ティーポットフィッシュ | ナノ


▼ 2.トランザクションの夜

麻袋の上からでも、銃口の感覚はわかる。

「いいか、よく聞け。俺はお前を殺しやしない。しかし少しでも騒いでみろ、指や耳が吹っ飛んでいくことになる。無傷でとは言われてねぇんだ」

麻袋を突き破り、ナマエの耳元ぎりぎりにナイフの刃が通った。ナマエは込み上げそうな嗚咽を殺して、力の限りうなずく。

リヴァイはナマエを。
文字通り麻袋を担ぐ要領で抱え上げると、歩きはじめた。ドアの閉まる音。絨毯を踏む気配。ひとつひとつ、見えない感覚でナマエはそれを察する。

リヴァイの足どりは軽い。まるでナマエなど抱えていないような軽快さで、螺旋階段を下りてゆく。

「なんだぁ?!なにごとだ、あんた」

途中で年配の男性の声が響く。おそらく同じアパートメントの、違う階の住人だ。助けてと叫んだ方がいいだろうか。ナマエは思案するが。

「ほっとけ。こういう趣味なんだ」

声色を変えずにリヴァイは言う。彼は帽子をかぶっているわけでも、特に覆面をしているわけでもない。えらく堂々とした誘拐犯だ。

「なんか事件じゃないだろうな?最近この辺も物騒だ。俺ァ目撃者になるのはごめんだよ」

「そうか。なら被害者にしてやる。警察の前に救急を呼べ」

音が途切れた。軽口を叩いていたような空気が冷たくなる。ナマエがそう感じた次の瞬間、男性のつんざくような悲鳴。リヴァイがナイフを投げたのだ。

「おおげさな奴め。ダーツでいえば20トリプルだ。大した傷じゃねぇよ、よかったな」

言い残して再び歩き始める。螺旋階段はあっという間に終わってしまった。

車はアパートメントのすぐ目の前に停められていて、ナマエは後部座席に投げこまれた。視界をおおわれているので時間も距離も曖昧だ。ミッション車のようで、時折シフトレバーの遊ぶ音が聞こえる。街中を走っているのには違いないようだ。信号停車が多い。

メインストリートよりも裏路地のような道を走っている。曲がり角が多くなってきたあたりで、リヴァイが口を開いた。

「ナマエ」

急に名前を呼ばれたので、ナマエは体を強張らせる。返事などできなかった。

「聞こえてんのか、聞こえてねぇのか。どっちだ」

「聞こえ……てる」

「今から俺のことはリヴァイと呼べ」

ブレーキ。停車。つんのめる体。

リヴァイが車を降りる。後部座席の方へと回ってきて、ナマエの頭にかぶせた麻袋を取った。手錠は片方の手だけを解放し、繋がれたままの手首には上着をかける。

「立て。移動する」

しっかりと片手は拘束したまま、リヴァイは古いアパートメントへと立ち入った。ナマエが住んでいたアパートメントとよく似ている。入ると中は絨毯敷で、螺旋階段の手すりは細工の効いたアイアン調だ。

二人で階段を上ろうとすると、出てきた時と同じように住人らしき老婆とすれ違った。ナマエは背中に汗をかく。どうしよう、またなにか言われたら──

「おや、三階に引っ越してきた人かしら?」

一階に下りようとした老婆、二階へと差しかかる二人。階段の上下で、双方がふり返る。リヴァイは口だけを笑ってみせて。

「ああ。こっちは俺の女だ。よろしく頼む」

そしてナマエの背後に銃口を押しつけた。慌てて会釈すると、銃口は緩む。

「そうなの。私あなたたちの真下に住んでるのよ。よろしくねぇ」

「足元気を付けろよ、ばーさん」

「ご親切にどうも」

なにごともなかったように、再び階段を上がる。ナマエの部屋と同じ三階の、突きあたりの部屋だった。

リヴァイは慣れた手つきで鍵を開け、ナマエはリヴァイに押されるような格好で中へと押し入った。

廊下の突きあたりにビーズののれんがかかっている。部屋数は多くない。ダイニングとキッチンはひと続きで、真ん中に二人掛け用のダイニングテーブル。リビングの方には小さなテレビと一人掛け用の小さなソファ。ソファの隣のスペースにベッドもあった。ワンルームのアパートメントだ。

