▼ 7.自由の翼
ナマエが次に目を覚ましたのは、昼間を通り越して夕方に近い時刻。
「……夕焼け?」
窓から差し込むのは煌々とした西日。体を起こしてレースのカーテン越しに窓の外を覗いていると、ノック無くして扉が開いた。
「死んだように寝てたな」
黒い長袖のシャツにラフなズボンを穿いたリヴァイ。彼も今日は休暇扱いだった。
「すみません、早く準備してエルヴィン団長の所に」
「そう慌てるな」
急いで立ち上がろうとしたナマエの頭を、リヴァイは押さえるようにしてベッドに留めた。ナマエは困った様に大きな瞳を見開いてリヴァイを見上げる。
「あのな」
ナマエに寄り添うようにして、リヴァイはベッドに腰かけた。どこか視線が優しく、ナマエの様子を伺っているようでもあった。
「エルヴィンからも改めて説明があるだろうが……お前の、所属についてだ」
どきりと、ナマエの心臓が跳ねる。
「私は……どうなりますか?」
「わけのわからん侮辱罪とやらは、当たり前だが不問だ。むしろ奴らが豚箱に入った。しかしハーゼ家に連れていかれた時、お前は訓練兵団を除名された。それを覆すには、時間がかかるらしい」
「除名……」
「選択肢としては3つだ。手続きをして訓練兵をやり直すか、兵団を辞めて外で暮らすか、このまま調査兵団に入るかだ」
調査兵団にーーーナマエはその単語を噛みしめ、嚥下した。選択肢など無いような物だ。目的はそもそも調査兵団に入ること。しかし
「……そうそう泣かれても面倒だが。今くらい泣いても許してやる」
ぎゅっと瞳を閉じて、ナマエはふるふると首を横に振った。一瞬でも気を抜けば、想いは涙になって溢れてきそうだった。目的は果たされる、けれどあの3年間が無かったことにされるのは切なすぎた。いつだって「一緒に卒業しよう」と口にしてきた。それを目標にして、走ってきた。
「泣きません。ここからがスタートなんです、泣いてる暇なんてないんです」
「そうか」
落ちていく太陽の影のように、リヴァイの腕が伸びる。ナマエは彼の腕の中におさまり、その黒いシャツを握りしめた。
「泣いてませんから!」
「聞いてねえよ」
言いながら、リヴァイはその口調に反比例するような手つきでナマエの頭を撫でた。
「……昨日から、リヴァイ兵長に抱きしめられてばかりですね」
「部下になったらこんなに甘くねぇからな。覚悟しておけ」
「はい。訓練兵のうちだけ、ですよね」
「そうだ」
腕の中で小さく鼻をすする音。静かな、夕方だった。
***
少し目を腫らしたナマエは、リヴァイに付き添われエルヴィンの執務室へと訪れていた。入団希望の旨を伝えるためだ。行き場の無い感情はリヴァイの胸の中に置いてきた。まずはここ数日の騒ぎを深く謝罪し、それからしっかりと敬礼を構え、ナマエはエルヴィンの青い目を見る。
その覚悟を受け取ったかのようにエルヴィンもまた、ナマエを真っ直ぐと見据えた。
「これからどうするかは、君に対しては愚問だったかな」
「はい。私を、調査兵団に置いて下さい」
改めて口にした時、ナマエはほんの少し唇が震えた。1人ぼっちの入団式だ。エルヴィンとリヴァイだけに見守られて。エルヴィンは「無論、歓迎する」と言って、初めて出会った時の様にその大きな右手をナマエに差し出した。それに答えるのは、まさに心臓を捧げるような儀式のようにも思えた。
エルヴィンとナマエが顔を見合わせて微笑んでいると、それまで押し黙っていたリヴァイが堰を切ったかのように口を開いた。
「ナマエはどこに置く」
「まだ考えてはいないが。どの道すぐに新兵が入団してくる。所属はその時でいいだろう」
「その前に壁外調査があるじゃねえか」
「来週のか?さすがにそれには参加させない。出だしくらいは、104期生と同じくしていいだろう」
そうか、と言ってリヴァイは壁にもたれて腕を組んだ。
当のナマエは、急に自分が調査兵団の一員になったことに胸が高鳴っていた。エルヴィンの執務室に来るまでは得も知れぬ緊張感にさいなまれていたのだが、それは自分が調査兵の一員になることに対してだったのだと悟った。
「そうだ、ハンジの所に寄って行きなさい。細かいことはハンジに任せてあるから、指示を仰ぐように」
「はっ」
緩んでいた表情を引き締め、ナマエは改めて背筋を伸ばして敬礼をとった。エルヴィンは顎の下で手を組み、満足そうに頷く。それを見てリヴァイは「行くか」と言って扉に手を掛けた。
***
何故かリヴァイを伴ったまま、ハンジの部屋へと訪れる。
「リヴァイ兵長、それノックの意味ありますか?」
ノックをしながら扉を開ける彼にナマエが言うと「奴にも言ってやれ」とリヴァイ。
「お2人さん、待ってたよ」
執務机に向かっていたハンジ。
「私の所に来たって事は、ちゃんと入団したんだね」
「はい。今日から改めてお世話になります」
ナマエが頭を下げると、ハンジは嬉しそうに彼女の頭を撫でまわした。
