▼ 2.愛・泥・沼キッス
次の日、雪はいっそう深くなっていた。ナマエの心の中も、分厚い雪雲がかかってしまったように重い。
(リヴァイ兵長とつき合うことになってしまった)
昨夜のリヴァイはナマエがこれまで見てきた中で、一番優しかった、と思う。
しどろもどろと言い訳を並べようとするナマエに一言。
「大丈夫、心配するな。壁外となると話しは別だが、お前は俺が守る」
意中ではないとはいえ、尊敬する、そこそこイケメンな上司からそんなことを言われ、きっぱり断ることのできる女兵士がいるだろうか?いや、いない。リヴァイ兵長が悪い。ナマエはそう思いこむ。
兵長とつき合う。ちらちらと肩に積もる雪をはらいながら、頭の中で自然と反復していた。つき合う。兵長とつき合う。あの人と私は恋人同士……
「ちょっとー!ナマエ、やっと起きてきたじゃない!」
洗面所に着いた時。ニファをはじめ、主に同期の兵らの視線がいっせいにナマエに集まった。
「え、遅かった?今日いつもの時間だよね」
「時間のことじゃないよ。リヴァイ兵長とつき合うことになったんだって?!どうしてそうなったの!」
ナマエの好きな人はハンジ、ということを知っているニファだけは、困惑した様子でナマエの両肩をつかみ、遠慮なく揺さぶってきた。
そのニファの近くに集まった人らの反応はさまざまだ。
──どうしてナマエが!
──私ずっと兵長のこと狙ってたのに!
──次の壁外調査から帰ってきたら告白しようと思ってたのに!
──どうしてナマエが!
「なんか……ごめん」
「私に謝っても仕方ないでしょ?!ハンジさんのことはいいの?」
ハンジの名前を出した時だけ、ニファは声をひそめた。
「うっ……よくないよぉ」
「ナマエのことだから、間違って兵長に告白でもしちゃったんじゃないの?はやく誤解ときなよね!兵長に失礼だよ、本当に」
ニファの言う通りである。
どこから流出した噂かわからないけれど、こうなったらはやく事情を説明して兵長と別れなくては。
しかし食堂に辿り着いた途端、ナマエの決意は違う意味で大きく揺らぐ。
「オーイ!ナマエ、おはよう。こっちにおいでよ」
「ハンジさ……ん……」
珍しく朝食の時間に食堂にいるハンジ。ナマエに向かって大きく手を振っている。普段なら飛びついてハンジの隣に座るはずだ。向かい側にリヴァイがいなければ。
「あの……ハンジさん、私、今朝はニファたちと食べます」
「いいからここ座りなって。リヴァイもナマエのこと待ってたんだからさ」
「オイ、ナマエが困ってんじゃねぇか。余計な気を回すな、クソメガネ。ナマエよ、気にするな。ニファたちが待ってんならそっちに行ってやれ。食事の時間まで上官につき合う義理はねぇ」
そう言われると逆に断れない、それがナマエである。リヴァイの純粋な優しさが心苦しい。
「いえ……でも、ハンジさんも朝食ご一緒するのは久しぶりですし。邪魔じゃないですか?」
邪魔なもんか!とハンジは笑いながら、イスを一つ隣にずれて座り直した。ナマエとリヴァイが向かい合わせになるように、だ。
毎日変わらない、味気ないスープとパンが余計に喉に詰まる。
「それにしてもさぁ。ほら、リヴァイって私よりあとに調査兵団に入ってきたじゃないか。ナマエはさらにそのあとで、私の班に配属されて。そんな二人がさぁ、無事に結ばれたとなると感慨深いよ。私昨日、思わずエルヴィンの所にも報告に行っちゃった」
噂の発信源はここか。ナマエの内心は絶叫してまくし立てたい所であるが、相手がハンジなので無理である。
「てめぇ。エルヴィンにもチクッたのか」
「そりゃ言うさ。喜んでたよ?」
ふん、と鼻を鳴らしたリヴァイは紅茶をすする。満更でもない様子。
「というか、それってもう兵舎内の人みんな知ってるってことですかね……?」
ナマエが恐る恐る尋ねると、リヴァイはさも当たり前のように
「どうせ知ることになる。というか知っておいた方がいい。何も知らずにお前に手を出す男がいれば、そいつの命が危ないからな」
(兵長ー!)
私、今隣にいる人に手を出されたいんですが。とは口が裂けても言えない状況だ。そして噂はリヴァイ自身も広めたのでは?
