▼ 8.沈黙の帰還
ーーー覚えてる?私が言った、あのチケット。結局使ってなかったね。……今助けてって言ったら、あんたどんな顔するかな。ナマエ。
頬の肉を削ぎ、すかさずエレンを抱えるとリヴァイは「ずらかるぞ」とミカサに声を掛けた。エレンの姿を見て、ミカサは僅かに安心した表情を浮かべる。
もたもたしている時間は少しも無い。リヴァイは素早くアンカーを放つと、だらりと力の抜けた女型の巨人のもとを飛び立った。少しだけ振り返る。女型が、涙を流しているように見えた。
***
「エルヴィン!」
木の下に集まっていたエルヴィン達に、リヴァイは飛びながら声を掛けた。集まっている面々には、森の入口の樹上で待機していた索敵班の兵士達もいる。遺体を、集めている最中だった。
「リヴァイ、エレンは?」
「ここだ。多分、生きてるだろう。おい」
リヴァイは背後から着いてきていたミカサに振り返り、視線で「降りるぞ」とエルヴィン達の近くの木にアンカーを放った。地に足をつけたところで、抱えたままになっていたエレンをミカサに差し出した。
「エレンは荷馬車に運べ。お前が付いてろ」
「……わかりました。あ、の」
「ああ?」
ミカサが何かを言いかけた時、隣からエルヴィンが2人の間に割って入った。
「撤退だ。出来る限りの死亡者を集めたら、すぐに出発しよう」
「ああ。今の所、他の巨人は例の女型の方に集まってやがる。しかし急がねぇとな……俺の班員もエレン以外全員やられた。空いてる奴をまわしてくれ」
淡々というリヴァイに、エルヴィンは少しだけ目を見開いた。
「入口の方にいる兵も全て集めてこよう」
「……ナマエは、回収したのか」
「まだだ」
「そうか」
隣でそれを聞いていたミカサの唇が、小さく震えた。リヴァイは何も言わずにアンカーを放つ。先の戦闘で左足を負傷しているが、少し飛ぶくらいなら問題ない。思考も、冷静だ。
今まで幾度となく繰り返した。
失って、失って、失っていく。あまりにも、呆気なく。だから戦う。だからここにいる。これ以上奪われないために。
(……クソ)
脳裏にペトラ、オルオ、グンタ、エルドの顔が浮かぶ。今朝方まで、当たり前のように会話を交わした仲間達。そして、ナマエ。
(あれが、お前を見た最期だったのかーー?)
走り抜けるリヴァイ。それを見送る、ナマエ。あんな別れ方があるだろうか。あんな最期が。
ペトラ達のもとに向かう前に、リヴァイはナマエが女型と戦った入口の方を迂回することにした。見つけたい、見つけたくない。せめぎ合う、矛盾する感情。
眼下には他の兵士達がひしめきあっている。遺体を回収したり、怪我の手当てをしたりしていた。リヴァイの知る104期生の姿もあった。しかしそこに、ナマエの姿は無い。
森はずっと同じような風景だ。
ナマエが女型に掴まれた時の太陽の位置を思い出し、感覚でどれくらい時間が経ったか計算する。てっぺんより少しだけ、傾いた太陽。博打のようなそれに賭けて、リヴァイは祈るような気持ちで舗装された道から森の方へとアンカーを放った。
(いてくれ。頼む、せめて)
するとリヴァイが思っていたより少し後方から、人の気配がした。大柄な男の影が地面の草木の間から確認できる。リヴァイは「おい」と叫んだ。
「リヴァイ兵士長!」
金髪の男がリヴァイに振り返る。その時、男の影から長い黒髪が覗いた。
「ナマエか?!」
言いながらリヴァイはその2人の男の間に降り立った。地面に横たわるナマエは、血で固まってしまったみたいに動かない。けれどその姿はリヴァイが予想していたよりもずっと、リヴァイが知るままのナマエの姿だった。
「息はあるのか」
「……今、蘇生術を」
それを聞いた瞬間、リヴァイは「どけ」と言いながらナマエのもとへと屈みこんだ。きっちり締められたワイシャツのボタンを外しながら、躊躇いなく唇を重ねて息を送り込む。リヴァイの送った息で、ナマエの肺が膨らんだ。ただ無心で、心臓にあたる部位を強く押し込める。
リヴァイの耳には、自分の吐く息の音だけがいやに煩く響いていた。雲が流れ、影が出来る度にナマエの顔が余計に黒く見える。しばらくそれを繰り返していると、大きく咳き込みながらナマエが血を吐いた。
「ナマエ!」
リヴァイが叫ぶ。
「……リ……ヴァ」
「今は生きてりゃ十分だ」
そっと頬に手を当てる。冷たいが、確かにそこには血が通っていた。生きている。生きていて、くれた。それだけで胸がいっぱいだった。
「リ……リヴァイ兵長、俺たちが運びます」
金髪の男の方が妙にどもりながら申し出るが、リヴァイはナマエを抱き上げた。
「お前たちは他の兵の手伝いにまわれ」
「しかし」
「ナマエは俺が連れて行く。とっとと行け」
撤退の準備は急ぐに越した事は無い。いつもの調子で睨みつけると、2人は青ざめた顔で「はっ」と敬礼をとった。
(……なんだ?)
妙に引っ掛かる、その男2人の顔。しかしリヴァイがそれを追及する間も無く、腕の中のナマエが再び咳き込んだ。
「ミカサの所に連れて行く」
「ミ……カサ……エレン……ぶじ?」
「ああ。お前よりよっぽどな」
ナマエは震える手でリヴァイの頬に手を伸ばした。リヴァイを確かめる様に、冷たい手で頬をなぞる。安心したように薄い微笑みを浮かべるナマエを、リヴァイは少しだけ抱きしめた。
***
エルヴィン達の元に戻るまでに、ナマエは再び意識を失った。
「ミカサ」
リヴァイがそう名を呼ぶと、呼ばれた当人は驚いたように目を見開いた。
「こいつも頼むぞ」
「ナマエ!」
ぐったりとしたナマエを見て、ミカサは慌てて荷台から飛び降りる。
「目立った外傷は頭んとこだけだ。手当て出来るな」
「はい」
リヴァイからナマエを受け取る刹那、ミカサは「これ」と呟いた。ぴたりと一瞬動きを止めたミカサに、リヴァイも「どうした」とミカサの視線を注視する。ミカサの指は、ナマエの乱れた髪をかき分けて首元に伸びた。注意深くその赤い痕に、指を伸ばす。
「……これは」
指の痕にも見えた。力強く抑えたような、うっ血した痕。もともと色の白いナマエの肌には、痛々しく見えた。少しだけ何かを考え込んだ素振りをして、リヴァイは声のボリュームを落とした。
「どうせしばらく目は覚まさねぇだろうが……ナマエはこのまま死んだことにしておけ」
「……は?」
突拍子もない言葉に、ミカサはいぶかしげにリヴァイを見上げる。
「命令だ。誰かに聞かれたら、ナマエは死んだと言え」
「え……あの」
「この事は他言無用だ。いいな?」
「わか、りました」
念押しするように、リヴァイはミカサを睨んだ。
ミカサはナマエをエレンの隣に寝かせると、着ていたジャケットを脱いでナマエの胸のあたりに被せる。エルヴィンの撤退命令の声が響いた。巨人の気配はまだ、無い。
prev / next