STORY | ナノ

▽ Bloomy Ivy


 その時感じたのは深淵に突き落とされるような絶望と、おぞましいほどに穢れた憎悪だった。
 頭が痛い。喉が熱い。息が苦しい。視界が揺らぐ。手先の感覚がない。生きている心地がしない。身体が、細胞が、全く別のものに作り替えられていくように血が駆け巡っていく。心臓の、もっと奥のなにかが抉られていく。
 何故、どうしてこんな状態でいる? 先程までは普通でいたはずだった。この手だって使い慣れたペンを握っていたはずだった。この目に映るのもありふれた現実ばかりだったはずだった。勉学に励み、友と切磋琢磨し、恋人と触れ合う。口には出さないものの、ありふれていて、しかしかけがえのない日常だった。それだけが彼の世界であり、全てだった。そのはずだった。
 なのに何故、何故! どうして!
 羽虫のように隅に群がる肉片を凪ぎ払っていく。痛みもない。全身が溶けていくような感覚だけが彼に恐怖を抱かせる。熱い。自身が崩壊していく。なにもかもがなくなっていく。目の前の、このおぞましいものはなんだ。モザイクのように映るそれが彼の思考を更に鈍らせていく。これは、敵。
 誰も彼もが殺意を交差させる中、彼は先ほどの、あの男の後ろ姿を思い出していた。
 何度も叫んだ。何度も男の名前を呼んだ。手さえ伸ばした。しかし男は一度振り返ったきり姿を消した。伸ばした手はぎらりと輝く銃弾に撃ち抜かれた。届かなかったのだ。男は彼を見捨てた。その事実だけがどす黒く渦巻いた胸の中に残る。
 この日、一人の人間が死んだ。


『…先程ニュースが入りました。○○地区の住宅街で40代男性が倒れているのが発見されました。駆け付けた警察によりますと男性は首を絞められた跡があり、殺人事件の可能性が高いと見られます。しかし被害者の状態から不明瞭な点が多く、警察は身元の確認を急ぐとともに──』
 ジャズを背景にワイングラスを回すように語る。そんな女の小洒落たトークから一転、平坦で、しかしいかにも緊急だと言いたげな口調で男の声が滑り込んできた。イヤホンを片耳に、こつこつと静かな夜道に足音を響かせてソルは帰路を歩いていく。
 男が続けて読んでいくニュースは聞き覚えがあった。
 恐らく被害者の男は加害者とはなんの接点もない。会話を交わしたこともなければ顔見知りでもない間柄だ。だというのに加害者は男の名前を知っていた。人も人目もない場所で、突然暗闇から現れた男に名前を呼ばれて、それはもう驚いたことだろう。返事をした矢先首を絞められるなんて予想だにしなかっただろう。しかし殺害者は後悔の隙も与えなかった。少し力を入れただけであっという間に息耐えた。人間はかくも弱い。加害者は頭の隅でそう思ったはずだ。
 こういった事件は少なくない。殺人事件は数多くあれどその多くが刺殺や銃殺だが、扼殺や撲殺といった殺人も年々増えてきた。単に刃物を使って急所を狙うのが面倒だから手っ取り早く仕留められるかつ騒ぎを起こすリスクの少ない方法を取っているだけなのだが、意外にも同一人物による犯行だと気付かれていないようだった。いや、気付かれているかもしれないが、そういった情報が入ってこないあたり、依頼主の火消し能力は高いらしい。お陰で「人間離れした筋力を持つ人間」なんて分かりやすい情報も表に漏れやしない。これではあいつの下まで届かない。だが下手に目立てば今の生活に、綻びが出る。そうでなくとももう籠城生活は御免だ。どうしようもないジレンマに苛立ちが募る。
 今日も収穫はなかった。
 情報と資金の収集の為に始めた人を殺すだけの仕事。しかし金は依頼を受けさえすれば得られるものの情報は全くといっていいほど入ってこなかった。あまりの収穫かりのなさに依頼を受けるたびに焦りを感じていく。少しでも手掛かりさえあれば、もしそれが無意味な情報だとしても今日の自分に無駄はなかったのだと錯覚してしまえるのに。自分は奴の下へと進み続けているのだと、そう勘違いして、腹いせと肯定が許されるのに。
 最後にあいつの情報を得たのはどれくらい前だっただろう。
 数年前、いや、数十年前だった気がする。もう日付を数えるのも無駄になってやめた。だというのに半年前から今に至るまでのことは鮮明に覚えているのだから不思議だ。それだけ自身は無意味な時間を過ごしていたのだろうか。自身の為に人を殺めておきながら、それらも全て無駄だったというのだろうか。それほどに自身は、自己を保っていたのか。
 歩みを進めているとようやく自身が身を置くマンションが見えてきた。マンションは照明器具を除けばどの部屋も明かりが点いておらず、そういえばもう夜更け前だということに今更気が付いた。帰路にしては人が少ないとは思っていたがこういうことか。最も表道を避けるソルには関係のない話だが。夜道の頼りである街灯でさえ避けてしまうのはもはや仕方のないことだった。
 ちかちかと点滅を繰り返す照明を横目にマンションに辿り着いた。電灯の下を潜るのがあまりにも居心地が悪く、後ろめたさを感じてしまう。廊下を進むと長い階段を上っていく。自身の住む階層まで上るのはあまりにも長いが、エレベーターを使用して他の住民に出くわす可能性をできるだけなくしたい。幸い、この体は階段を上る程度では疲労も溜まらない為苦じゃなかった。部屋に籠って勉強か読書ばかりしていた頃の自分ならば考えられなかっただろな、とソルは自嘲する。それももう、百年以上も前の話なのだが。
 百年以上も前。
 途中、踊り場の窓に目をやると反射して映った自身と目が合った。光の差さない目。極端に伸びた髪。あの頃と変わっているはずなのに変わっていない。ソルは小さく舌打ちをすると再び上りはじめた。
 変わっていようがいまいが関係ない。自分はただ奴を殺す。それだけだ。それだけの為に生きている。自分がどうなろうがもう関係ない。気にする価値もない。目的の為ならば誰であろうと殺す。人らしい感情は捨てろ。そう、全てはかつての親友に復讐を果たす為に。



