68.He can walk straight along the way he wants to.


幸村は弦一郎の足元に落ちていた白い帽子を拾った。ついさっきまで、気を失ったリョーマを抱きかかえたまま、彼女を揺すって起こそうと試みていた弦一郎であったが、どうにもその兆しが見えないために今は静かに立ち尽くしていた。白い帽子はその試みの間にリョーマの頭から次第に離れていったもので、意外にくたびれていたそれを幸村もまたじっと黙って見つめていた。否、本当のところ、帽子などどうでもよかった。ただ、顔を上げてしまえば、ひたすらに腕の中のリョーマだけを見つめる弦一郎の姿がどうしたって自分の視界に収まってしまうだけなのだ。路面に触れて、熱風になったものが頬を煽るように撫でる。まるで砂漠で歩き疲れて途方に暮れているような心地だった。手に入らないものを追いかけるのにも、きっと本当は責めようもないほどただ幼く、無邪気なだけだったのかもしれない彼女を憎悪するのにも、幸村は疲れ始めていた。特に、リョーマのうわごとを耳にしてしまったことは幸村の心を大きく折ろうとしていた。はっきりとではない。けれど自分の知らない真実が、彼と彼女の中に潜んでいる。そんな風に感じられた。ふたりが単なる甘ったるく生ぬるい感情や互いへの憐れみのために求めあっているのではないとしたら、ふたりを引き離すことは幸村の良心すら引き裂いてしまうのではないだろうか。
分かる。頭の中ではもう随分前からそんなことは分かっている。でも、とついに幸村は顔を上げた。ちょうど彼の向こうから金太郎に引きずられるようにして駆けてくる青学の顧問や部員たちが見え始めたころだった。遠くから近くへ、ゆっくり焦点を戻せば歩き始めた彼の背が見える。幅があって、ひどい怒り肩は相変わらず、あまりにも幸村の中に彼への親しみを呼び起こさせて仕方のない代物だった。
好きだ。たとえあの子の思いの方が自分よりずっと根深くて、重たくて、大切にされなければならないものであったとしても、私だって彼が好きだ。肝心なところで優柔不断だったり、変なところで思わせぶりだったり、本当に自分勝手な男だけれど、だからこそ余計に彼がほしい。
人知れず手の甲で目元を拭うと、晴れた視界では青学の顧問へとリョーマが引き渡されるところだった。弦一郎はひどく心配そうな顔をして、顧問に向かって何かしら話しかけていたが、彼女が緩く首を横に振りながら微笑むと、はっとしたように乗りだしかけていた身を引っ込めてしまった。恐らくリョーマはこれから病院に運ばれるから、自分もついていくとでも言おうとしたのだろう。弦一郎が青学の人間というならいざ知らず、やんわり断られて改めて自分が何に属している者かを思いだしたのだろう。全く、熱くなると周りが見えなくなるところが愚かで、愛しくて、腹が立つ。胸のところに掲げていた帽子を右手で後ろ手に隠し、幸村は弦一郎に向かって歩み始めた。