妙に違和感を感じるのが、無理矢理に詰め込まれた家具たちだ。生活することを考えられていないのだろう、テーブルはやけに大きいのに、ベッドは小さなシングルだったりする。

ナマエはベッドの前にくると、背後からリヴァイに押された。足がもつれて、スプリングへと倒れ込む。

「この家の中では自由に動くことを許可する。勝手に家を出ようとするのは厳禁だ。窓から外の景色を楽しもうなんぞ考えるな。玄関にきたお客様は俺が迎える……質問は?」

早口なわけでも、ゆっくりなわけでもない。リヴァイの淡々とした口調は独特だった。ナマエを誘拐してきたことも、途中で人にナイフを刺したことも、まるで日常の続きなのだ。ナマエにはわかり得ない。この部屋の家具のように、ちぐはぐな常識。

体を起こすと、ナマエは震える口を開いた。

「リヴァイ……どうして、私なんかをつれてきたの?うちに身代金を払えるほどの余裕はないと思う」

リヴァイは一瞬だけ眉を吊り上げると、鼻で笑って。

「その質問に関しての答えはこうだ。身代金が目的じゃねぇ。他に質問は」

「家には帰してもらえるの?」

「お前とお前の……」

言葉を切り、急に上着のポケットからスマートフォンを取り出した。

「人質のお仕事の時間だ」

そう呟くと、リヴァイは画面をタップした。着信のようだった。スピーカーフォンにして、テレビの前のサイドテーブルの上にスマートフォンをたてる。画面の向こうからは、すぐにジークの声が聞こえてきた。

「妹はそこにいるんだろう!リヴァイ!」

「ああ、久しぶりだな髭面」

「ふざけるな!お前、妹に手を出してみろ。ただじゃすまない!」

ナマエが身を乗り出した。察したリヴァイは、ナマエの唇の前にひとさし指を立てて睨んでみせる。

「てめぇ、髭面。俺にそんなクチが聞けると思ってんのか?てめぇの大事な妹は今俺と二人っきりだ。ほら、大好きなお兄ちゃんからだ。余計なことは喋るな。助けてくれって頼んでみろ」

ナマエの目の前にあった無骨なひとさし指が消え、かわりに指先はスマートフォンをさした。

「お兄ちゃん……」

「ナマエ!無事か?!リヴァイになにもされてないか?!」

「お兄ちゃん、どうして、私……されてない、けど。でも、どうして」

自分で思っていたよりも、言葉にならない。どうして自分がリヴァイに誘拐されてきたのか、リヴァイとジークが互いに知った風であるのか。なにから聞けばいいのか。

「ナマエ、兄ちゃんが必ず助け出してやるからな!」

「だ、そうだ。兄妹の会話はそこまでにしとけ」

再びナマエの目の前に、ひとさし指。リヴァイはスマートフォンのスピーカーを切って、自分の耳に押しあてる。

「ジークよ、俺の目的はわかってんだろうが。聖典をよこせ。準備するのに時間がかかるのもわかっている。三日、待ってやる。お前の妹が聖典と交換できる期限が三日ってことだ。人質の価値がなくなったと判断したら妹は殺す。いいか、よく考えて返事をしてこい」

リヴァイは一方的に電話を切ったようだった。

ナマエはビーズののれんが揺れるのをしばらく観察してから、ゆっくりと深呼吸をした。

「リヴァイ……もうひとつ、質問」

「あ?」

「聖典って、なに?」

ジークは宗教学の研究者だ。バイブルのことだろうか、とナマエは思う。しかしありふれた、書店やホステルや駅の売店ですら購入できるようなバイブルが、人一人の命と交換条件にかけられるのだろうか。