 飛鳥。
 ソルがまだ「人」であった頃、苦楽を共にした親友。
 飛鳥に裏切られ、人として一度死を迎えたソルに残ったものは沸き上がる憎悪と尽きることのない疑問だった。
 飛鳥に裏切られたあの日。ソルはあの日のことを鮮明に、それでいて曖昧な形で記憶に刻み込まれている。
 目が覚めた時、最初に思ったのは、気持ち悪い、という感情だった。
 目に映るものが全て動画がスローモーションで再生されているようにゆっくり、かくかくと動いた。動いたもの一つ一つが線を描き、大きな残像になっていく。正常に動いているつもりなのに、自身の手を振ってみるともう形が分からない。この頭を揺さぶるような感覚も、腹の内がぐるぐるとかき混ぜられているのような吐き気も、全てが気持ち悪い。夢でも見ているのか。いっそそうならばよかったのに、この気持ち悪さが現実なのだと思い知らせてくる。二日酔いでもこんな風にはならない。まず昨日を酒を飲んだ覚えもない。そもそも昨日自分は、なにをしていた? 昨日、は。
 記憶を辿ればすぐに思い出せた。全てではないが、自分が今こんな状態である理由だと決定付けることができる記憶の断片。
 ここは大学の一室。そのはずなのにこの部屋はどこの部屋よりも異質で、部屋というよりは手術室だ。そこでソルはベッドと呼ぶには固すぎる台の上に横たわっていて、天井の丸く並べられた白熱電球を背景に飛鳥がじっと自身を見下ろしている。それからのことは記憶にない。飛鳥は一体なにをしようとしていたのか。今はどこに。だ。
 それからのことはいつも写真を貼り付けるように一枚、一枚ソルの頭に浮かび上がっては通り過ぎていく。部屋を出た時の異様に白く、まるでペンキに塗り潰された壁のようになにも見えない窓の外。それと対照的に真っ黒でどろどろと得体の知れないのようなものがあちこちから流れ落ちている世界。飲み込まれてしまいそうなこの場所から逃げようとしても障害物がソルの行く手を阻んでいく。死に物狂いで払ったその先で、前髪のせいでよく見えないものの怯えているのだろうとすぐに分かる表情で、飛鳥はソルの前から逃げていったこと。
 その瞬間、ソルの脳裏にフラッシュバックしたのはあの手術室で、ソルの「中身」をいじっていく飛鳥の姿。なにをしようとしていたのかじゃない。飛鳥だ。自分をこんな風にしたのは、飛鳥だ。
 閉じ込められてしまった施設の中で、たった数時間のはずなのに既に数日がたったような、そんな気が狂いそうな時間を過ごした。形容しがたい肉片のなにかに襲われて、死に物狂いでそれらを払った。時には隅に固まっている無力な虫でさえ自ら手を出した。どれだけ教われようが反撃を受けようがソルは平気だった。そういう体にされてしまったことはもうじゅうぶん過ぎるほどに理解していた。
 敵もいなくなり、静けさが空間を支配し始めた頃。ようやくソルは出口の扉に触れた。固く閉じられていると思われた扉は呆気なく開き、ソルは白く塗り潰された世界に足を踏み出した、はずだった。
 中から見た外はなにも見えないほどに白かったはずなのに、出てみれば見慣れた景色が広がっていた。日差しもないはずなのにひどく眩しい。それに先ほどまでなにも感じなかったというのに唐突に鼻に入るこのにおい。これは明らかに、血だ。
 ソルは静かに振り返った。血。血溜まり。千切れた四肢。飛び散った顔。抉られた内臓。全部赤。赤で、黒くて、噎せ返るほど充満したにおい。それにあの、遠くに見える一人の姿は。
 それも例に漏れず赤い。髪も。いや、髪はこれのせいじゃない。もっと、元から。それにこの顔は、ソルはよく知ってる。知らないはずがない。彼女は俺の──。

