▼ 9.気分だけ補佐官ー5日目
触れただけの唇。
まるでお伽話の眠り姫に口付けたような感覚だった。大人になるにはまだ少し早く、かといってもう子供でもない。開かれる日を今か今かと待っている、熟れたつぼみ。
明け方、目を覚ましてリヴァイは長いため息を吐いた。
(何やってんだ……俺は)
図らずも2人きりになった帰り道。
これが大人同士なら、もっと色めいた展開になっていたのかもしれない。けれど彼女はひとまわりも年下で、ましてや今は訓練兵。男女の関係として見るにはさすがのリヴァイも抵抗がある。
しかしあんな安い挑発で、軽くとはいえ口付けてしまったことーーー
それはもう、そういうことなのかもしれない。
(まぁ……すぐに結論を出す問題でもねぇ)
伸びをひとつしたところで、執務室から人の気配がした。こんな時間に彼の執務室に無断で入室出来る人間は、数少ない。
「……こんな朝っぱらから何してやがる」
「あの、昨夜はすみませんでした」
手には箒を持ったまま、目を瞑ったナマエが申し訳なさそうに体を縮こまらせた。
「てめぇ、昨日のこと覚えてんのか」
「兵長におんぶして頂いて……なんだか失礼なことを言ってしまったような」
皆までは覚えてない様子だ。
「時にナマエよ」
「はい」
「昨日は風呂にも入ってねぇし、着替えもしてねぇな……?」
起きて慌てて髪だけ繕った様子。
ずばりとそれを見抜かれて、ナマエは顔を赤くして「はい」と呟いた。
「今の時間、浴場の方は開いてねぇ。着替えは貸してやるから、俺の部屋のを使え」
一般兵士は共用の大浴場があるのだが時間制だ。リヴァイクラスの兵士になると、個室に小さな浴室も付いている。
「でも、そんなご迷惑……」
「汚ねぇ恰好でその辺ウロチョロされる方が迷惑だ。行け」
こうなればもう、ナマエに拒否権は無い。
大人しく頷くと、リヴァイの差し出してきた着替えを手に、ナマエは初めて彼の私室へと足を踏み入れた。
***
(……まさか最終日にこんな展開になるなんて)
起きた瞬間、ナマエは血の気が引いた。
リヴァイにおぶってもらって、なんだか思ったままの事を口にしていたのは覚えている。何を言ったかまでは覚えてないが、失礼な事だったような気がする。
そもそも、訓練兵のくせに酔いつぶれて上官におぶってもらうなど。
(ああ、もうやらかした!)
リヴァイの前ではいつもの自分でいられない。彼のことが大好きなのだから。自分のペースではいられないのだ。
いつもより素早く体を洗い、ナマエはリヴァイに借りた着替えに袖を通した。団服のワイシャツのようで、小柄な彼のものであるが、それでもやっぱりかなり大きい。ズボンは穿いても下がってきたので、上だけを借りることにした。膝丈ほどはあるので問題はないだろう。
「……おい、下穿き忘れてるぞ」
「穿いても下がってきてしまって……乾くまでこれでいいですか?」
「髪もちゃんと拭いてねぇだろ。長いくせしやがって」
小さく舌打ちしがら、リヴァイはナマエの肩にかけてあったタオルを手に取り、少し荒っぽくナマエの髪を拭き始めた。
「くすぐったいです、兵長」
「阿呆。帰す日に風邪でも引かせちまったらどうする」
まるで光景だけは恋人同士の朝のそれと同じだ。しかしお約束かな。
「リヴァイー、ごめん風呂貸してくれない?なんか私のとこ水しか出なくて……」
頭はぼさぼさ、昨日の服のまま眼鏡もかけず、ドアを開けて来たのはもちろんハンジ。ぼやけたハンジの視界には、彼シャツ1枚で、リヴァイに頭を拭いてもらうナマエの姿。
「えーっと……事後?」
「馬鹿か。てめぇと同じで風呂貸してただけだ」
今度は盛大に舌打ちをして、リヴァイはナマエから離れる。
湯上りのナマエとハンジ、それから少し機嫌の悪いリヴァイとの3人で、ナマエの最終日は幕を開けた。
***
その頃、104期訓練兵ーーー
「さすがに疲れたね」
野営訓練から帰還し、各々熱いシャワーを浴びて食堂で寛いでいる所だった。体力にあまり自信のなかったアルミンは、無事行程を終えてほっとした様子を見せている。
「そういや、ナマエのやつはいつ頃帰って来るんだ?」
彼女と同じ班だったライナー。
何かと妹のようにナマエを可愛がるライナーは、未だに手料理が食べれなかったことを根に持っている。
