▼ 1.勘違いリスタート
雪が降り始めると調査兵団も長い休みに入る。執務や壁内での訓練が主になり、特に一般の兵士らには一年の中でも安堵する時期だ。
そんな季節の変わり目、恒例の慰労会と銘打った宴会があった。
調査兵団本部内の食堂で調査兵が一堂に会し、今宵ばかりは無礼講といつにない喧噪で溢れ返る。
「ナマエ、チャンスがきたよ!」
円卓の片隅で薄いビールを喉に流し込んでいた所に、容赦なく抱きついてきたのは同じ班のニファだった。
「なに?チャンスって」
「ハンジさんのことだよ!今、隣の来賓室で一人で飲んでるみたい。告白するタイミングじゃない?!」
ニファの目はらんらんとしている。
そう、ナマエはハンジ班に所属して以来、ハンジに密かな想いを寄せていた。
訓練兵時代からハンジの名前は広い意味で有名で、興味を持ったのがきっかけだ。憧れのような恋のような。自分でも名称が難しい、心臓の裏側がくすぐられるような気持ちを、ナマエはニファにだけ打ち明けていたのだ。しかし。
「いきなりなんて無理だよ!なに言ってんの」
「そっちこそなに言ってんの?ハンジさんが一人で飲んでるなんてシチュエーション、滅多にないのよ?いつも誰かしら側にいるじゃない。こんなチャンス、次にいつくると思ってるの?これでもしうまくいけば、今年の冬期休暇はハンジさんといいことがあるかもしれないのに!」
つき合いの長いニファの説得は適切にまとまって、それでいて力を持っていた。すでにアルコールが入ってぼやけた頭のナマエにも、そうしなくてはならないと思わせるほどの勢いもあった。
「わ……わかったわ。ここはいっちょ、頑張りどころよね。フラれてもきっと、ハンジさんなら普段通りにしてくれるだろうし」
「そうよ!私やモブリットさんもサポートするんだから!いってきなさいよ!」
ニファの方が先に立ち上がり、ちょうど周囲に座っていた班員らに向けて声を張った。
「ついにナマエがハンジさんに告白する時がきました!」
なんだって?!ついに?!
ざわつきながら視線がナマエの方へと集まる。分隊長を人間にしてやれ!人の世界に戻してやるんだ!そんな野次が方々から飛んでくるが、ナマエは無言で両手を挙げて食堂を出た。さながら戦地に向かう兵士である。
食堂を出ると打って変わって。
雪の積もる敷地は途端に音が消える。ナマエの背中には一寸前までの仲間らの声で溢れているのに、視線を先に向けるとただただ無音と白の世界。
来賓室のある建物の赤茶のレンガも、寂しげに雪を張り付かせていた。ハンジはこの建物の中で一人、酒を傾けているのだろうか。
分隊長ともなれば、ナマエらには与り知らぬ想いを抱えこむこともあるのだろう。できれば少しでも、そんな心の荷物を持ってあげたい──ハンジがいる部屋はすぐにわかった。外から唯一、明かりが点いていたからだ。橙色が漏れる部屋はわかりやすい。ナマエは廊下側にまわり、扉の前で深呼吸。
(よし。せっかくニファがお膳立てしてくれたんだし。言ってしまおう)
しかしノックをした瞬間、途方もない羞恥がナマエの全身を駆け巡った。
(言える……?本当に?)
脳裏にまたたくのはこれまでハンジと過ごしてきた思い出だ。ふざけ合ったり、兵団のことを真面目に語り合ったり、壁外で背中を預け合ったり。
フラれてもきっと大丈夫。ニファが言っていたように。しかし本当だろうか。あの楽しかった日々が消えてしまうようなことは、ないだろうか。
部屋の中から椅子を引く音が響く。ナマエは咄嗟に叫んでいた。
「すみません!このまま聞いて下さい!」
再び、深呼吸。
「私……私、ずっと好きで。優しくて強くて、部下想いのあなたのことがずっと大好きで。いつかちゃんと、この気持ちを伝えたかったんです。今、お一人で部屋にいるって聞いて」
視界は扉の木目を見つめているのに、チカチカと定まらなかった。気持ちと言葉とが均一にならなくて、それがパニックになっていることなのだとナマエは気付く。それでも一度初めてしまった告白だ。最後まで、きちんと通さなければ。
「私のこと、ただの部下だということはわかってます。でもほんの少し……特別な存在になれたらって……え?」
規則正しい木目がナマエの方に向かって動いた。中から、扉を開いたのだ。
「お前の気持ちはよくわかった」
そしてナマエの目の前に立っていたのは、しかめっ面のリヴァイであった。
(間違えたー!)
「なにも廊下に立って言うことねぇだろうが。中へ入れ。他の奴に聞かれちまったらどうする」
「いや、あの、兵長、これはですね」
さらに不運とは重なるもので。
「たっだいまー。聞いてよリヴァイ、トイレだと思って入ったとこが厩でさぁ。私もだいぶ酔ってんのかなぁーって……あれ?ナマエ?」
まるで空気を読まない……いや、本来ならば部屋の中にいるべきハンジ本人のご帰還だ。
「どうしたの?食堂の方でニファたちと飲んでなかった?」
「ハンジさん……!」
「ハンジ、少し席を外してもらえるか」
そっと低音で呟くリヴァイの声は、ナマエがこれまで聞いた中で一番優しい声色をしていた。それが兵長の思いやりなのだと気付き、余計に申し訳ない気持ちになる。
「なになにー?まさかナマエ、私がいなかった間にリヴァイに告白でもしてたっての?」
「そのまさかだ。いくら上官とはいえ、こういう時は気を利かせろクソメガネ」
(兵長ー!)
もはや打つ手なし。退路は断たれてしまった。
「そ……そうだったのか。ゴメンよナマエ。私は食堂の方に行ってるね。じゃあリヴァイ、うちのナマエ泣かせるようなことはしてくれるなよ!大事にしてるんだからな!」
「わかってる」
さらには「頑張れよナマエ!」と繰り返しながら、ナマエの意中の人は食堂の方へと行ってしまう。
雪の降りしきる外と違わぬ沈黙が、部屋の中に落ちた。
「まぁ……なんだ。ここじゃ食堂から近い。俺の部屋にくるか?」
「いえ、兵長私は」
せめてここで、リヴァイへの誤解だけでも解いておかないと大変なことになる。すでに泣き出しそうではあったが、ナマエは必死に涙をこらえて顔を上げた。
「オイオイ、泣くこたねぇだろうが。先に言っておくが俺もお前に気があったことは確かだ。安心しろ」
(なんですってー!)
逆です逆、安心できません。部屋へは行けません。
しかしもう、そんなことを言うタイミングなどとうに失っており。
「紅茶でも淹れてやる。落ち着いたら、お前の気持ちを聞かせてくれ」
そっと肩に乗せられる手は、部下でも仲間でも友人でもない。恋人への触り方そのものだった。
急にリヴァイが知らない人になってみたいで、ナマエはあんぐりと口を開ける。
そして部屋に着くまで、この窮地をどう脱するべきか悩んだ。巨人の手の平から逃げ出すよりも難しい。なにしろ相手はあの人類最強なのだから。
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