▼ 2.ヒミツの金魚
四階へ上がってくる足音は分厚い。靴のソールの厚さや人間の重みがそうして聞こえるのだ。一人や二人じゃない、大柄な人らの気配にナマエも緊張を覚える。今から行われるのは、人質交換なのだと。
「そこで止まれ」
ナマエのこめかみにあった銃口が、階段の近くの床を撃った。今日は
「久しぶりですね、リヴァイ兵長」
甲高い声が通った。リヴァイがぴくりと動く。
「オイオイ……髭面の野郎はどうした」
「残念ながらジークはここへ来ていません。会いたかったですか?」
彼女ら。
イェレナを筆頭に十数人が控えている。全員が黒のロングコートを羽織って、手には
「どういうことだ。聖典は持ってきてんだろうな」
「私たちも驚いた。まさか兵長たちに聖典の存在を知られているなんて」
「調べりゃあ、誰しもがじきに気付くことだ」
「あれは簡単に人が触れていいものじゃない。リヴァイ兵長、あなたでもだ。聖典は神にのみ、触れることが許されたもの」
真っ直ぐ切りそろえられた前髪の下から、丸い瞳が満月のように開いてゆく。
ナマエは記憶の中にある、イェレナの面影を追っていた。彼女はどこかで見たことがある。それがどこなのかわからないでいた。
そして今この場に、兄がいない理由も。
「てめぇらの御託を聞く気はねぇ。さっさと聖典をよこせ」
「渡せるわけがない」
イェレナの背後で控えていた黒コートの集団が、一斉にリヴァイとナマエに向けて
銃口が自身へ向いて、リヴァイは眉間の皺を深くする。
「どういうことだ?」
「ここにジークがきていない時点でわかりませんか。彼女に、人質の価値はない」
イェレナが右手を挙げる。全員がグリップを握り、安全装置を外していた。指先ひとつで引き金は引ける。
「クソが……!」
開幕のファンファーレ。整然としたティンパニがいっせいにドラムロールを始めるがごとく、銃弾が二人に向かって放たれた。
リヴァイはそれよりも一瞬だけ早く、床板を踏み抜く。まるで落とし穴のように床板が抜け、二人は三階天井裏の排気ダクトの中へと転がり込んだ。
「逃がすな!追え!」
イェレナたちの足元へと落ちた二人の上からは、さらなる銃声。カラになった薬莢が、けたたましいピンヒールのように頭の上で踊っている。
落とし穴はリヴァイがもともと作っていたものだ。
一旦踏み抜いてダクト内へ入ると、床板は返しになっていてすぐに閉まるようになっている。上から銃弾を浴びせても意味がないと察したイェレナたちは、すぐに三階へと移動をはじめた。足音が走ってゆく様子が聞いてとれる。
「な……なにが起こってるの。お兄ちゃんは……?」
「ナマエ、あのな」
リヴァイの胸ポケットのスマートフォンが着信を告げる。階下からは追手の気配。イェレナたちは闇雲にダクトに向かって銃を向けているようだ。視線の先には銃声が響いたあと、穴だらけのダクトから、彼らの持っている懐中電灯の光が差しこんでいる。
「こんな時に電話してくる奴は一人しかいねぇな」
弾があたらないように、ナマエの手を引きながらリヴァイはスマートフォンをタップする。相手はジークだった。
「やぁ、リヴァイ」
随分間の抜けた挨拶に、リヴァイは舌打ちを零す。
「クソ髭野郎、どういうことだ。てめぇのお仲間は俺とナマエに向かってぶっぱなしてきやがる。大事な妹に風穴が空いちまうとこだったぞ」
「それなんだけどさ」
ナマエが息を呑んだ。死刑執行を言い渡される受刑者のように緊張していることに、リヴァイは気付いていた。
「ナマエはもう、仕方ないんだ」
「あぁ?」
「お前に聖典は渡せないよ、リヴァイ。そして存在を知られてしまったことも失態だ。全部まとめて、なかったことにするしかない。仕方なかったんだよ」
「てめぇ……」
「二人とも、死んでもらう」
ジークがどんな感情を乗せて、それを言っているかまでを考える暇はなかった。二人のすぐ側の足元に、
受話器越しはすぐに沈黙した。
「切れたか、クソが。オイ、ナマエ」
リヴァイはナマエの手を引こうとする。しかしナマエは両手で頭を抱え込んだまま、震えていた。
「今の……誰?」
「ジークだ。お前の兄貴だ、ナマエ」
「リヴァイ」
足元のダクトには次々に穴が開いていく。足元から光が差しこみ。
「ナマエ、今は説明してる暇はねぇが」
「……助けて」
銃声にかき消されそうな一言を、リヴァイは聞き漏らさなかった。
彼の目の前に人質はいない。丸まっていた体を引っ張り、腕の中に抱きとめる。
「ああ。もう、離さない」
ナマエは十分に撃たれていた。心はボロボロになって、打ちひしがれている。傷ついた彼女を放っておけるはずなどない。リヴァイはナマエを抱えながら、ダクトの中を進んでゆく。
