリヴァイのせいだ。ナマエがリヴァイと出会ってしまったから。

「リヴァイ兵長も、この話になると粘りますね」

「当たり前だ」

両膝を抱え込んでいた手を、引き寄せた。ナマエの体はバランスを失い、リヴァイの腕の中へと倒れ込む。

ナマエはマーレを捨ててリヴァイを選んだ。結果として残った事実が、今の二人だ。

束の間の数年は穏やかであったけれど、いつも背後には足音がした。戦争とアクティビスト。古い、歴史。

リヴァイの腕の中に逃げ込んでも、それらはナマエを追ってくる。

「マーレに行きたくないのは、やっぱり怖いからです。自分で選んだ道を、もう一度見直さなくてはならない気がして」

「俺がいてもか」

「後悔してるって意味じゃないんですよ」

ナマエはリヴァイのジャケットの隙間に手をすべらせ、彼の背中のシャツを掴んだ。思い切り胸に顔を埋めると、頬がベルトで擦れる。

「ねぇ、やっぱり聞いてくれますか?」

「あ?」

「私の、故郷の話を」

きっと彼女は、泣きたいんだろうなとリヴァイは思った。泣く権利も資格もないとわかっているから、そうして自身を虐めて誤魔化しているんだろうな、とも。

「お前が戦士隊とやらにいたことは聞いてる。巨人を継承せずに済んでよかったと、俺はつくづく思ってるがな」

「あは……誰から聞いたんですか。そう、戦士隊にいたんです。頭の良い友人や、兄弟みたいに育った友人や、弟妹のような後輩もいました」

訓練の帰りにはジュースを買って、帰っていました。
仮住まいの親戚の家は居心地が悪い所でした。
小さいけれど、お気に入りのお菓子屋さんがありました。

リヴァイの耳に触れても差し支えのない部分、例えば幼馴染のジークの話題などは避けて、ナマエは全てを過去形で語った。

「私を育てて、色んなものがあった国だったけれど。リヴァイ兵長だけがいなかった」

リヴァイがナマエの肩を掴み、体を起こした。二人の視線は春の日差しの中で交わって、そして閉じて、冷たい唇を重ねた。唇だけが温もりを忘れていた。

「お前の、そういう所に惚れたんだろうな」

「……無自覚ですか?」

「惚れてる」

茶化したようにナマエが笑う。二人はじゃれ合い、草むらの上に体を投げだした。リヴァイは仰向けになって、ナマエはリヴァイの胸の上に頭を預ける。

「私ね、私のことを一番にしてくれない、そんなリヴァイ兵長が好きですよ」

「嫌味か?」

「本当のこと。でも、兵長は私に惚れてるから」

口角を上げて笑うナマエの鼻先を、リヴァイは加減してつまんでみせた。

「んっ、リヴァイ、兵長、痛い」

「痛くしてる」

「やだ、離して」

ナマエは両手で反撃を試みたが、とても敵う相手ではない。両手首を掴まれると、彼の胸に顔を突っ伏し、ふつふつと喉の奥で笑うことしかできなかった。

「リヴァイ……ねぇ、リヴァイ」

「あぁ?もう終いか?」

「私、いつか国に手をかけることになると思う」

「笑いながら物騒なこと言うんじゃねぇ。来週は戦争しに行くわけじゃねぇんだぞ」

「わかってる。わかって、ます。でも、きっといつか。このままじゃ終わらないと思うの」

喉の奥で転がしていた笑い声は、いつしか泣き声を抑えるようになって。

「まだ、マーレに行ってもいねぇのに」

「おかしいですよね。でも、これが私の覚悟」

気がつけば、随分長い時間が経っていた。誰も二人を呼びにこない。リヴァイを見送った新兵らが、気を利かせているのかもしれない。

ナマエは結局泣かなかった。泣いてもいいのにとリヴァイは思ったけれど、促すことはしなかった。

リヴァイのこんな所が、ナマエを一番にしていないということなのかもしれない。ナマエはいつだって、そんなリヴァイを選ぶ。


* * *


ナマエの戯言のような予言が、現実になる日は遠くなかった。

マーレに渡り、国際討論会に出席したあと。エレンは置手紙一つで調査兵団の元を去った。残されたリヴァイらに選択肢はない。アルミンの有する超大型巨人の力と、調査兵団が元来持ち得る巨人を倒す力は、レベリオの街を破壊するために使われる。

パラディ島に移ってから、ナマエも立体起動装置の訓練は積んでいる。ハンジは今回の作戦からナマエを降ろすと言っていたけれど、ナマエは自ら志願して飛行艇に乗り込んだ。

エレンの巨人化が、開戦の合図だった。

狭い収容区画に響く巨人の足音。爆撃、銃撃、悲鳴。

ひとたび気を抜けば叫びだしそうになってしまう。それでもナマエは引き金を引いた。休んでいる暇も泣いている暇もない。

瓦礫になった街の間を飛び、リヴァイの元へ向かう。彼はジークを捕えているはずだ。ナマエも、ジークの捕縛を手伝う算段となっていた。

「リヴァイ兵長、こっちです」

「ああ」

地面へと降り立つと、ナマエは見知った顔と目が合ったような気がした。懐かしい、脳裏にある幼い面影は記憶のものより時間が進んでいる。こんな所で会いたくはなかったね、と心の中だけで呟く。ひどく顔を歪めたガビから、顔を逸らした。

ジークは何も言わなかった。飛行艇に乗り上げるためのロープを回しながら、ナマエはリヴァイにだけ聞こえるよう、耳打ちする。

「兵長、やっぱり……あの、春の日。全てを過去形で話して、よかったです」

リヴァイは目を細める。一瞬だけ、その時のことを思い出していた。

「お前から先に乗れ。置いて帰る気は、ねぇからな」

親指を飛行艇の方へ向けたリヴァイに、ナマエは頷く。

次にあの春の日のような、日差しの下で二人で寝ころぶ時。今度は未来の話をしようとナマエは思った。

そうしたら少しは、何かが変わるのかもしれない。

少なくともナマエの中だけは。

飛行艇に乗り込むと、街はすぐに遠ざかってゆく。ナマエはリヴァイの隣で目を閉じて、遠い未来を想うのだった。

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