▼ 1.お花ちゃん
バターでこんがりと焼けた面を裏返すと、ナマエの背後で扉の開く気配がした。
タイミングはばっちりだ。コンロの火を消し、フライパンを持ち上げ、片手で朝食用のプレート皿を二枚分取り出す。
「いいにおいだねぇ」
「おはようお兄ちゃん、今朝はフレンチトーストだよ。あとカリカリのベーコン」
眼鏡の下の目をこすりながら、ジークは「やったね」と呟きつつ、コーヒーメーカーをセットした。すぐにコポコポとお湯が沸く音がして、テレビのニュース番組のボリュウムを上げる。真っ黒なスーツのキャスターが淡々と原稿を読んでいた。流れる内容はほの暗いのに、テレビの後ろの窓は明るい。
「先に着替えてきたら?」
「研究会の日だから、昼過ぎに出たら間に合うんだ。ナマエもまだガウンじゃないか。今日、大学は?」
「私も午後から。夜はヒストリアとご飯行こうって約束してるの」
「じゃあ俺は外で食べてくるよ。エレンも帰りは遅いだろうからな」
「うん……」
三人掛けの丸テーブル。ここ数年、このテーブルに三人家族がそろったことはない。
チェックのパジャマにガウン姿で食べる朝食。コーヒーの香りが心地よい。大学に入って忙しくなったからこそ、日常の隙間時間がほっとする。願わくばここに義弟のエレンもいれば、三人で過ごせるのにとナマエは思う。
ジーク、ナマエ、エレン。三人の中で、血の繋がりがないのはナマエだけだ。ジークとエレンが本当の兄弟なのに、最近ではナマエとジークの間でしか家族の会話がない。
ハイスクール時代の頃から、エレンはジークとナマエを避けるようになった。家にいる時は部屋にこもりがちで、無断で外泊していることも多い。
「ランチにジャムサンド作るけど、お兄ちゃんもいる?」
「もらってくよ。また職場で自慢するんだ。妹に作ってもらったってさ」
「やめてよ」
怒った顔をして言うが、照れ隠しなのはジークもわかっている。残りのベーコンを口に押し込むと、ナマエは再びキッチンに立った。
テーブルで新聞を広げたジークと他愛ない話しを続けながら、ナマエはぶどうのジャムたっぷりのサンドイッチをジッパー付の保存袋につめる。二人分を用意して、ガウンのポケットに入れていたスマートフォンで写真を撮った。
『今日のランチ!講義の前に食べるよ』
写真は少しオシャレに加工して、SNSにアップする。すぐにリプライがついた。
彼氏と二人分?いや、ナマエのことだからどうせお兄さんの分でしょ……などなど。
友人たちの冷やかしはいつものことだ。お兄ちゃんの分だよ、のあとにはげんなりした顔文字のマークを添えて。
食器を洗うのはジークの役目なので、キッチンの片付けはそのままにナマエは出掛ける支度に移る。今夜はヒストリアと遊びに行く予定なので、お気に入りの服を選ぶ。カーキ色のMA-1ジャケットをひっかけ、首にはチョーカーを飾った。バックパックにはサンドイッチをつめて。
「じゃあ、私もう出るね」
「ああ。いってらっしゃい、お花ちゃん」
「それもやめてって言ってるのに」
笑いながら玄関に立つと、キッチンの方からは「気をつけて」と声が続く。ナマエは「いってきます」と大きな声で言ったあと、音をたてないように、玄関から一番近いエレンの部屋の扉を数センチだけ開いた。
(やっぱり昨日も帰ってないんだ)
スマートフォンにも連絡はない。悲しくなりそうな気持ちを振りはらうように、アパートメントの螺旋階段を駆け下りた。
エレンだって、数年前まではナマエのことを「お花ちゃん」と呼んでいるような頃があった。
もともとはエレンが“お姉ちゃん”を言い損ねて“おはなちゃん”と言ってしまったことがきっかけで、ジークも気に入ってニックネームとして定着した。