ダクトは二階まで続きになっている。二階からはそのまま屋外へと出れるように細工してあった。
リヴァイが先に飛び下りて、ナマエにジャンプするよう手招いた。二階といえど、ビルの二階は結構な高さがある。まだ呆然していたナマエだったが、リヴァイが小さく名前を呼ぶとリヴァイの腕の中へと飛び込んだ。
「ここまできたら大丈夫だ。帰るぞ」
固く抱きとめた耳元で、リヴァイは囁く。
ナマエには聞きたいことがたくさんあった。結局聖典とはなんだったのか。兄の代わりにきたイェレナは何者だったのか。どうして自分は殺されかけたのか。
どこまでが本当で、どこからが嘘だったのか。それともナマエの見てきた世界はすべて、偽りだったのだろうか。
車に乗り込み、左側のリヴァイを目で追っていると、今なら彼はナマエの質問になんでも答えてくれるような気がしていた。しかし、ナマエは尋ねなかった。
真実を知るのが怖いのだ。
ナマエが自分で知り得ることができるのは「ジークに捨てられた」ということだけ。
それを認めてしまうのも、怖かった。
「昔、金魚を飼ったことがあるの」
ずっと無言だった車内。あともう少しでアパートメントに着くという頃、ナマエは思い出したままに口を開いた。
「あ?」
急に始まった昔話。
「エレン……私の、義弟なんだけど。エレンと一緒に、孤児院で開かれた感謝祭のフェスティバルで、金魚すくいをしたの。知ってる?金魚すくい」
「それくらい、知ってる」
「私、一匹も金魚がすくえなくて。エレンが最後のお小遣いで、丸々太った金魚をすくってくれたの。私はその時、まだイェーガー家に正式な養女として受け入れられてなくて。だからエレンの家に遊びに行って、そのままこっそりティーポットの中に金魚を隠したの」
車はアパートメントの裏の駐車場に着いていた。リヴァイは明かりを消していたが、降りろとは言わずにハンドルに腕をかけたままだった。
「イェーガー家にはお皿の数が少なかったから、お皿や洗面器を使うとすぐにばれちゃうと思って。誰も紅茶を飲まなかったから、ティーポットに水を入れて飼うことにしたの。エレンと私だけの秘密の金魚だったから、ヒミツって名前を付けてね。安直でしょ?」
「エレンの部屋で飼ってたのか」
「そう、ベッドの下で。だからすぐに死んじゃった」
ナマエはポロポロと泣き始めた。ティーポットの先から一滴ずつ垂らした涙みたいに、小さく、控えめに。
「私、ヒミツが死んじゃった時、初めてジークの前で大泣きしたの。わんわん泣いた。ジークは早く言えばよかったのにって。ちゃんと買ってきたとき言ってくれていたら、水槽を用意してあげたのにって、私とエレンに言ったの」
「ガキが悪いんじゃねぇ。次の日ベッドの下を掃除してねぇ髭面の失態だ」
「でも……私も、エレンも。それからもう金魚を飼わなかった。ジークに水槽をねだることはなかったの。ずっと……そう、多分。ティーポットの中で泳いでいるのは、私だった。何かずっと、ヒミツにされてたのよ。ベッドの下で飼われてた金魚と同じで。きっと明日には、ヒミツと同じでお腹を仰向けにして浮かんでるかもしれない」
リヴァイは慎重に言葉を選んだが、結局のところ「お前は金魚じゃねぇ」という、ナマエも返答に困るであろう言葉しか浮かんでこなかった。
彼女は自分の人生がベッドの下の金魚なんだと、なじって欲しいのだろうけれど。
「少なくとも……お前は熱いシャワーを浴びることができるし、俺の家ではティーポットで金魚を飼うなんぞ馬鹿げた真似はできねぇ。あがったら紅茶をいれてやる。行くぞ」
「ヒミツが死んだとき、お兄ちゃんは泣かなかった。私が死んでもきっと同じ」
「ナマエ」
音もなく涙を零し続ける彼女の腕を、リヴァイは引っ張る。今引っ張りあげないと、本当にベッドの下から出てこれなくなってしまうかもしれない。
リヴァイは言った通り、部屋に帰るとすぐにシャワーのコックを捻った。上着や帽子だけを彼女からひったくり、シャワーを浴びてこいとシャワールームにナマエを押し込める。
一人きりにさせるのは少し心配だった。しかし、一人になる時間も必要だろうとも思った。
シャワールームのドアを背中にして座り込むと、しばらくしてからコックを捻る音が響いて、シャワーが止まった。衣擦れ、波紋、涙。薄いドア越しに漏れ出てくる音を、リヴァイはぼんやりと聞いていた。
ずっと放っておくとナマエの言っていたように、ヒミツのようにお腹を仰向けにして浮かんでしまうかもしれない。
だからタイミングは見計らって。
ドアを開けよう、いや、もう少し。
夜は時間をかけて更けてゆく。誰も想像がつかなかったほど、悲しさが溢れ返る、夜。
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