「…っ!」
 思わず口を手のひらで覆った。胃の奥から込み上げる不快感に嘔吐く。ふらついて力が抜けていく脚に咄嗟に階段の手すりを掴んだ。
 違う。あれは自分のせいじゃない。あの時自分はおかしくて。だからなんだ。結局手を出したのは、いやもしかするとあそこにいた人間が混乱して心中を図った可能性だって。その混乱を起こしたのは誰だ。あの時、手に残っていた肉を引き裂くような感覚はそういうことじゃないのか。違う、違う! 違うってなんだ。またやつが自分をこんな風にしたからと言い訳をするのか。あいつに手を掛けたのは紛れもなく自分自身だというのに。
「…クソッ!」
 やりきれない気持ちをそのまま壁にぶつけた。壊れようが今は関係ない。見なかったことにすればなにも問題なんてなかったことになる。そう、なにもなかったのだ。自分はまだいける。まだ。
 呼吸を整えるとソルはまた階段を登り始めた。あの日を象徴するような罰の瞳を虚空に向けて。






 音を立てないよう後ろ手に玄関の扉を閉める。
 常夜灯を点けようとしてやめた。カーテンの向こうが明るい。夜が明ける。塗りつぶされたような黒が全てのものに輪郭を与える仄暗さに変わっていく。夜に慣れきってしまったこの目はこの過程さえ眩しく見えた。明るくなっていくカーテン越しを見据える。時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
 居住など外から身を隠し、私物や金さえ置いておけるならソルはそれでじゅうぶんだった。ましてやこんな一般人が大勢住み込む、しかも開けた場所に建てられている集合住宅に身を置くなんて以前のソルならば考えられなかっただろう。自身が人間じゃなくなってからというもの大量殺人犯として世間に追われ、しばらく人里離れた場所で籠城生活を余儀なくされていた身としてはとんだ自殺行為である。食事は最低限腹に入れられればいいしそれよりも飛鳥の情報を僅かでも掴みたい。なにがあっても情報が最優先。次にこの体を保つための薬の材料を手に入れるための資金。家に帰るのも必要があればでいい。毎日帰る必要もない。それ故に人らしい生活とはあの日から無縁であり、必要のないものだった。そのはずだった。それらがひっくり返ったのは、今から少し前の出来事である。
 二つ並んだ部屋の内片方のドアノブを捻る。静かに扉を引いて、扉を開けたままソルは中に入った。あまり音を立てたくない。どうせすぐに出る。ならばそのままでいい。
 ベッドの前まで進むと地に腰を下ろした。そしてベッドの上に目を向ける。そこには布団にくるまれて静かに眠る少年の姿があった。
 黎明を迎える世界では少年の顔はよく見える。ソルは少年の頸動脈にそっと手を当てた。とく、とく、と至って正常に動いている。あたたかい。生きている音。すぅすぅと寝息をたてて眠る様子にソルは安心するのを感じた。
 カイ。
 それがこの少年の名前だという。



