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▽ シュレーディンガーの猫


開始時刻からは15分が経過していた。ナマエはちらりと左袖を巻くると、金縁のシンプルな腕時計で時間を確認する。もう乾杯は終わってしまったかもしれない。

片田舎にあるナマエの卒業した中学校の同級生は、ほとんどが地元を離れている。ご多分に漏れず、年末年始の帰省に合わせて集まる同窓会は毎年行われており、もう人生の半世紀が過ぎようとしていた。

「遅れてごめん」

待ち合わせの居酒屋の暖簾をくぐり、ナマエは見覚えのある団体にそう声を掛けた。同時にナマエの姿を見るなり、数人が手を挙げて軽い挨拶を口にする。

「空いてるとこ座れよ」

今年の幹事にそう言われて、ナマエはパンプスを脱いで一番端の座布団の上に座り込んだ。周囲を見渡すと、各々のグラスは中身は減っている。とっくに乾杯も終わった頃合いだ。

「よぅ」

メニュー表に手を伸ばそうとした所で、ナマエは目を大きく見開いて身動きが出来なくなった。そのたった二文字は、慌てて駆け込んできたナマエを驚かせるには十分過ぎる人物だったのだから。

「リヴァイ……?」

「いつぶりだかな」

そう言って置かれたグラスの縁には、雪化粧のような塩が固められていた。きっとソルティドッグだ。癖のあるカップの持ち方をする彼がこれを飲むのか、とナマエは頓珍漢なことを思った。もっと思うべきことが、他にあるはずなのに。

「いつ日本に戻ってきたの」

かろうじて口からそれを絞り出した。彼のグラスの中に入っている、グレープフルーツみたいに。

「先月だ。まぁ、それまでもあっちとこっちと、行ったり来たりだったが」

「そう……だったんだ」

「注文は」

それ以上その話題に触れたくないかのように、リヴァイはメニュー表を取りだした。しかしナマエはそれを受け取る前に、ちょうど隣にやってきた店員に向かって「私も、ソルティドッグ」と言った。

リヴァイは一瞬しかめ面をしてみせ、少し持ち辛そうにグラスの縁に指をかけた。

「変わってないね」

「馬鹿言え。何年経ってる、お前と別れてから」

「ちょ、そういう風に言う?付き合ってたのって、中学の頃の話しじゃない……」

「ああ。だから……それぶり、だな」

ナマエはニットの上につけていたシュシュを外して、無造作に髪を結った。別に食事の時に髪を束ねる習慣があるわけでもないが、何故だかそうしたかったのだ。反してリヴァイの目には、腕をまくった時の腕時計と、ナマエの髪の間から揺れる金色のピアスのコントラストが映っていた。幼い頃の記憶には何一つなかった、今の彼女を彩るもの。

お待たせしました、と店員がナマエの側にグラスを置いた。乾杯も終わって、場は良い雰囲気にばらけている。ちょうどナマエの座った場所はそこだけを切り取ったかのように、リヴァイとナマエの2人きりだった。

「結構飲む方か」

「……あんまり。付き合いで飲む程度かな。リヴァイは?」

「俺も同じようなモンだ」

ふぅん、と言いながらナマエは一気にグラスを傾けた。多少酔いが回らないと、今夜のこの場を乗りきれる自信が無かった。

「思い出補正っていうのかな」

「あぁ?」

かこん、とグラスの中の氷が音をたてる。

「すごく楽しかったの。中学生の時」

「今はどうなんだよ」

少しはにかみながら、リヴァイはナマエの方を向いて頬杖をついた。

「それ、聞く?」

ふ、とリヴァイから顔を逸らしたかと思うと、ナマエは店員に向かって手を挙げる。2杯目のソルティドッグを注文するために。

「仕事がうまくいってねぇのか」

「仕事は万事順調だよ。先月婚約破棄したばっかなの」

自分達の年齢と時期とを鑑みれば、ナマエの胸中を察するに有り余る一言で。しかしリヴァイは「理由は?」と話しを引っ張った。

「浮気されてたの。信じらんないでしょ?挨拶まで済ませてるのに」

自嘲気味なため息は、同時に2杯目のグラスを空にした。

「別にいいじゃねぇか。お前ならすぐ次がある」

「やっぱり……変わってないわ」

「あぁ?」

「初めてキスした次の日の放課後に、リヴァイはアメリカに転校するって言ったんだよ。それで私が別れるの?って聞いたら、今と同じこと言ってた」

視線を逸らしたリヴァイが、そのままの視線でグラスに口をつけた。「そういやそうだな」と口を開く頃に、店員はトレーにグラスを2つ乗せてやって来た。

「でもあの頃は今と違って。私、わんわん泣いたっけ」

「ああ。その場で大泣きだったな」

「子供だったよ。でも、それが楽しかった」

前髪をかき上げながら、ナマエはまたグラスを口につけた。「ペース早いぞ」とリヴァイが言うと「いいのよ」と言いながら、ナマエはまた一気に口に流し込んだ。

「俺も子供だった」

そして4杯目のグラスに口を付けながら顔を上げるナマエの顔は、赤く染まっていた。ふふふ、と今日一番の笑顔を見せながら、ナマエは呆れたような困ったような。そんな表情でリヴァイを見上げた。

「違う。まだ子供よ、リヴァイは」

その意が解せず、リヴァイは無言のままナマエを睨む。

「大人はね、さっきのセリフで、次があるなんて言わないの」

じっと2人の瞳が、宙で交わった。

瞬間、2人の意識は10代だった頃に舞い戻る。ナマエの称した思い出補正かもしれない。けれどそれでもいいじゃないか。色褪せないまま、大切にしていた思い出は今この時に、取りだされたのだから。

「そうか」

リヴァイはナマエの太腿の上にそっと手を置いた。ナマエも違和感無く、その上に自身の手を重ねた。

「リヴァイ……今、つき合ってる人いるの?」

「いや。先に補足しておくが、結婚もまだだ」

「あはは。そうだね、それも聞かなきゃね」

こてん、とナマエは頭をリヴァイの方へと寄せた。ここへ来てからどれくらい時間が経ったのだろう。まだ他の同級生とも、全く話せていない状況だというのに。

「おーい、なんだナマエ。酔っぱらっちまったのか?はえーなぁ」

幹事を務めていた同級生が2人に向かってそう声を掛けた。

「そのようだな。先に駅まで送ってくる。とりあえずこいつの分は今俺が立て替えておく」

一瞬リヴァイの体温が離れる。しかしすぐさま熱を持った彼のてのひらは、ナマエの手首を掴んで歩き始めた。周囲の喧噪が、早送りしているかのように過ぎていく。

ナマエの脳内には、巻き戻しの映像が次々と浮かんでは消えていた。

中学校の入学式で初めてリヴァイを見た日。一目ぼれをして必死に告白して、付き合えるようになった日。初めて手を繋いだ日。彼の自宅でデートをした日。キスした日。別れた日。

不愛想で無口だけれど、誠実で優しくて。ナマエはそんなリヴァイが好きだった。

「駅に着いたが」

昔よりもずっと逞しいその手がナマエを引く。

改札とは反対の、少し人気のない裏路地に連れ込まれ、壁際に押し付けられる。腕の中から見上げるリヴァイの瞳は大人だった。居酒屋で彼を揶揄ってしまったことを、ナマエは少しだけ後悔した。その瞳に相応の深いキスを、彼は有無言わずしてきたのだから。

そして少し息の弾んだナマエに向かって
「どうする、この後」と耳元で呟いたのだった。

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