▼ うさぎの病
繁華街の夜のにおいは独特だ。様々な人間が行き交う場所は、感情も音も忙しない。
リヴァイは視線の先に見覚えのあるハイヒールだけを見つけた。細いシャープペンシルが一本、かかとにくっついているような、軽く殺傷能力をも持ち得そうな、ヒールの裏側だけが真っ赤なシロモノだ。どうしてそんなに歩きにくいものを靴にするのかと、リヴァイは初めて見た時に考え込んだ。ハイヒールは点々と二足が続いて落ちていて、その先にバーキンが投げだされていた。水たまりの中に沈むのは、スワロフスキーたっぷりのドレスを着たナマエの姿。
「……悪い、ここで解散だ」
隣で歩いていた部下のペトラにそう言うと、ペトラは「え?」と不思議そうにリヴァイを見上げた。駅まではまだしばらくあったし、少し前の雰囲気なら、リヴァイはペトラを、せめて駅までは送ってくれそうなタイミングだったのだ。
「リヴァイ課長、あの」
「ナマエ!起きろ!」
水たまりの中のドレスが、彼女の呼吸によって小さく上下する。
「きったねぇな。何やってんだ、こんな所で」
んん、とか、あーとか。声にならない言葉を幾つかはいて、ナマエは寝返りを打った。リヴァイの隣にいたペトラは解散と言われたものの、そのまま帰る事も出来ずに。ナマエの散らかしたルブタンやエルメスを懇切丁寧に拾い上げ、水たまりの女を凝視する他なかった。
(ドレスは多分ディオールだわ)
一見するとキャバクラか何かで働いているような持ち物のラインナップではあったが、リヴァイが抱えあげたナマエの顔だけはひどく地味な風貌だった。水たまりにつっこんで、何もかも剥がれてしまったからかもしれないけれど。
「悪ィな。コイツの荷物は預かる」
ふいにリヴァイがペトラに向き直ってそう言った。
「いえ。荷物くらい持って行きます。彼女、知り合いですか?」
「彼女、だ」
「え!」
結局ペトラはナマエの荷物を持ち、リヴァイの自宅だというマンションにまでつき合った。部屋に入った所でナマエはぱっちりと覚醒し、起きるなり大声を上げる。
「リヴァイくんだー!おかえりー!」
「うるせぇ。散々人に迷惑かけてんだぞ。少しテンションおとせ」
「え、誰」
二人暮らしにしては広すぎるリビングルーム。無駄なものが何一つない部屋で、リヴァイはペトラに温かな紅茶を差し出していた。ナマエが知る限り、この部屋に自分以外の女がいるのは初めてのこと。
「誰ぇ?!」
「俺の部下だ」
「ペトラ・ラルといいます。はじめまして……」
酔っぱらいに絡まれても何一ついいことは無い。ペトラは肩身を狭くし、早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「浮気だ!」
「違う」
「ひどい!私の意識がなかったからって!」
「落ち着け、ナマエ。彼女は俺の部下だ」
「彼女とか言わないでー!」
リヴァイのトーンは普段と何一つ変わらないのに、ナマエは一言喋る度にトーンがあがっていく。感情の起伏は激しいらしい。
「リヴァイくんのばかー!」
リヴァイが大きくため息を吐いた所で、彼の腹心の部下でもあるペトラは立ち上がった。ナマエという彼女に関わる気はさらさらなかったが、黙っていられなかったのだ。
「ナマエさん!聞き捨てなりません。仮にもリヴァイ課長に向かってそんな……!リヴァイ課長は打ち合わせのミーティングで遅くまで仕事をしていて、疲れて帰ってきてるんですよ?貴女はわけがわからなくなるまで飲んでただけじゃないですか!そこまで言う必要あります?」
ペトラの言葉はまだ肌寒い春の夜の空気を、一層ピンと尖らせるほど鋭く強力で。ナマエは目を見開いて彼女の言葉を聞いた。
「……み!」
「待て、ナマエ」
リヴァイがナマエの手を掴もうとしたけれど、ナマエの手はするりとそれをすり抜けて。
「み!」
ペトラから距離を取るように、ナマエは後退る。途中でアイランドキッチンの角に腰を打ち、食糧庫の扉に肘をぶつけ、トイレの中へと逃げ込んだ。
「みみみ……みみみみみみ」
閉められたトイレの中から聞こえる、声。
「な、何て言ってるんですか、彼女は」
「鳴いてる」
「は?」
「鳴いてるだけだ……オイ、ナマエ。しょうがねぇな。みみみ……みみみみみみみ」
「みみ……みみみみみ」
「みみみみ……」
リヴァイとナマエの「み」だけの会話はしばらく続き、トイレの扉はどちらからともなく開いた。トイレの中の音がクリアになると、ナマエのすすり泣く声が室内にも響く。
「……うっ……あの人、とてもまっとうなことを言っているの」
「安心しろ。お前以外の人間は大抵がまっとうだ」
「わたし、悲しいし寂しい気分。まっとうな人の輪に入れないって、改めて思い知ったわ」
「そうか。普段から心掛けてくれると助かるんだがな」
おいおいと大げさに泣き続けるナマエの背中を、リヴァイは口調とは裏腹に優しく撫で続ける。
「……変なとこ見せちまったな」
「いえ……変か変じゃないかと問われれば変でしたけど……」
言いたい事も聞きたい事も、ペトラとしては多分に残す所ではあるけれど。泣き出したナマエは見ているだけでどっと疲れを催して、今夜の所はあっさりと退散することにした。
ペトラがいなくなったリビングは余計に静かだ。人の気配が一つ減って、ナマエも幾分か落ち着きを取り戻した。
「リヴァイくんの……お耳がたべたい」
「ああ、風呂に入ってからな」
帰宅して小一時間。ようやくネクタイを緩めることが許されたリヴァイ。ほどいたネクタイはすぐさまクリーニング行きのバスケットに放り込まなくてはならない。そのあたりに置いておくと、ナマエがリボン結びにしてシワだらけにしてしまうから。
素早く身支度を整え、バスタブにお湯を張り、ナマエご所望のハチミツの香りがするバスソルトをたっぷりとお湯に沈めて、リヴァイはナマエの服を脱がせる。水たまりにつかっていたせいで、体とドレスを引き剥がすのも至難の業だ。
「酒は、俺がいない所では飲まねぇって約束じゃなかったか?」
「お酒じゃないわ。シャンパンだもん」
「酒だ」
「シャンパンって名前なんですー」
「クソが」
冷え切ったナマエの頭の上からシャワーをあてると、彼女は「きもちい」とお湯越しに叫んだ。
「そうか。よかったな」
「綺麗になったよ!お耳、お耳」
リヴァイがバスタブに浸かると、ナマエはリヴァイの上に跨るようにして座り、リヴァイの耳に唇を寄せた。
「……はむはむしてると落ち着くんだよねぇ」
「俺は落ち着かねぇ」
ちゃぷちゃぷとお湯が跳ねる。ナマエはしばらく楽し気にリヴァイのお耳を堪能し、ほどなくすると彼からの反撃を受ける。リヴァイがナマエのお耳をはむはむすると、はむはむだけでは済まないのだ。
お風呂からあがったナマエはペトラのことなんかもすっかり忘れて、ついでに自棄酒をしていた理由も忘れて、今夜もベッドの中でリヴァイくんからの寵愛を受けるのであった。
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