弦一郎は近場にある総合病院の名を反芻していた。リョーマを連れて小走りに遠ざかっていく青学の面々と赤い髪の少女を、今は黙って見送るしかなかったからだ。自分がリョーマを抱えていく、と申し出ても、有り難いが自分のところの部員のことがあるだとう、と切り返されては、今更ながら自分の立場が思い出された弦一郎には何を言い返すことも出来なかった。自分の所属にこれほど縛られていると感じる日が来るとは、弦一郎は夢にも思わなかった。その分、自分も彼女も大人になったのかもしれない。それぞれに各々の道を選んでいて、それはふたりを別々の方に導いていて、けれど今はそれを捻じ曲げてでも一緒にいたいと思っている。すべてはあのとき、何のしがらみもなく一緒にいられたはずのあの夏の日に、別れを告げられてしまったからだ。
「…たわけが。」
何度叱っても分からず、懲りもしない、リョーマは本当に、弦一郎に言わせればどうしようもない馬鹿だ。そして自分はそんな愚かで、だから可愛い女を放っておけない。
「行くのかい、お譲ちゃんのところへ。」
弦一郎の、今は短い影が揺れて止まった。踏み出した足で振り返ると少し赤い目をした幸村がじっと自分を睨んでいる。表情は怒っているけれど、子供っぽく拗ねているようにも見える。それは昔から弦一郎が思っていたことだった。幸村は幼い時から誰もがはっとするほど可愛らしい顔立ちをしていて、だからどんな表情もいまひとつ醜くなりきらない。今もそうだ。多分彼女は目下ひどく腹を立てているはずなのだが、申し訳ない反面あまり怖くないと思うのも正直なところだ。感情を隠して微笑んでいるときなどは寧ろ恐ろしく感じるが、こうして怖くないながらに気持ちを露わにされると分かりやすくて、弦一郎はそういう真っ直ぐなものにがひどく好きだ。
いつからだろう、幸村がそういう素直さを失い始めたのは。そうなる前なら彼女のことは手に取るように分かっていたし、何か自分がしてやったことで彼女がとても喜んで微笑んだときなどは、もう息が詰まるほどその美しい笑顔に魅入られたものだったのに。そう、あの頃は確かに、彼女がきらきらしていた。
弦一郎は幸村の問いにこっくりと、静かに頷いた。途端激昂した幸村が駆けよって平手を飛ばしてきたが、単純な筋のそれを難なく、素早く受け止めた弦一郎は悔しそうな幸村の表情を垣間見て、零れる微笑を抑えることもしなかった。
絡め取られた腕を取り返そうと幸村は足を踏ん張って弦一郎から離れようとした。ところが、彼女の体は意思に反して彼の方へ引き寄せられた。弦一郎の腕の力が想像よりも強くて、彼女の心臓は今の感情に不釣り合いなほどひどく高鳴った。激しい引力の割に優しい感触が体を覆う。この暑い夏の最中に、お前になんか近寄るものか、とからかってやったことはあったが、どうして、今抱きしめられると確かに熱いが心地悪くは決してない。こんな風に、いったい幾度、この幅が広くて厚いばかりの肩に顔を埋める日を夢見てきただろう。想像通り、また少し痩せた幸村の体はすっぽり弦一郎の体躯に収まっていた。
「さな、だ……。」
これまでの付き合いで、こんなにこの男に戸惑わせられたことがあっただろうか。どうして、何故、今このとき自分は彼に抱きしめられているのだろう。不可解がすぎてめまいがする。耳元で、いつもの声だけれどずっと小さく、囁くように、吐息交じりに名前を言われて肌が粟立ってしまう。そんなに強くも抱きしめられていないのに、息が苦しくて幸村はぎゅっと目を瞑った。
幸村を抱きしめるのは二度目だが、前は必死だったあまり感触も何も弦一郎の中には残っていなかった。だから初めてのような気持ちで出来るだけそっと抱きしめてみた。見た目よりずっと頼りなくて、細い体だ。ずば抜けたテニスの才と隙の無さ、そこから生じる威圧感で王者立海をまとめ上げてきた「神の子」とやらも、こうしてしまえばただの少女で、おかしくて愛しいものである。名前を呼んだだけで息を詰めたらしい幸村に、ひどいことだと思っても伝えなければならないことがある。嘘はつかない。潔くなければ自分が許せない。またひとつ、自分が夢を見ていたことを知ったから、それを終わらせなければ現実を歩いて行けない。自分も、彼女も。
「幸村、俺は、お前が好きだった。」