ただ、ジークがエレンを伴って孤児院にやってきた時。ナマエがお花の折り紙を作っていたり、ナマエとエレンが最初にしでかしたイタズラが、花柄のカーテンの花の部分だけを切り抜いていたり、他にも諸々、エレンとナマエにとっての“お花”は縁が深い。
「昔みたいに一緒に遊びたいんだけどなぁ」
講義が終わってから夕方のカフェテリアで。ナマエはヒストリアに向かってそうこぼした。
「またそれ?いいじゃない、エレンなんて。同い年の義理の兄弟なんて、私だったら鬱陶しいけどな」
「ヒストリアはさっぱりしてるね」
華奢で美人な彼女は、その形のいい頭をかしげて微笑んでみせる。
「ナマエの生い立ちのことを思うと、甘えたくなる気持ちもわかるけど。でもその分お兄さんと仲いいじゃない」
「まぁ……うん」
「聞いたことないわよ。この歳になってまで、朝食も夕食も時間を合わせて一緒にするなんて」
「一日あったこととか話したくならない?」
「SNS見たらわかるもの」
ヒストリアも孤児院から養女としてレイス家に入っている。彼女と義姉のフリーダは本物の姉妹のようなので、逆に距離感がさっぱりしているのだ。
「ナマエはやっぱり、何かが満たされてないのよ。だから家族って肩書にこだわるんじゃない?」
同じ孤児院出身だからこそ、包み隠さず話せる話題だ。ナマエは「そうかな」と顔を引きつらせ、無理に笑顔は作らなかった。
話題は家族のことから、フットボール部のクォーターバックがちょっと気になることや、近所のドーナッツショップの新作が美味しそうなことなど多岐にわたる。
特に門限が定められているわけでもないけれど、十分にお喋りを楽しんだあと、ナマエは早い時間にヒストリアと別れて自宅のアパートメントへと帰った。ジークが帰ってくるよりも前に、家に着いておきたかったのだ。
絨毯敷の螺旋階段を上がってゆくと、途中で違和感を覚えた。見上げると、吹き抜けの天井のシャンデリアの電球が切れている。管理人に報告した方がいいだろうかと思いながら、自宅の三階までを駆け上がる。
イェーガー家は階段を上がって突きあたりの部屋で、二つの家の前を通り過ぎて到着するが、そこにも違和感。目を凝らさないとわからない程度のそれは、ドアスコープにショッキングピンクの色をした噛んだガムが張りつけてあったのだ。
(イタズラ……?)
自宅の扉を確認してみる。ナマエの家の扉のスコープに、ガムはない。
急に不安がこみあげて、家の前で慌てて鍵を取り出そうとバックパックをおろした。音をたてたのが、間違いだったかもしれない。
「いい夜だな」
額に触れた部分が冷たい。わずかに開いた自宅のドアの隙間からナマエを出迎えたのは、銃口と見知らぬ男。
一瞬だけエレンなのではと思った。しかしエレンよりずっと小柄で声も低い。不法侵入者、泥棒、事件だ、混乱したナマエが目を見開いた瞬間、男の手はナマエの口元に伸び、ナマエは自宅へと引きずりこまれる。
「ンンッ!」
「オイオイ、騒ぐな。痛い思いをしたくなけりゃあ、大人しくしてろ。お前の出方次第でこっちは動く。いいな?」
こめかみに移動した銃口。羽交い締めにされ、押さえられる口元。状況を整理することなど到底不可能で、ナマエはただ、男の言葉ひとつひとつに頷くことしかできなかった。
ナマエの見えない位置で、後ろ手に手錠をかけられる気配がした。両手がしっかりと拘束されると、細い布地で口をふさがれ、頭の後ろで縛られる。それから男が取り出したのは麻袋だった。ちょうど顔にかける大きさくらいで、暗転する視界。閉ざされる瞬間、ナマエが最後に見たのは男の首から下がるドックタグだった。そこには"リヴァイ・アッカーマン"と書いてあったのだった。
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