「オイ、御託はいいからさっさと説明しろ」
「なんでリヴァイが保護者みたくして隣にいるのさ……まぁいいけど」
ハーゼ家に投げつけた札束を見ている手前、それ以上は言いだし辛い。ハンジはやれやれ、と口にしながらナマエのカバンを取りだした。
「それ!」
「訓練兵団から預かってきたよ。ナマエの荷物なんだろ?」
ハンジから奪うようにしてカバンを受け取り、ナマエは慌てて中身を確認する。そして1粒のキャンディが残った瓶が入っているのを見て、じわりと目に涙を浮かべた。
「ちょ、なんで泣きそうなのさナマエ」
「多分……親友がこれを詰めてくれて」
それを入れてくれたのはミカサに違いなかった。他にもナマエの大切な数少ない私物が、きちんとその中に収まっている。
「よかったね」
「早く、同期達に会いたいです」
「卒業試験が終わって落ち着けば、すぐに連絡はとれるさ。さて、今夜からのことなんだけど」
ハンジは腕を組むと、ちらりとリヴァイに視線を送った。伝わるかは定かではないが、その目線が言わんとする所は「黙っててくれ」だ。
「はい。どうすればいいでしょうか」
「少し早いけれど、部屋は女性兵士の部屋に移ってもらうよ。まぁ、ペトラやニファが待ち構えてたから、楽しくやれるさ」
わかりましたと素直なナマエの返事に反して、リヴァイからは無言の圧力。「そうは言っても規律だし」とハンジはまたも視線で訴える。
「明日からは私が空いた時間に講義をつける。随時参加できそうな訓練にも参加してもらうけれど、本格的な訓練と所属は104期生が入ってきてからということだ。いいね?」
ナマエは「了解しました」と言って敬礼をとる。
「訓練兵団を卒業できなかったのは心残りかもしれないけれど……貴女の上司様も同じく、地下街から訓練兵という過程をすっ飛ばして兵士長に就いているしね。色々気に病まないように頑張るんだよ」
リヴァイがふんと鼻を鳴らすと、ナマエは少し頬を染めて笑顔で頷いた。
(そっか……リヴァイ兵長と同じだ)
そう思えば、沈みがちだった気分も明るくなる。
「ナマエ、お前はさっさと荷物を纏めて移動しろ。俺はハンジに話があるから残る」
「わかりました。ハンジさん、ありがとうございました」
「いいよ。じゃあまたね」
ひらひらと手を振るハンジ。ナマエは扉に手を掛けようと2人に背を向けたところで、はたと気が付き振り返った。
「そうだ、リヴァイ兵長」
「なんだ」
「兵長のお部屋に置いたままの寝間着、持って行っても構わないですか?」
室内に静寂が訪れる。ハンジの眼鏡のガラスがきらりと光った、ように見えた。
「……構わん。さっさと行け」
「はい!失礼しました」
来るときとは一転、どこか嬉しそうにナマエが駆け出していくのを見送ってハンジは静かに口を開く。
「ねぇ、貴方達結局そういう関係になったの?」
「そういう関係とは」
「リヴァイがそういうすっとぼけ方するのは気味悪いよ。致したの?してないの?どうなのさ!」
「してねぇよ。てめぇがいる前であんなことが口に出来るくらいのクソガキに、手なんぞ出すか」
リヴァイは大きくため息を吐く。その様子を見てハンジは「ほーん」と鼻の下を伸ばした。
「まぁ……好きだとかは言われたが」
ため息続きのぽつりとした一言に、ハンジは座っていた椅子から落ちそうになった。
「ちょっと待って、どういうこと」
「ただそれだけだ。別に男女の関係にはなっちゃいねえ、ただな」
少し抜けていたリヴァイの表情が、急に兵士長としてのそれに変わる。
「エルヴィンと詳しく話したわけじゃねぇが、ナマエはおそらくハンジの班に配属されるだろう」
「私の?リヴァイんトコじゃないの」
「実力はさておき、だ。私情でグダグダの奴なんか俺の班に入れられるか」
そんなもんかねぇ、とハンジは首を傾げる。
「あいつは頭の回転はそこそこ速いが、一度何かを標的にするとそれ以外に目がいかねぇ節がある。その点はてめぇと似てやがる。ハンジ班はそういう人間の扱いに長けてるだろうが」
「モブリットのことかい?」
否定する気も無いハンジ。リヴァイは「そういう事だ」と言って、ハンジに背を向ける。
「まだわからないけれど、そうなったら責任持って預かるよ」
部屋を出ていこうとするリヴァイにそう声を掛けると「ああ」とだけ小さな返事。
(ナマエのことをよろしく頼むって言うなら、最初から素直にそう言えばいいのに)
「もう一つ」
「まだ何かあんのかよ」
もう部屋を出ていこうとしている体勢なのに口を開くリヴァイに、過保護かよというツッコミをハンジは飲み込んだ。
「例の……金の事はナマエに黙っておけ」
「ハーゼ家に投げつけたヤツ?言わないよ、そんなこと」
「なら、いい」
そして今度こそリヴァイは部屋を出る。明日から忙しくなりそうだと、ハンジは大きな伸びをした。
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