「夕方の予定だと聞いているよ」
「あいつ、きっと調査兵団でしごかれてクタクタだぜ。みんなでいたわってやんねーとな」
ニヤリ、と何かを画策したような顔でライナーは口角を上げる。
「何を考えているか知らないけれど……あまりちょっかいは出さない方がいい」
ゆらり、とライナーの背後から彼を睨むミカサ。「他意はねぇよ」と焦りながら彼は答える。
「ナマエはどんなことしてたんだろうね。訓練とかとはまた違うようなことを言っていたけれど」
場を取りなすようにアルミンがそう言うと「帰って来たらちゃんと聞かないと」とミカサが答えた。
「んっとに、ミカサは俺とナマエのかーちゃんか何かかよ……」
「おい、ちゃんと本人に聞こえる様に言えよエレン」
ジャンに肘でつつかれて、エレンは「言えるかよ」と小さく答えたのだった。
***
「私が預かっていた書類はこれで全部です」
初日にリヴァイから渡された書類を、ナマエは午後一番に全て提出した。
「案外テキパキしたもんだな。助かった」
ナマエの仕事は丁寧だった。
主にやっていたことといえば、リヴァイが目を通した書類を提出・回覧する人物ごとに分けること、それからエルヴィンから帰ってきた報告書を資料としてまとめて、資料室へ整頓していくことだった。
単純な作業しか与えてはいなかったが、それでも一つもミス無く……しかも報告書のまとめ方などは賛美に値する出来栄えだ。
「また頼みてぇくらいだな」
「……本当ですか?!」
「ああ。エルヴィンがいいと言えばだが。冬になると壁外調査も少なくなって、こういう仕事が増えやがる。その時にお前がいてくれたら助かる。もう掃除も完璧なはずだしな」
半分言い訳、半分本当のそれ。
仕事の効率化はもちろん、単純に側にいたいのはリヴァイも同じで。
「あの」
「なんだ?」
「また、お手紙書いてもいいですか……?」
それでも。
また訪れるその日までは遠い。そしてリヴァイが壁外に出る以上「また」の約束は限りなく不確か。それまでに何か繋がりが欲しいとナマエは思った。
思いもよらぬ申し出に、リヴァイも頬を緩ませた。
「ああ。近況を報せろ、出来るだけ詳しくだ。時間があれば俺も返事を寄越す」
命令口調だけれど、ナマエのことを思っての発言にナマエはもう慣れていた。
「はい。ありがとうございます」
とびきりの笑顔。
リヴァイもそれを見て、柔らかく笑う。それから自然と、他愛ない会話が続いた。
この5日間で、2人の距離は間違いなく近付いたのだった。
***
夕方
訓練兵宿舎に帰還したナマエは足取りも軽く、鼻歌を口ずさみながら夕食中の食堂へと足を踏み入れた。
「お、帰ってきたか!」
入口の一番近くでベルトルトと一緒に座っていたライナーが、他のメンバーにも聞こえる様に大きな声で声を掛ける。
「ただいま、みんな」
ナマエもいつもより大きな声を張ると、方々から「おかえり」の声。
「で、どうだったんだよ。調査兵団」
ずばりとエレンが聞いてくると、ナマエは「え?」と言いながら微笑んだ。それはもう、とろけきったような甘い表情で。
「うん。えへ、えへへ……楽しかったぁ……」
「は?」
以前の彼女ならーーー
『すごく勉強になったよ。やっぱり調査兵団はすごいね。私ももっと訓練して、早く一人前になりたい!』
みたいな返答があると思っていたエレン他数名。
それがなんだ、今の表情は。まるっきし恋する乙女の表情だ。
「ほら、やっぱり例の兵士長さんだろ」
冷やかすように笑い声をあげて、ユミルは持っていたスプーンをナマエの方へ向けた。
「そうだなユミル。こりゃしっかり尋問しねぇとな」
「どういう意味……?ライナー」
「いや、だからミカサ。これは一応ナマエの兄貴分としての務めっつーかな」
「それよりナマエ!こっちきてもっと詳しく聞かせてください。その人とどうだったんですか?!」
ライナーの方にはミカサとエレンが詰め寄り、反対側のテーブルではサシャやクリスタが手招きして話しを聞きたがっている。
相変わらずの騒がしさの中に、ナマエはリヴァイと離れた寂しさもあったが(帰ってきたなぁ)と更に幸せな気持ちで、とりあえず一番手前の空いたテーブルに腰かけたのだった。
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