 半年前、飛鳥の情報を聞いてやってきた教会は、あの日とよく似た、無惨な姿になり果てていた。この子どもはその時の生き残りである。
 どこの誰だか知らないが、教会を襲うなんてなにを考えているのやら。この辺りの地域は信心深い人間が多いと記憶していたが、とんだ罰当たりな奴もいたものだ。それとも、こいつらが飛鳥の情報を持っているのか。そこまで考えたところで、結局話もせずに殺した。なんとなく、むしゃくしゃしたから。潰せばそれも治まるかと思った。理由なんてそれくらい。折角の機会を無駄にするとは。気でも狂ったのか。しかしこれらも今だから考えられることであり、当時のソルには些細なことになっていた。この子どもを助けないといけないと、頭がそれ以外の余地を残していなかったのだ。
 髪の隙間から見え隠れする包帯を撫でる。くすぐったそうに身をよじるカイにソルは思わず頬を緩めてしまう。
 カイは年齢に対してあまりにも幼い。顔立ちのせいということもあるだろうが、それだけでは言い表せないなにかがあった。個人差があるとはいえ、ソルがカイと同じ年齢の頃はこうではなかったはずだ。これも後遺症の影響なのだろうか。触れる包帯の奥にある癒えることのない傷を思い出して、ソルは眉をひそめた。

 カイを救うため闇医者の下を訪ねると、闇医者の腕もありカイは驚くほどの早さで回復していった。その時闇医者は言ったのだ。この傷を元通りにすることは難しい。それどころか後遺症が残る可能性がある、と。
 闇医者の言っていることはカイと話せばすぐに分かった。カイはひどく記憶が曖昧だったのだ。会話に問題はない。しかしその隙間、どうしても埋められない空白のようなものがそこにあって、それがカイの記憶をぼかしているような、そんな風に見えた。脳科学は専門外だ。そう内心舌打ちをしていたのを覚えている。ラジオを与えたのも、ラジオを物珍しく見つめるこの子どもを見て、これならばと思ったからだ。少しでも隙間を埋める手助けになればいい。ならないならならないでこの家における唯一の情報媒体なのだからニュースを聞くにはちょうどいいだろう。その程度の軽い気持ちで渡したのだがえらく気に入ったようで、ソファーにちょこんと座ってじっとラジオに聞き入っている姿を見るのも少なくない。ラジオにここまで夢中になれるなんて珍しい子どももいたものだ。聞いてみればこういった情報媒体とは縁がなかったようだが、今時の子どもはこれが普通なのだろうか。時の流れを感じずにはいられなかった。
 以前の、教会で事件が起こる前のカイのことをソルはなにも知らない。ここまで聞き分けがよく人懐こいのも後遺症が引き起こした幼児退行の一種である可能性があり、本来はもっと違う性格だったのかもしれない。教会の関係者も既にこの世に存在しない今、それを確かめる術もない。学校には問題なく通えている辺り、大して変わっていないのだろうか。どちらにせよそんなことソルには些細な問題だった。目の前にカイがいる。生きて、息をしている。その体温に触れられている。それだけでじゅうぶん。
 そう、生きているのだ。
 生きている。
 生きていない。
 生きている、どこに。
 はっとなってソルは手を引っ込めた。頭の中でまた渦巻いた業が形になっていく。ソルは頭を抱えると、ちらりとまたカイの顔に目をやった。それでも思考の中の砂嵐は消えてくれない。
 …遠い。
 ベッドを背にもたれ掛かるとソルは天を仰いだ。日はとっくに世界を照らし始めていた。







