ティーポットフィッシュ | ナノ


▼ 1.おはよう、ピギー

まだ日付は変わらない。街灯と車のヘッドライトだけが夜道を照らしていて、スピードは緩やかだ。昼間のカーチェイスが遠い昔のことかのように、時折通り過ぎる対向車がエンジンの余韻を残していく。

中央公園セントラル・パークを出てからの会話はない。スタッフロールが流れたあとのスクリーンみたいに、二人は沈黙を守っていた。

リヴァイのアパートメントに帰ってきてから、彼は「先にシャワーを使え」とだけ言った。

ナマエは頷き、できるだけ長い時間をかけてシャワーを浴びる。弱めの水圧で出したシャワーは、無香料のシャンプーの泡をたらたらと排水溝に流していく。

どうしてキスをしたのかわからなかった。

きっとリヴァイも同じ気持ちなのだろうと、ナマエは思う。暗がりで、恋愛映画を観てる最中で、身を隠さなくてはいけなくて。

二人がたまたま男と女で、重なるタイミングが訪れた。きっと、それだけのこと。

そう言い聞かせるのに、唇はまだ熱をもっているようだった。触れると互いの感触がすぐに思い返せた。気持ちがよかった。すぐに引き剥がせないくらい、少なくとも、映画が終わるまで離れがたいくらいには。

しかし二人が誘拐犯と人質としていられる時間は限られている。すでにカウントダウンは始まっている。

事件が終われば──解決するかは定かではないけれど、明日の聖典との交換が終わってしまえば。二人は二度と会うことはないだろう。

ナマエは人質。
リヴァイが欲しいのは聖典。

最初から決まっていたこと。

ナマエが髪を湿らせたままシャワールームから出てくると、リヴァイはすでに一人掛け用のソファに座っていた。傍らには黒のボックス型のカバンを置いて、マガジンのセットされた自動拳銃ベレッタM92をテーブルの上に置き、丸いフレームのサングラスをかけて目を閉じている。もう、眠っているのだ。

なにか声をかけるべきかどうか悩んだが、ナマエはそのままベッドに潜り込んだ。リヴァイには背を向けて。

リヴァイの視線が背中にあたっているような気がしたけれど、ナマエは気付かないふりをした。

意固地な夜はすぐに終わって、瞬く間に朝はやってくる。二人は起き出すと、それぞれあるべき姿に戻ったつもりだった。

誘拐犯は遠慮がちに人質にオートミールを差し出し、ナマエは怯えたふりをしながら、ミルクと一緒にそれを胃に流し込んだ。

「……落ち着いて食え」

リヴァイの口調は、なにか会話の糸口を引っ張り出すような調子で。

「落ち着いて……食べてるつもりだったけど。ブタみたいな食べ方だったかもしれない」

スプーンを持った手を勢いよく開き、ナマエは両のてのひらをリヴァイに開いて見せた。もう降参です、と自嘲気味に。スプーンは平らなボウル皿に落ちて高い音をたてる。

「行儀が悪いな。それにブタの悪口を言うんじゃねぇ。奴らは案外、人間より情が深いし清潔だ」

「なにそれ。ブタは汚いし臭いんだから。私、昔孤児院にいたとき世話をしてたから知ってる」

「そうか?うちのブタはそうでもねぇ」

ナマエは上目遣いでリヴァイを睨んだ。彼がなにを意図して会話を続けているか、わからなかったからだ。

「リヴァイもブタを飼ってるっていうの?」

「ああ。このキッチンでな」

「は?」

「待ってろ、今つれてくる」

「キッチンにブタがいるわけないじゃ……」

立ち上がろうとして、ナマエは再び腰をおとした。リヴァイがオーブンの裏からつれてきた"ブタ"は、キッチンミトンの形をしていたのだ。

ふわふわのキルト生地で出来た、コミックアニメのような丸い瞳のブタのミトン。リヴァイはミトンを手にはめて、低い声のまま、ブタの鳴き声の真似をする。

「ちょっとリヴァイ」

「ピギー、ナマエのやつがお前のことを臭いなんて言いやがる。訂正してやれ、ブタは洗濯すると清潔なんだってな」

ブタのピギーはナマエの方を向いて、口を開いたり閉じたりする。リヴァイが手を開いたり閉じたりしているのだけれど。

「ピギー、あのね、私今はおしゃべりする気分じゃないの」

「そうか。残念だ、清潔なブタの食べ方を教えてやろうと思ったのに。なぁ、ピギー」

ピギーは口をぱくぱくしながら、ナマエの目の前までやってくる。つん、とナマエの鼻をつまんだあと、ナマエのスプーンをくわえた。ピギーがくわえたスプーンはオートミールをのせて、ナマエの口の中へ。

