67.いのる もの


目を覚ました私は真っ白な部屋に寝かされていた。母さんは泣き腫らした顔で、親父は少し怒ったような、やっぱり泣きそうな顔で私を覗き込んでいた。最初は何が何だかよく分からなかった。それから病院の人や、警察の人に色々なことを聞かれて、話されて、私はそうだった、と冷静に全てを思い出していった。皆が皆私を慰めようとひどく優しくしてくれる。けれど私は平気だった。それよりもすることがあったからだ。落ち込んでいる暇など、そのときの私には少しだってなかったのだ。
病院で寝泊りを繰り返して数日、ようやく彼と会ってもいいと言われた。私はすぐ母さんに彼を呼んで来てくれるように頼んだ。その間は親父とふたりきりになる。その瞬間を待っていた。
「ねえ、親父、たのみがあるの。」
「おう、何だ。」
私の言葉に親父が嬉しそうにベッドに手をついて頭を撫でてくれた。今ならきっとどんなわがままでも聞いてくれるに違いない親父が珍しくて、面白くて、少し笑ってしまった。それを見た親父が涙ぐみそうなほど嬉しそうな顔をするのに、少しだけ申し訳なくなる。でも、これは何があってもしなくてはいけないことだから、親父への今まで一番大事にしてきた気持ちもないがしろにしなくてはならない。
壁もカーテンもベッドも真っ白なこの部屋こそ、本当の魔法使いの森だ。
「弦ちゃんがもうすぐ来るでしょ。」
「おう。」
「私、知らないの。」
そう言って笑った私を親父はきょとんと見つめていた。もちろんだけど、私の言ったことの意味が分からないのだろう。私は笑顔を崩さず続けた。
「私、弦ちゃんのこと知らないの。だれなのか分かんない。ぜんぶ、ぜんぶ、知らないんだよ。」
「な、何言ってんだ、お前。」
明らかに狼狽した親父が私の肩を掴んだ。ベッドに腰掛けて私に顔を寄せた親父の顔を、私はしっかりと開いた目で見つめた。真っ直ぐ、揺らがない瞳に私の気持ちがただ事ではないと察知したのか、親父の顔色は少しずつ悪くなっていく。俯いて、ごめんなさい、と囁いた。そのまま親父にだけ聞こえるように、私は告白した。
「私、弦ちゃんのことも、レイプされたことも、わすれたふりするって決めたの。弦ちゃんと、それから私のために。だからおねがい、親父からも言って。リョーマは、ぜんぶわすれちゃったんだよって。」
親父が俺に何か言おうと大きく口を開く。それを私は手で塞いで止めて、驚いて目を剥いたままの親父が決して何事も言わない内に自分の気持ちを全部語って聞かせた。

あのね、親父。私、弦ちゃんが好きなの。ほんとうだよ。せかいでいちばんなんだから。そう、うん、……親父よりも。それとね、弦ちゃんも私のこと好きなんだって。そう言ってくれたの。怒んないでよ、私うれしいんだから。
でもね、私は弦ちゃんがだいじで、弦ちゃんは私がだいじで、だから、あのひと、あんなにしちゃったの。けいじのおじさんたちが言うみたいに、しょうがないことなのかは分かんない。でも、わるいことがあるなら、それって私だよ。私、外に出たでしょ。あのね、あのときやけっぱちだったんだ。私、ずっと、ずーっと弦ちゃんが好きだった。だからまた会えるって分かって、どうしても好きになってほしくて、女の子らしくなったら好きになってもらえると思って、だからスカートはきだした。けど弦ちゃん、私が何言ってもおこっちゃって、私、かなしかった。弦ちゃん、私のこときらいなのかな、とか、昔とかわっちゃったのかな、とかいろんなことかんがえて、弦ちゃんのこといっぱいうたがった。しんじられなかったの。好きなくせに。だからにげたの。いま思うとね、きっと追いかけてきてほしくてにげたんだ。ばかだね、私。そんなことするから、好きな人をきちんとしんじないから、こんなことになったのかもしれない。おとこのひとって女の子にあんなことするんだね。しらなかった。でもほんとはあれって好きな人と好きな人がすることなんでしょ。わかるよ、だって、弦ちゃんに見つかったとき、おもったんだもん。もしも弦ちゃんだったら、やじゃないやって。でもそれって反対にかんがえたら、好きな人が好きじゃない人にされてるの見たら、ほんとうに、すっごくいやなことだよ。弦ちゃんが私のことほんとうは好きだよって言ってくれたときに、すごくひどいもの見せちゃったんだって、泣きたくなった。あのひとをぶったあとの弦ちゃんも、ものすごくつらそうだった。あのひといっぱい血が出てたけど、ふつうはあんなふうに人にケガさせたくなんかないじゃん。なのにさせちゃった。私だけならまだよかったけど、弦ちゃんにまでさせちゃった。けどね、弦ちゃんすごいんだよ。私のせいでそんなつらい目にあったのに、わたしのせいじゃないって言ってくれたの。あんなもの見たあとで、それでも私のこと好きって言ってくれたんだよ。すごいよね。弦ちゃんってめちゃくちゃつよいんだって、今まででいちばん思ったよ。そういうとこ大好きなんだ。うん、私、ほんとうに弦ちゃんが好き。
だから私、弦ちゃんにきらわれようとおもう。私をきらいになっちゃえば、このあいだのこと、つらくなくなるんじゃないかなって。きらいなヤツがひどいことされててもへいきじゃん。いい気味っておもうもん。それにむかつくことってはやくわすれようとするから、ひょっとしたらわすれちゃうかも。そうなったらいちばんいいよね。ぜんぶわすれちゃえば、つらいこと何にもない。そのまま弦ちゃんが大きくなって、ほかに好きな子ができて、しあわせになったらいちばんいい。逆に、ずっと私のことかんがえてつらいまんまでいられたら、いやだよ。
それに私も、ほら、私あのひとナイフでさしたでしょ。あのときね、弦ちゃんがころされちゃうかもっておもったら、ナイフで人をさすのがちっとも怖くなかったんだ。けどそんなのぜったいだめじゃん。私だって、べつにそんなことしたくないよ。でも、弦ちゃんのためなら、何回でもきっとしちゃう。けどそんなのいけないから。
私、ぜんぶ忘れる。忘れて、「私」も忘れて、ぜんぶやり直す。
だから。

子供の拙い言葉ではどれほど分かってもらえたか分からなかったけれど、話すほどに親父は青ざめていった。話し終わる頃には、私の肩を掴んでいた手も下ろしていて、それから親父はそっと立ちあがった。いつも自信に溢れていて、憎たらしいほどはつらつとしている姿は見る影もない。ずっと大好きだった人のそんな様を見ると、やっぱり胸は痛んだけれど、それ以上に今、守りたい人がいた。もう一度、ごめん、と私が言えば、ぐっと唇を引き結んだ親父がようやく尋ねた。
「リョーマ、それは……『一生のお願い』ってやつか。」
親父の声は震えていた。悲しさと、ちょっとだけ拗ねたような雰囲気の混じった言い方には、迷いながらも親父の理解とか覚悟とかが見えるようだった。私は怯えることもなく首を縦に振った。
「うん、いっしょうのおねがい。私、弦ちゃんが好き。だから」
最後の言葉を遮って親父が、馬鹿やろう、と呟いた直後、病室のドアが勢いよく開いた。

――――――
おやじふられた。


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