▽ 闇夜の忠犬
第57回壁外調査を控えた調査兵団
ナマエは真っ暗な演習場の中を立体起動で移動していた。ハンジ班の護衛につくこととなったナマエは、1人精鋭の先輩達にまじって夜間訓練に参加しているのだ。夜間の訓練など不要だともされているが、壁外は巨人の領域。いつ何時に備えるのも勤めのうちだ。
ナマエの前にはハンジ、斜め後ろにはミケ、さらに後方にはナナバとゲルガーが飛んでいた。今夜の訓練限りの班構成である。
「一旦迂回する!総員、3時の方向へ」
ハンジの声が響き、ナマエはそれに倣った。大きく方向を変えてアンカーを放つと、視線の先には離れの兵舎にかがり火が揺れるのが見える。離れの兵舎とは演習所で訓練を行う際、小休憩をしたり装備の予備を補給したりする小さな建物のことだ。
ハンジはそこを目標に、大きく地面を擦りながら着地した。ナマエも同じように着地したのを確認して、ゴーグルを外しながら「おつかれ」と微笑む。
「夜間はやっぱり見辛いですね」
「まぁ、そのための訓練だからね。特段、今夜は月灯りもないから見辛かったけど」
空は曇りで、星の光さえ無い暗闇。かがり火の周りではかろうじてお互いの顔が確認できるが、先ほどまで飛んでいた森の中は本当に手探りの様な状態だった。
「皆さんお疲れ様です」
他のメンバーが着地してくる中、離れの兵舎から顔を出したのはペトラだった。
「あれ、どうしたのペトラ」
「今夜は兵長が急ぎの書類を提出しなければいけないとかで、リヴァイ班は一旦本部に戻ってきているんです。これ、兵長からの差し入れです」
ペトラはトレーの上に人数分のマグカップを乗せていた。カップの中身はグリューワインだ。シナモンやフルーツと一緒に温めた赤ワイン。
「ありがたいな。リヴァイはエルヴィンの所か?」
すんすん、とワインの香りを鼻から楽しみつつ、一番にミケがカップを手にした。
「はい。こっちに到着してすぐ夜間訓練があると聞いて、兵長が皆さんにこれを、と」
ハンジと、後からついたナナバとゲルガーもそのカップを手にした。まだ少し冷え込む季節。体の底から温まるその飲み物に全員が喜んだ。
「いただきます」
ナマエもそう言ってそのカップに手を伸ばそうとしたが。
「あ、ダメダメ。ナマエはこっちよ。兵長からきつく言われてるんだから」
最後の1つのカップはどうやらペトラの分だったらしく、ナマエの分はペトラが小屋の奥から取り出してきた。ご丁寧に、1つだけカップの種類も違う。
「なんでナマエだけそれなんだい」
ナマエの肩に軽く肘を乗せながら、ナナバはナマエのカップを覗き込んだ。
「ナマエの分はしっかりアルコールを飛ばせって、兵長に言われてたんです」
心当たりのある指示に、ナマエは誤魔化すように笑って見せた。
「心配性だね、ナマエの保護者」
「それ言ったらリヴァイが怒るやつだって、ナナバ」
「しかしこの差し入れは保護者故、だろうな。あいつが夜間訓練中の兵に差し入れなど前例が無い」
リヴァイへの揶揄い半分の会話が進む中、ナマエは黙ってカップに口をつけた。シナモン特有のスパイシーな香りに、フルーツの酸味が広がる飲み物。グリューワインを初めて飲んだナマエだったが、一口ですっかり大好きになってしまった。
「お、ナマエはいける口だな」
ごくごくとカップを傾けるナマエに、ゲルガーは冷やかすように口角を上げる。
「ナマエの分はアルコール入ってませんから」
ペトラは再度確認するようにそう言った、が。
「おいしいですね、このワイン」
ぱ、と顔を上げたナマエの頬は紅潮していた。
「……入ってないんだよね?」
ハンジはペトラに問いかけると、ペトラは激しく首を縦に振る。
「ナマエ、こっちおいで」
何故か目を細め、いささか睨みつけるような調子でナナバが声を大にした。しかしその両手は大きく広げられており、ここへおいでと体している。
「はっ」
ナマエもきりりと眉を吊り上げ、一瞬だけ敬礼を構えた後、そのナナバの腕の中に飛び込んだ。ぼふ、と音を立ててナナバに抱きしめられると、仔犬のような尻尾が振れているかのように見えた。
「保護者の気遣いも徒労に終わったか」
ため息交じりにミケが呟くと「そのようだよ」とナナバはにやりと笑って見せた。
「ほらナマエ、折角楽しい気分になってきたんだ。ミケんとこにも行ってきな」
「はっ!」
一旦ナナバから離れ、ナマエはミケに向き直り敬礼を構える。
「いや、敬礼はいらん。むしろするな、こんな所で」
「ミケさん!失礼しますっ」
本人はごく真面目らしい。
ナナバの時と同様、軽快にミケに飛び込んで行くが、ナナバより幅のあるミケには飛びついたものの、そこからどうすることも出来なくなった子猫のように見える。
「ちょ、ちょっとナマエ!しっかりしてお水飲んで。こんな所リヴァイ兵長に見られたら」
少し過ぎてきたおふざけに、さすがのペトラが両手を振ってその場を収めようとした。が、時すでに遅しで。
「……おいペトラ。これは一体どういう状況だ」
背後から響いた低い声は、ペトラが懸念していたその人以外誰でもなかった。
「リヴァイ……兵長」
ちょうどナマエはミケからひっぺがされ、今度はハンジの腕の中へとダイブしていく所で。
「やぁーリヴァイ!差し入れありがとう。お陰でいい思いさせてもらってるよ」
ははは、と声に出しながらハンジは腕の中のナマエに頬摺りする。リヴァイはじろりと横目でペトラを睨むと、彼女は早口で「ちゃんと兵長に言われた通り、お鍋に入れてナマエの分だけは3分の1に減る量まで煮詰めたんですよ」と弁明した。
「……なんであいつは酔ってやがる」
「相当弱いんじゃないでしょうか。も、もしくは場の雰囲気に酔ってるとか」
ナマエはリヴァイがやって来たことには気付かず、まだハンジの腕の中だ。
「ほらナマエ、次はゲルガー行ってきな」
ハンジはリヴァイが見えないようにナマエを腕の中から離し、ゲルガーの方を向かせた。
「ちょ、おい、待てナマエ!今はやめろ!」
「はっ!ゲルガーさん、失礼します!」
先ほどと同じく、一瞬敬礼を構えた後にナマエはゲルガーに向かって走りだした。目を白黒とさせて後ずさるゲルガーに、ミケとナナバとハンジは手を叩いて笑い声を上げた。
「待て、待てって!嬉しいけど、次俺の番だとか思ってたけど今は!」
少し本音も漏らしながら、ゲルガーが本気で逃げだそうとしたその時。ナマエの首根っこを掴んだのはリヴァイだった。心底びっくりしたように、「おや」とナナバが呟く。
「おい、ナマエ」
はっきり耳元で名前を呼ばれて、ナマエは振り返る。
今まで真面目な顔をして酔っていたナマエだったが、リヴァイを見た瞬間。頬だけでなく、瞳の中にも可愛らしい赤色が灯ったのを全員が確認した。
「リヴァイ兵長!」
「何してんだ、てめぇ」
「リヴァイ兵長!いついらっしゃったんですか?!リヴァイ兵長に会えるなんて!嬉しい!嬉しい!」
リヴァイの方を向いてぴょんぴょんと飛び跳ねるナマエは、まさに主人を目の前にした忠犬さながら。ハンジとミケは小声で「2回言った」「2回言ったな」と呟いた。
「アルコール飛ばしたモンで酔っぱらうなんて聞いてねぇぞ」
「酔ってません!ナマエは酔ってませんよ、兵長。この通りです」
びし、とまたもや敬礼を構えるナマエ。そして構えた直後、景気よくリヴァイへと抱き付いた。
しん、と場が静まり返る。次に口を開くのはきっとリヴァイだ。それもとびきりの罵声をナマエに浴びせるだろう。ふざけて抱き付くにしては相手が悪すぎる。全員が固唾を呑んでそれを見守ったがーーー
「ナマエ」
「はい?」
腕の中から、少しくぐもったナマエの声。
「確認をしておこう。お前は誰のものだという自覚がある?」
「もちろんリヴァイ兵長です」
「なら他の奴に、誰彼構わず抱き付くとはどういう了見だ?」
「はっ」
薄い眉毛をハの字にして、ナマエはリヴァイはを見上げた。その表情は他の一同には見えていない。再びしばしの沈黙が降りる。
「ナマエのやったことはなんだ」
「リヴァイ兵長への裏切りですね……」
しゅんとしたナマエの両肩に手を置いて、リヴァイはその鋭い三白眼で一同を見やった。
「だ、そうだ。以降、ナマエに酒らしいモンは一切与えるな」
言うなり、ナマエの手を引いたリヴァイは歩き始める。
「ちょっと、訓練の続きはどうするんだよ」
ぽかんとした面子の中、ナナバだけが引き留めようとしたが「もう無理だろう、今日は」とリヴァイは振り返りもせずに進み、ナマエを小脇に抱えてアンカーを放った。兵団内で一番の早さを誇る立体起動装置は、その威力を如何なく発揮してあっという間に見えなくなる。
「あれでつき合ってはないとか言うんだぜ、あいつら」
はは、と乾いた笑いと共にナナバの肩を叩きながらハンジが言うと「そもそもあの酒はリヴァイの差し入れだろう」とミケは頷いた。
「呆れちゃうね。でもあれだね、一番損したのは貴方だね。ゲルガー」
あと一瞬でナマエのハグ、という所でほったらかしの彼。
「いいさ別に。あのままだったら、リヴァイの奴に何されたかわからねぇしよ。おい、もうワイン余ってないのか」
「残りは今兵長が持って行っちゃいました」
2人を見送るペトラが困った様に言うと、ゲルガーは遣り様がない舌打ちを闇夜に溶かしたのだった。
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