「リヴァイ言うねぇ!はは、二人ともお幸せに!じゃあ私はそろそろ自室に戻るよ。ナマエ、朝礼が終わったら私の部屋に顔を出して」
「はっ!了解です」
公私混同はまずい。指示が下った瞬間ナマエは立ち上がり、ハンジに向かって敬礼を構えた。
取り残された二人。リヴァイはまだ紅茶を傾けている。
「兵長……は、もうお食事終わったのでは?」
「……あぁ」
そしてナマエが食べ終わるタイミングで、リヴァイは立ちあがった。
(私のこと、待っててくれた?)
「ナマエ、今夜時間はあるか」
「今夜、ですか?何か……?」
「俺の部屋に、きてもいい」
それだけ言うと、リヴァイはトレーを持って去ってゆく。ナマエにとって願ってもないチャンスだった。便宜上つき合いはじめたとはいえ、夜のプライベートな時間に自ら踏み込むには気が引ける。しかしリヴァイから誘われたとなると、二人で話しがしやすいではないか。
今日こそアルコール抜きで。きちんと誤解をとかなくては。
*
いつもなら寝間着になっている時間であったが、ナマエは街へ外出する用の比較的清潔そうに見える服に着替え、リヴァイの部屋を訪れた。
ノックをすると返事はなく、ややあって開く扉。こちらも同じ私服姿のリヴァイが、当たり前のようにナマエを出迎えた。
「こ……こんばんは」
「入れ。何か飲むか」
「いえ、私は」
会話を見越していたのかもしれない。ナマエが促されるままソファに座ると、目の前にはソーサーに乗った紅茶が差し出された。
「すみません」
「いちいち気にするな。恋人がきたら茶くらい出すだろ、普通」
(兵長ぉ……)
いちいち気になるのは貴方の優しさです、とナマエは思う。
「俺もやきが回っちまった」
「え?」
「お前が他の男と話してると腹が立つ」
(急に何を言い出すの、この人)
「なぁ、他の奴から言い寄られたりしてねぇだろうな」
出された紅茶は風景に溶け込み、手が付けられないままでいた。リヴァイはソファの背もたれに肘をつき、ナマエの方に向かって頬杖をつく。
「そ……そんな。私なんか、誰も見向きなんかしませんよ。それより私兵長に……」
「そんなわけあるか。こんな可愛い顔しやがって……クソ」
頬杖をついたまま、空いた方の手でナマエの頭を撫でる。
「俺がこんな調子だからな。日々の訓練や執務に支障が出ないようにしなくちゃならねぇ。だから対策が必要だと思ったわけだ」
(よし、今だ!一番の対策は別れることですよ兵長!)
「お前に触れたい」
「えっ……」
ナマエの頬を、両のてのひらが包んだ。まるで羽根みたいに。じっと目が合う。リヴァイの言葉も、動きも、ナマエに関することすべてが優しくあるのに、その目で見つめられるとまるで動けなくなってしまった。目の奥だけに宿る、ナマエを求める感情だけがチラチラと揺れている。
「お前が足りないんだ。だから、触れたい。まだ、早いか?」
「は、早いとかじゃなくて……」
胸の前で固くにぎりしめていた拳をほどいて、ナマエはリヴァイのてのひらに重ねた。そっと振りほどこうと思ったのだ。しかしリヴァイはそれをナマエのイエスと受け取ったようで。
「っン……!」
ついに唇が重なってしまった。
(まずいまずいまずい)
いけない。一線を越えた。これは越えてしまった。ナマエは焦る。
しかしリヴァイはキスも優しかった。
ついばむ唇は柔らかく、ゆっくりゆっくりと角度を変えてナマエを魅了する。頬をつつんでいた両手は首筋を撫で、背中を撫で、それからリヴァイに引き寄せられる。
(あ……あったかい……兵長って体温あったんだ)
人肌恋しい、なんて言うけれど。こんな人の体感を知ってしまったら、無くなってしまった時にまた、欲しくなってしまうかもしれない。それくらい、心地良かった。
「へ……ちょ……」
顔の角度を変えた時、ナマエは呟いた。リヴァイは口角を上げて笑ってみせる。それから。
「んんっ……」
さっきまでの触れていたキスと違って、舌先が潜り込む。湿り気を帯びた触れ合いは急に官能をともなって、ナマエの体を熱くした。
「っは……ァ……」
「ナマエ、なんて顔してやがる」
「だっ……兵長、が」
「止められなくなるだろうが」
体が揺らいだ。一瞬だけ視界が線のように動き、ナマエはソファの上に押し倒されたのだと悟る。
「兵長……!あの」
「いきなり最後まではしない。が、」
「が……?なんですか……?」
その先はリヴァイの口から言葉ではなく、態度で示されることとなった。
翌日の食堂では、朝方ナマエがリヴァイの部屋から出てきたという噂で持ち切りになるのだが、この時のナマエはまだそれを知らない。
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