リヴァイから差し出されたスプーンを口に含むと、ナマエはゆっくりと咀嚼する。

「ごめんなさい。オートミール、美味しい」

「ああ。ちゃんと噛んで食え」

リヴァイは肩をすくめて、スプーンをナマエへと返した。ナマエも肩をすくめて笑ってごまかしたあとに、スプーンを受け取った。

ボウル皿が空になるとリヴァイは紅茶を淹れた。今朝はミルクティーではなく、ストレートのアールグレイだった。カップにはレモンが浮かんでいる。窓を開けると吹き込む風とともに、空気がビタミン色に爽やかになる。

「せっかくピギーとお友達になれたのに。今日が最後だね」

テーブルの上に投げ出されたミトンをつまんで、ナマエは呟いた。

「寂しかったらつれていけ」

「ここにいるから寂しいの」

リヴァイがいるからこそ生まれる感情だということを、ナマエは説明しなかった。リヴァイは気付いているのに。

──夕方、早い時間に二人はアパートメントを出た。

時刻は十八時。約束の時間まではまだ三時間もあるが、古いエンジンをBGMに車は走り出す。

しばらく遠回りをしてから、リヴァイはディアボロ通りへと向かった。ジークに指示をしていた廃ビルからは、離れた場所に車を停める。

「ここで逃げられちまったら困るからな」

車から降りると、ナマエの片手に手錠をかけた。ナマエは特になにを言うでもなく、右手を差し出す。

廃ビルは六階建ての建物で、リヴァイは慣れた様子で裏口から中へと入った。電気は通っていないので中は薄暗い。車通りに面しているので、街灯と車のヘッドライトの明かりが不規則に明暗する。

ところどころ、天井の板が剥がれ落ちていた。使われていないソファや、錆びだらけのカウンターチェアなどが隅の方に積まれていて、時間の経過の分、埃が積もっている。

「相変わらず汚ねぇ場所だ」

階段を上りながら、リヴァイは舌打ちを零した。

「どこまで行くの?」

「お前だけ奪われて髭面どもにも逃げられたら元も子もない。四階まで上がっておく」

「ふぅん……」

四階は壁もドアも全て壊れていて、ワンフロアが見通せるようになっていた。他の階よりも雑多としたものが少ない。階段からフロアに踏み入ると、車の喧噪が少しだけ遠くなる。

壁を背にして、おもむろにサングラスを取り出したリヴァイ。コートに忍ばせた二丁の拳銃が、彼が体を動かす度にかちゃかちゃと音をたてる。隠すつもりはないのだ。すぐ側に銃があっても、ナマエに怖いという気持ちもなかった。

「髭面は時間を守る方か」

「私の兄のこと?」

「ああ……ジークは」

「どちらかといえば、時間はぴったりに行動する……かな」

口でそう答えつつもナマエの思考はすでに、家に帰ってからのことに移っている。

リヴァイと過ごした時間はすぐに忘れてしまおう。兄に謝って、明日の朝は早起きして朝食を作ろう。買い物に行っていないから、冷蔵庫には卵がないかもしれない。でもパンケーキミックスがあったから、薄焼きのパンケーキなら作れるはずだ。そうすればきっと、全ての日常が戻ってくる。それから大学の授業の予定を確認して、ヒストリアと遊びに行く。投げっぱなしのスマートフォンには誰かから連絡が入っているかもしれない。SNSにはなんて投稿しよう。仮病がいいだろうか……

そんなことを考える。気を紛らわすみたいに。

「ナマエ」

急に呼ばれて、ナマエは驚いて背筋を正した。

「ひとつ、頼みがある」

リヴァイはサングラスをずらして、上目遣いでナマエを睨む。

「頼み?」

「ああ。家に帰ったら、必ず守ってくれ」

「……どうして私が。この期に及んでリヴァイの頼みを聞かなくちゃいけないの」

「ふざけてないで、聞け」

ナマエの右手の手錠は、リヴァイが片方を握っているだけだった。握っていた手を離して、ナマエの肩を掴んだリヴァイ。急に真っ直ぐ、熱をもった瞳がナマエを覗き込んだ。

「家に帰ったらすぐに友達の家にでも遊びに行け。できるなら、しばらくパジャマパーティーでもしてりゃあいい。女友達の一人や二人くらい、いるだろうが」

「は?」

リヴァイの口から放たれる"パジャマパーティー"という単語がミスマッチで、ナマエは意味を呑みこむのに数秒を要する。

けれどこれはリヴァイの言い方だ。

「……家にいない方がいいって意味?」

「お前もわかってきたじゃねぇか」

どうして、とナマエが言いかけた時だった。階下から物音が響く。リヴァイが入口にはわざと障害物を多く置いておいたのだ。空き缶やガラスの瓶を蹴散らす音は、静かな廃ビルの中では四階まで響いてくる。

「来た」

そう呟くと、リヴァイは壁を背にしたままナマエを羽交い締めにし、階段の方へと向き直った。ポケットの銃を取り出して、ナマエのこめかみへと押しつける。

足音は一つではなかった。

警察も来るのだろうか。ナマエはそう思いながら、背中のリヴァイの空気が氷よりも冷たく、ナイフよりも鋭くなっていくさまを、肌で感じていた。


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