「お前、なにも知らされちゃいねぇのか」

「なにもって……なにを?」

「いや、いい」

言葉を切ると、リヴァイはシャワーとトイレ、それから寝る時はナマエがベッドを使うようにと説明した。部屋から勝手に出ることさえしなければ、本当に自由に動いていいようだった。

それでもナマエはシャワーを使う気にはなれず、残ってた片方の手錠が外されると、すぐにベッドに潜り込んだ。妙な静けさが部屋の中を満たしている。緊張と恐怖、それから困惑。それらの感情はナマエを包み、布団の隙間からも入りこんでくる。

ナマエが布団をかぶったのを見て、リヴァイは部屋の照明を落とした。

室内が淡いオレンジ色に染まる。テレビの隣の一人掛け用のソファに腰掛けると、リヴァイは持ち込んできた、黒いボックス型のバックを取り出した。留め金の部分だけがゴールドに光っていて、一瞬そちらを向いたナマエは目を細めた。

黒いボックスの中から出てきたのは、分解された自動拳銃ベレッタM92だった。ボディ、マガジン、消音器サプレッサー、そしてバックの留め金のように光る、弾丸。それらを一つずつ、小さなテーブルの上に並べていく。

ナマエの家にも、護身用の拳銃くらいは置いてある。ベレッタだったかもしれない。でも一般家庭におおよそあり得ない消音器サプレッサーだとかたっぷりの銃弾は、見ていたら背筋がつい、と寒くなる。怖いもの見たさもあったのかもしれない。ナマエは布団を目元のぎりぎりまでかぶると、じっとリヴァイの手の動きを見つめていた。

並べられる銃弾は、宝石店のダイヤモンドでも扱うような丁寧さで、一つ一つ陳列されてゆく。縦に十五個、横に三列。一ミリのずれもないように並べ終わると、それを一つずつマガジンへと押し込んでいく。横に三列あったので、三つ分のマガジンだ。最後の一つは銃のボディへとセットする。カチャン、ガチャン、と音をたて、仕上げにボディの上部をスライドさせた。引き金を引けば、すぐに発砲できるように。

仕上がった拳銃はテーブルの上に置かれたままで、次に取り出されたのはサングラスだった。フレームの丸い、黒のサングラス。それをかけると、リヴァイはソファのひじ置きに両手を預けて深く座り込み、深呼吸をした。

ちぐはぐな部屋がさらに統一感を失う。リヴァイの寝息が、漂った。

寝ているのだろうか、本当に?ナマエはしばらくそのままじっとして、座ったままのリヴァイを見ていた。薄暗いサングラスの奥で、瞳は確かに閉じている。

唐突にトイレに行きたくなったナマエは、リヴァイから目をそらさないまま起き上がった。体を起こして、両足をそろえてフローリングにつま先を乗せた瞬間。

「……っ!」

フローリングがきしむのと、リヴァイが音を立てて銃を握るのと、ずらしたサングラスの上目遣いが睨みを効かせるのは全く同時で。

「クソでもつまったか?」

「トイレに、行ってくる」

「ああ」

フローリングの上が、一本の綱のようだった。一歩踏み外せば即死の高さに吊られたそれは、生きるか死ぬかの綱渡り。震える脚に力は入らない。どうにか生にしがみつきたいナマエは、振り返らないようにそろそろとユニットバスのトイレへと歩みを進める。

銃口が背中を狙っているようだった。

トイレへ入って扉を閉めると、鏡に映った自分と目が合った。青ざめ、疲れ、ひどい顔をしている。どうしてこんなことになってしまったのだろう。今朝までは、いつものようにリビングでコーヒーを飲んでいたのに。どうしたらこんな事態が訪れることを予想できただろう。

耳の奥で、ジークがナマエを呼ぶ声が聞こえるような気がした。ナマエとか、お花ちゃんとか、あの柔らかな笑顔で。

鏡を見ながら、ナマエはしばらく声を押し殺して泣いた。長い時間を泣いて過ごしていたが、リヴァイがそれを咎めることはなかった。

最初の、夜。


prev / next

[ back ]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -