▼ 6.そして私は死んだ。
「随分な挨拶じゃねぇか……ナマエ」
扉をすぐ背にして立つリヴァイは、そこから動かないままナマエを見据えていた。距離にして10歩にも満たない位置。
「見慣れねぇ武器だな。マーレの奴らが持っていた物と同じやつか……随分小さいようだが」
向いている銃口に対して、一切意に介さない調子だった。単にリヴァイがこんな場面に慣れているのか、この状況でもリヴァイの方が早く動けるのか、ナマエが撃てるはずは無いと思っているのか。
「オイオイ……手が震えてるぜ。マーレではそんな、ガキにでも扱えそうな銃の練習もさせちゃくれなかったか?」
手だけでは無い。銃を構えた瞬間から、ナマエの全身は小刻みに震えていた。覚悟、恐怖、高揚。感情が表面に出るなんて諜報員失格だ。しかしリヴァイの前ではもとより、ナマエは諜報員ではいられない。
「目の前にいるのが……貴方なので」
「そんなことはわかり切っている」
たっぷりと余裕を含み、リヴァイは一歩踏み出した。途端にナマエは「動かないで!」と甲高い声を上げる。つんとした高さの声が、緊張の上を走った。
「ここは俺の部屋だ。念の為言っておくが、アルミンは俺達に話し合いの場を設けた」
「わかって……ます。リヴァイ、兵長は……私がどうしてここへ来たかわかりますか?」
「俺に会いに来た事くらいわかっている。しかし、ただ来ただけじゃねぇだろう。お前が……自らこっちへ戻ることは無いだろうと、思っていたからな」
リヴァイは悲し気に視線を伏せた。悲しいのか、悔しいのか、曖昧に。
「諜報部にいた私に、暗殺命令が出たんです」
「ああ……そういうことか」
「貴方を殺さないと、私は故郷を裏切ることになる」
何でもないことを聞いた様子だった。なんだ、そんな事か。思った以上に呆気ない表情でもってリヴァイはナマエを見つめる。
言い訳は簡単だ。なんだって出来る。しかしリヴァイには確信があった。胸にはナマエからの「手紙」が入っている。きっと彼女も、リヴァイが贈った首飾りを持っているだろう。
1歩、2歩、3歩。進んで、リヴァイは距離を詰める。
「どうした?撃て」
4歩、5歩、6歩。手を伸ばせば、届く位置に。
「ナマエ」
もう1歩、踏み出す。
銃口はちょうど、リヴァイの心臓の位置へと埋まる。引き金さえ引けば、リヴァイだって避けられない距離だ。
「何をしに来た、ナマエ。お前に俺は、殺せない」
それまで姿勢を正し、隙を見せずにリヴァイを睨んでいたナマエの空気が解けた。顔を歪め、足を退き、腰を引いて狼狽えた。手は一層、震えていた。
ナマエは銃を右手に持ち直し、銃口をリヴァイの胸から自身のこめかみへと移動させた。もう1歩、退きながら、いつでも自身の頭が撃ち抜けるように構えた。
「リヴァイ兵長の言う通りです……貴方を……リヴァイを、愛さずにはいられなかった!」
小刻みに震える手が振動して、瞳がわなないて見えた。潤む目尻は、涙を流す許可を今か今かと待ちわびる。
「死ぬつもりで来たのか」
「撃てなければ自死するつもりで来ました。もう故郷にも帰れない。帰る事は出来無い。私の……負けです。でも」
もう1歩、ナマエは退いた。
心のどこかでわかってはいた。命令に忠実であろうとする自分と、リヴァイを想う自分と、どちらが強いのか。本当はあの時──ジークから貰ったネックレスを口に含んだ瞬間、ナマエの人生は終わっていたのだ。
「でも……最期に会いたくて……会えて、よかった」
自己満足の結果だ。それは全てを取り除いた底に、残る願い。
ナマエは微笑んだ。涙はついに決壊し、頬を伝って落ちていく。右手の人差し指は、真鍮のレバーを押していく。カチ、とレバーの音が鳴ろうとしたその時、ナマエの人差し指より早く、リヴァイは動いた。滲む視界の端、風のようにリヴァイの手が通り過ぎる。
リヴァイのはらい退けた手で小型の銃は宙に舞い、床に落ちて、くるくると回転しながら扉の方まで滑っていく。リヴァイはナマエの両手を掴み、そのまま窓ガラスへとナマエの体を押しつけた。海の潮水で抜けた、ぱさついた髪の束がふわり、リヴァイの頬を撫でる。
「あ……」
「本気で撃とうとしやがったな」
は、とリヴァイの口からは呆れたような笑いが零れる。
「悪いが……お前の死体を見るのなんざ、1度で十分だ」
「あの……時……?」
「粗末な机に横たわるお前を見て、俺が何を想ったかわかるか」
無垢色の上に、青白い肌。白い布で覆われ、唯一の持ち物はリヴァイが贈った首飾りだけだった。
「あの時お前は死んだ。もう、それでいいじゃねぇか……俺を知ったお前は、故郷では生きられない」
「リヴァイ……」
「お前が望むなら、また祭壇を組んでやる。マーレでのお前はそこへ置いて来い。だが、これからはここで生きろ」
リヴァイは鼻先をナマエの耳元へと寄せる。そして低く、静かな声で呟いた。
「俺を選べ。ここから、お前自身を始めればいい」
鼻先は髪の中を弄るようにして、それから頬をなぞる。鼻同士が触れ、唇が触れた。
薄く開いた唇の間に、リヴァイは舌を押し入れた。貪るように、今まで足りなかった何かを補うように、夢中で口付けた。
きつく握りしめていた手首を解いて、両手でナマエの頬を包む。ナマエも、リヴァイの首に手を回して頭を引き寄せていた。
「それから……俺もだ。俺も……愛している」
ナマエの涙は一瞬だけ止まる。しかし一瞬の後、涙は勢いを増して込み上げる。嗚咽を上げながら、どうにか「私も」と繰り返し、一層強く抱き付いた。
「やっと、言えたな」
愛してる。愛してる。愛している。
こみ上げる感情は優しいものだけじゃない。しかしナマエは(私はもう死んだ)と心の中で繰り返し、リヴァイの腕の中へと沈んでいった。
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