 自身が人間ではなくなって、大量殺人犯として追われることになったあの事件。あれは今から百年以上前の出来事だ。

「…。…? …!?」
 寝惚け眼を擦りながら部屋から出てきたカイは、ソファーに腰掛けているソルの姿を見るなり目を白黒とさせていた。
 頭が追い付かないといった様子で扉の前で呆然と立ち尽くしている。これは声を掛けないとずっとそのままでいそうだ。ソルは呆れたように口を開いた。
「ぼーっとする暇があるならさっさと身支度を済ませろ。そのまま寝ちまうんじゃねぇだろうな」
「…え? ち、違います! だって、それより、ソルはどうしてここに」
「そりゃ住んでるからだろうが」
「それはそうですが、お仕事は…?」
「…今日はねぇ」
 後ろめたさにぼそっと答えると、カイはぱぁっと表情を明るくさせた。しかし頭を振ったと思えばいつもの微笑みに変わった。平常心を装っているのだろうか。あの目の輝きようばかりは元に戻せなかったようだが。分かりやすい奴。
 だがこれもカイなりのソルへの気遣いなのだろう。いつも「お仕事」に励んでいるソルの負担にはなりたくないという子どもらしくない心遣い。カイを見ていればそう感じ取れる言動はいくらでも散らばっていたというのに、ソルがそれに気付いたのは先日カイと遅めの夕食を共にした時だというのだから滑稽である。
 一緒に食事を取ることが嬉しい、か。
 文字に並べればごく当たり前の一般家庭の光景だろう。別段浮かれる程のことではない。しかしカイのあの喜びよう。言葉には出さないものの、カイに寂しい思いをさせているなによりの証拠だった。
 実際思い返してみればソルがここに帰ってくるのはここが「家」だからではなく、カイがいるからという理由でしかなかった。怪我をしていないか。病気に罹っていないか。息をしているのか。ソルが家に帰ってくるのはそういった無事を確認するという意味合いが強く、以前ならば帰る必要なんてなかったのだ。一刻も早く飛鳥の情報が欲しい故に、帰らずに外で行動している方が効率が良かった。だからこんな生活を強いてしまうのも仕方のないことで。言い訳じみた考えしかできない自身に苛立ちが募る。仕方ないって、なんだ。
「カイ」
「…あ」
「来い」
 案の定虚ろになり始めた青緑の目が現実に戻る。ソルが手招きするとカイはきょとんとしながらも大人しくソルの隣に座った。
「待ってろ」
 そう言い残すと立ち上がったソルは部屋の奥へと向かった。
 歯ブラシを手に取るとカイの下へと戻った。あの様子だとまた思考の海に沈んでしまいそうだと考えたが、カイはしっかりとした目でソルを待っていた。先程呼び出してまでここに引き戻す必要もなかったかもしれない。
 カイの前で屈む。カイは首を傾げた。
「ソル?」
「口」
「えっと…」
「口、開けろ」
 後遺症の影響だとか、幼児退行の可能性だとか、自分が一番子ども扱いしておいて分かった風なことをよく言ったものだ。そんなこと、ただ自身の贖罪の為に過ぎないと心のどこかでは気付いていた。


 飛鳥によって作り替えられた自分の中のなにかがソルを今日まで生き存えさせている。自身の中にある以上確かめようもなく、その「なにか」がどういったものなのかはソル自身も分からない。しかしその「なにか」はソルの命を引き伸ばしただけに過ぎず、肉体と精神が追い付かない。だからソルはそれに耐えうる為の薬を作り、材料を入手してはそれを自身に打ち込んでいる。


 食事中のカイは機嫌が良いみたいだった。
 笑っているのはいつものことだがそれ以上ににこにこしていて逆に気味が悪い。それにこんなこと、以前にもあったような。遠い昔のようでつい最近のことのようにも思える。妙な既視感を覚えながらも、口を開こうとしたところでふと思い出した。先日、二人で遅めの夕食を取った時もカイはこんな表情だった。
 思えば朝食を一緒に取るのははじめてな気がする。ソルの帰りが日を跨ぐことは今に始まったことではない。そういう日は大抵カイが朝食を取り終えた後くらいに帰宅することが多く、ソル自身も休日であろうと帰りは待たなくていいと念を押しているのも孤食に拍車を掛けていた。不規則な食事は体に障ると考えてのことだが見方を変えれば逃げているようにも見える。自身の目的を言い訳にして。違うとも言い切れないのが、ソルの中の罪悪感を深くしていく。今日は天気が良いみたいですよ、とカイが嬉しそうに言う。あまりにも透き通っている笑顔と対面することにひどく居心地の悪さを感じてしまって、それを誤魔化すようにソルはカイの頭をくしゃくしゃにしてやった。


 あれからずっと飛鳥の情報を求めて各地を渡り歩いている。しかし手に入ったのは飛鳥がヨーロッパに渡ったという情報だけであり、それ以外の情報はなにもない。ソルがこちらに来てもう何十年と経つというのに、結局飛鳥の行方は全くの不明である。


 どこからか音を奏でる声が聞こえる。流しっぱなしのラジオがその音を邪魔している。いや、気に留めなければ外の車の走る音や子どものはしゃぎ声に掻き消されてしまいそうなほどの儚さだ。違和感に気付いた時には考えるよりも先に口が動いていた。
「…おい」
 ハミングが止まる。するとソルの背後からすぐに、はい、と悪気もなく声が返ってきた。
「さっきのお返しです」
 ソルの座るソファーの後ろで、カイはふふんと得意気に笑った。合わせたように流れ出したジャズがカイの気分を助長させているようだった。
 ちらりと視線だけを背後に目をやる。視線の先にはソルの結わえられた髪がソファーの向こう側にまで垂れているのが見えるだけでカイの姿はない。しかし背もたれの死角でなにが行われているかは容易く想像できた。
「なるほど。目先の利益を優先して後先はどうでもいいってか」
 鼻で笑ってやると、不意を突かれたようにカイに触れられている髪がびくりと揺れた。だがカイが退く様子はない。カイの意思は固いらしい。
 カイがソルの髪に触れたがるのはいつものことだが、放っておくと髪を編み出すことがたまにあった。髪を触るのは自由にさせているがさすがに編み込まれるのは抵抗があり、その度にやめろと声を掛ければカイはすぐに編み込まれた髪をほどいていた。最近はカイも察してか髪をアレンジしだすことはなくなっていたのだが、なるほどお返しか。どんな理由であれ頭をくしゃくしゃにしても嬉しそうにするのはどこのどいつだったか、というのは言わないでやらないでおいた。
「あの、ソル」
 するりと囁くような声が耳を通る。陽気に流れていた音楽がやけに遠くに聞こえた。
「なんだ」
「ソルは、夢の続きを見たことはありますか」


 終着点が見当たらない。終わりなどあるのだろうか。飛鳥は今一体どこで生きて、なにをしているのだろう。終わったところでなにがある。


「おやすみなさい」


 それとも、飛鳥は。




 ──…ねぇ。

 どこからか声が聞こえる。やけに甲高く、聞き覚えのある声だ。

 ──…ってば、…ねぇ、フレ…──!

 その声は遠く、崩れてうまく聞き取れない。周りの音がざわざわしてうるさい。それさえなくなってしまえば声は届きそうなのに。
 声が聞きたい。その一心でざわめきを振り払った。腕が空を切る。しかしいくら切り裂いてもざわめきは消えずむしろ増していく一方だ。うるさい。不快感が消えない。どうすればいい。こうすれば。…違う。これはなんだ。手に生々しい感覚が残る。肉を切る感触がする。
 視界が鮮明になっていく。ざわめきが脳を突き抜ける。血溜まりの中、目の前に転がっている彼女の虚ろな瞳が、人殺しの化け物を写していた。



 勢いよく上体を起こす。耳に入ってきたのは耳障りなノイズだった。
 ソルはどくどくと激しく鳴り響く鼓動を押さえ付けた。息がうまくできない。水なんてものじゃない。まるで砂漠の中で溺れているようだ。ずっとずっとあの日から、ひたすら寒い夜の砂漠の中で息もできずにもがき続けている。息が苦しいだけだ。寒さなんて気のせいだ。そう思っていた。そう、そのはずだった。
 息がようやく整いはじめた頃、ソルは自身に毛布が掛けられていることに気が付いた。こんなものを被った覚えがなければそもそも毛布はカイの分しか用意していないはずだ。自分はどうせ眠らないのだから。今回は不覚を取っただけだ。ならば何故。
 はっとなって窓の外を見た。夕景が空を茜色に染めていて、ぽつぽつと建物の明かりが点きはじめている。建物で遮られているものの、隙間から見える太陽がいつも以上に眩しく映った。
 部屋の中はラジオからノイズが吐き出されるばかりで他の音は聞こえない。明かりはなにもついていなかった。太陽の日が届かず薄暗い部屋の中は、輪郭こそしっかりとしているもののそこに誰かがいる様子はない。ソルは血の気が引いていくのを感じた。
 毛布をソファーに投げ置くと躊躇なくカイの部屋を開ける。しかし部屋の中にカイの姿はなく、ベッドの上ももぬけの殻だ。ソルの中でえも言われぬ焦燥感が募っていく。ソルは歯を食いしばると飛び出すように家を出た。