優しい声だった。だから彼の言ったことは間違いなく真実であると納得がいって、だからこそ、その理不尽な物言いに気が狂いそうだった。呆然とした幸村をそっと解放すると、弦一郎はその驚いたまま固まってしまった表情に苦笑した。そして笑われたことに気がつくとやや幸村の表情が曇り、しかしまだ上手く喋ることも出来ず彼女はぼそりと呟いた。
「どういう、ことだい……。」
「どうもこうも、言ったままだ。俺はお前が好きだったのだ、幸村。ちゃんと、お前に恋をしていた。」
真っ直ぐ目を見たまま伝えられた後、幸村はゆっくりと俯いた。意味が分からなかった。緩く首を振ってみたものの、弦一郎が前言撤回というような情けない真似をするはずはなく、ふつふつと苛立ちだけが湧いて募った。
「待ってよ、じゃあ、何で君はあの子のところに行こうとしているの。」
「だった、と言っただろう。すまないが、今は違う。」
「じゃあ何で私に伝えるの!」
幸村は力いっぱいそう叫んだ。戯れだったとしても残酷すぎる。とっくに途切れてしまった想いがあったことを、まだ彼を想い続けている人間に教えるだなんて、そんなことをする奴の気がしれない。そこで、キッ、と睨み上げたものの弦一郎に動じる風はまったくない。それもまたふてぶてしく幸村の目には映り、さらに糾弾しようと息を吸ったところで弦一郎が不意に申し訳なさそうに目を細めて、また彼女は息をつめてしまう。弦一郎は再び、一方的に言葉を紡ぎ始めた。
「言い訳にしかならんと思うが、言わずにはおれなかったのだ。多分、俺はお前を幾度か戸惑わせただろう。一緒にいると誓ってみたり、お前に泣いて縋ったり、俺はお前に甘えていたのだ。お前が俺を好きだということに、俺もお前を好きだったということに。言ってしまえば俺にとってお前は逃げ道だった。正直、俺はリョーマと向かい合っているのが辛い。あいつの中に見たくもないものが犇めいているような気がして、ずっと辛かった。だが、もう逃げ続けることも出来ん。俺はあいつが好きだ。あんなたわけた奴、俺が一番に叱ってやらんとどうにもなるまい。何のために、俺が俺という人間であろうとしてきたのか、やっと分かったのだ。幸村、」
俺はもうお前に憧れない。
それから振り返って駆けだしていった彼は、確かにしっかりとした足取りをしていて、もう幸村が、待て、とか、行くな、とか言ったところで立ち止まることはなかった。

病院の入り口で青学の顧問と桃城を見つけられたのは運が良かった。リョーマが搬送されたという病院までやってきたのは良かったが、そうそう病室がどこかなど知れるはずはなく、弦一郎がしまったと歯噛みしていたところに桃城たちの存在はまさに渡りに船であった。ぎょっとしている彼を急かし続けて上ってきた階の廊下には青学の一段が屯していて、分かりやすい目印になっていた。走ってきたせいでかいた汗が今頃噴き出して顎を拭いながらずんずんと、顧問も桃城も追い抜いて、青学の中心に割って入って弦一郎はある病室の前に立った。背後では突然の立海大付属中テニス部副部長、真田弦一郎の来訪に驚き慄く声が飛び交い、多少腹は立ったが事情を知らない彼らでは当然の反応であると弦一郎は自らを諌めた。病室の戸に手をかけると、ふと、まるであのときのようだと思えてつい手が止まった。
真っ白な病室、盛夏の一日、ベッドの脇に佇む人。それらが今度も、扉を開けた先に待っているような気がした。
まさかな、と自らを笑った。そして気安く戸を開けてみた弦一郎は、目の前の光景にやはり瞠目せざるをえなかったのだ。
真っ白な病室、盛夏の一日、ベッドの脇に佇む人。
あのときと違って、そこは個室でもないし、湿度の高いじめっとした日本独特の夏の空気が部屋には漂っているし、ベッドの脇に佇むのは手塚国光だ。明らかにあのときとは違うのに、それでも息を呑んだのは、こちらに気がついたリョーマの表情だけがあのときと同じに見えたからだ。
戸惑って弦一郎が国光に視線を移せば、いつものように無表情ではあるが、僅かに目を伏せてしまってどうにもならない。仕方なく弦一郎は後ろ手に戸を閉めて部屋の脇へ向かった。左奥のベッドの側まで行けば自然とリョーマが弦一郎をじっと見上げた。試しに名前を呼ぶと、うっすら微笑んだ彼女が、少し困ったように言った。
「あの、どちら様ですか?」

――――――
母親と小一時間「なぜ諸星あたるはモテるのか」という議論を交わした結果。


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