 大っぴらに表道を走り回るのはいつぶりだろう。
 今となっては表道を歩くのは昔ほど問題ではない。お陰でだいぶ行動もしやすくなり、太陽の光を避ける必要も減ってきた。人間のふりをするのは簡単だ。嫌になるほど身体に馴染んでいる。だが増長された疑心暗鬼が予断を許さず、表道での行動を制限している。
 街は買い物客や帰路に就く人でごった返していた。その中にカイの姿は見当たらない。もっと別の場所か。いつ家を出たのかは知らないが、そんなに長くソルが眠っていたとも考えづらい。きっと遠くへは行っていないはずだ。きっと、恐らく。推測の域を出ない予測が腹立たしい。これも全て自身の招いた結果だというのに。
 ソルはカイの行動範囲を知らない。
 普段どこで買い物をしているのか、どこの道を通っているのか、なにを見て、どれを道標にしているのか。なにも知らない。それもそうだろう。カイを引き取っておきながら、ソルはカイを避けている。自身の贖罪に利用するだけ利用して、カイがソルの内の最も醜い部分に触れてしまうことを恐れているのだ。だからこそソルはカイが子どもでいることを誰よりも望んでいる。与えられるものをただ無邪気に喜んで、不明瞭なものを疑いもしない。夜の寒さを知らないような、そんな子ども。
 街の外れまでやってきた。広場へ続く坂道が目に入る。ソルは迷うことなく坂道を駆け上がった。もうあれこれ考える余裕も猶予もない。
 長い長い坂道は徐々に視線を高くしていく。坂道の先にあるものはここからでは見えないのに、街の景色だけがだんだん見渡せるようになっていく。必要なのはどちらだった? ちらりとソルは遠くの空を見やった。無機質な建物だらけの世界の中、あれだけ隠れて姿を消していた太陽が未だにそこにいた。そこにいて、じきに街にいる時と変わらない、ちっぽけな屋舎にさえ遮られようとしている。このままでは空が闇に覆われてしまう。道標のない夜に変わってしまう。その下にカイを置き去りにしていることが堪らなく嫌だった。
 カイは今、同じ景色の中にいる。この空をよく見られる場所なら、あるいは──。


「──カイッ!」
 視界が広がる。その場所は街どころか世界中を見渡せるようだった。
 空が近く感じる。太陽は既に地平線の向こう側に消えていた。その名残が、最も地上に近い場所を仄かに赤く燃やしている。
 坂道の先にある広場。今、最も夜が近いこの場所に、カイはいた。
 フェンスに手を掛けて、いなくなってしまった太陽をカイはじっと見つめている。ソルはカイの下へ駆け出した。なんだかあの名残の「赤」が、そのままカイを連れて消えてしまいそうな、そんな気がしてしまった。
「カイ!」
 力任せに腕を引く。ようやく青緑の目がこちらを見た。青緑の目が大きく開いて、目の前のなにかを映している。
「…光」
 カイがなにを言ったのか、今は気にしていられなかった。
「お前は!」
 必死だった。
「お前は、なんで、勝手に…ッ!」
 言葉が詰まってうまく話せない。必死だった。必死だったって、なににだ。なにを焦る必要があった。カイがいなくなってしまうのではないかと疑惧していたというのか。いつもカイを避けて、情報だのなんだのを言い訳にして、帰らない理由を作っていたのは自分だ。生きていればそれでいいのだと、一人でいる心寂しさを子どもに押し付けていたのは、自分自身だ。
 ソル、と名前を呼ぶ声がする。それに返事をする気力さえない。その名前は、違う。なんだ。目の前がぐちゃぐちゃする。どうすればいい。どれが正解だった。なんだ。なんだ、なんだ、なんだ──。
 すると腕を掴む手になにかが重なった。これは、人のぬくもり。
「つめたい」
 カイは目を瞑って呟くと小さく笑った。
「…なら離せばいいだろ」
 突き放すような言い方はもはや八つ当たりに近かった。自分から離せないくせに、恐れている癖に、それを相手に選択させようとしている。ずるくて愚かで浅ましい行為。
「いいんです。これがいい」
 しかしカイは離そうとはしなかった。
「冷たい手の持ち主は、きっと寂しがり屋なんです。誰かに暖めてもらうのを待っていて、だから」
 ──私は、そのためにある。
 ソルははっとなってカイから目を離せずにいた。後ろめたさに自身の手を退こうとも考えたが、結局それもできなかった。なにもかも中途半端だ。なにもかも。
「…帰るぞ」
 そう伝えるとカイはきょとんとしたが、静かに頷いてソルから手を離した。それからすぐ近くに置いてあったバッグを持ち上げた。どうやら買い物に出掛けていたらしい。それが何故ここにいるのかは聞かなかった。今日はもう早く帰りたかった。
 バッグを持ってソルの下にカイは駆け寄る。ソルはバッグに向けて手を伸ばすが、それに気付いたカイがひょいと身を引いた。
「駄目ですよ。ソル」
「あ?」
「これは私の仕事ですので。ソルには譲れません!」
 いたずらっぽく笑うカイの表情は、まさにどんなことも自分でやりたがる子どものそれだった。
 ソルは溜め息を吐くとカイの頭をくしゃくしゃにしてやった。カイはううと呻くもののされるままだ。これで仕返しは済んだ。ざまあみろ。ソルは口角を上げてやった。



 人間は少し潰してやればすぐに死ぬ。
 火を使えば尚更だ。そこらじゅうに燃え上がっている炎に放り込んでやればもがくもがく。次第に垂れて崩れていく。動かなくなれば終わり。呆気ない。
 情報を掴んでやってきた教会は無惨にも荒れ果てていた。
 ソルが着いた頃には既に中は死体が道を作っていた。どれも女ばかりだ。恐らくこの教会の人間だろう。どいつもこいつも頭を撃ち抜かれるか首を切られるか。炎の中に見えるそれもそうなのだろう。みんな生死がどうなっているかなど一目瞭然だった。
 目の前の光景とあの日の惨劇が記憶の中で重なる。だからだろうか。教会の中で奴らの姿を見た時、口を利く前に殺した。頭の中がざわざわしてうるさい。早く消さなければ。早く、早く!
 その中で子どもの姿を見つけたのは偶然だった。部屋の隅の方で子どもが頭から血を流して倒れている。虚ろな目を、動かせもせずにじっと開いている。生きていると分かったのは、ソルの持つ人並み外れた聴力がその息吹きを聞き取ったお陰だろう。必要もないのに確認の為に子どもの首に触れたのも、ただの気まぐれだった。
 子どもに触れた瞬間に沸き上がったこの感情をなんて呼ぶのか、ソルは分からなかった。
 ただ真っ先に思ったのは、失いたくないという恐怖だった。人間でなくなってしまったあの日からソルはずっと寒さしか知らなかった。飛鳥を殺す。それ以外はいらない。しかしこの時触れたぬくもりは、「ソル」として生き始めてはじめてのあたたかさであり、衝動的に手放したくないと思わせるにはじゅうぶん過ぎた。
「おい」
 ソルは子どもの肩を揺すった。焦燥感がソルの心を支配する。怒りや憎しみ以外の感情を抱くのも久しぶりだ。ソルの中で、なにも知らないこの子どもの存在が大きくなっていく。
 呼び掛け続けると、子どもはうっすらとだが意識を取り戻したようだった。青緑の目がこちらに向けられる。その目はゆらゆらと揺れていて、今にも消えてしまいそうだった。
「お前、名前は。ちゃんと意識は」
「カ…イ…」
 微かな子どもの声がソルの耳に届く。カイ。カイ、とソルはその名を頭の中で反芻する。

「たす、けて…」

 カイは絞り出すように言うと意識を手放したようだった。
 ソルはなにも考えず、ただただ子どもを抱えて無我夢中で教会を出た。助けなければ。子どもの命を、繋げなければ。それしかなかった。先のことなど知らない。この子どもさえ助かればそれでいい。ただそれだけ。
 ソルの中の、罰が芽吹いていく瞬間だった。



2020/08/11



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