66.うつくしい ひと


すっかり声も抑えなくなっていた私は、あの感覚で頭が鈍っていた。もう吐き気はなくなっていて、感覚の波があまりに激しいと何回か気絶したようでもあった。揺さぶられている内に意識を取り戻すと、いつの間にか体位や自分の位置が何度も変わっていた。すっかり全身の力も抜けきっていて、何も考えられず私はあの感覚に酔っていた。何故かそれが私に何も考えずにいさせてくれるのだ。こんなに楽なものがあるんだ、と感心すらしていた。そのまま最初のように仰向けにされると、がくりと首が仰け反って、目の前にあの倉庫の十字路が見えた。
そして、そこに人影が現れたのは本当に突然のことだった。その姿を目に焼き付ける内に私の頭はだんだん冴えていき、その人がこちらに顔を向けると、ぽつりと呟いていた。
「……みないで……。」
彼も何かを呟いたようだけれど、私に聞こえることは決してなかった。

歩み寄ってくる彼の気配に、男はすぐに気がついた。男が私を離すと、埋め込まれていたものもずるりと抜けて、ぽっかり空いたようなお腹の感覚に体がぶるりと震える。私を置き去りにして彼の方へ歩いていく男を目で追って、仰向けていた体をうつ伏せにしながら私は何とか上半身を起してみた。下半身は鉛でも入っているみたいに重たくて、それ以上動けないのが分かると、捲れ上がったままのワンピースにはっとして急いでそれを引き下ろした。それと同時に急に咳き込んでしまい、ぜえぜえと苦しい呼吸を繰り返していると、辺りをつんざくような、ガァンという音が何度も響き渡った。驚いて顔を上げると、彼が男によって壁に押し付けられていて、何か棒のようなものを持った彼の手を力いっぱい、何度も壁に叩きつけていた。歯を食いしばって痛みに耐えていた彼が、とうとう棒を落としてしまうと、地面に当たって、またあの硬質な音を辺りに散らした。すると男が、にい、と笑ったのが私には見えた。それはさっきまでの遊びに興じるようなものとはまた違う、凶悪で、圧倒的に危険なものだった。男が唐突に彼の首を左手で押さえつけた。もちろん彼はそれをどけようともがいたけれど、なかなか上手くいかない。その間に男はゆっくりと右手を背中に回した。腰の辺りを探っている手に、まさか、と思って私は振り返った。ナイフはまだ地面に刺さっている。でも、もし男がもう一本持っていたら、どうなるだろう。彼は、どうなってしまうだろう。
子供でも、ナイフの危険性と男の異常さが合わさったらどうなるかくらい、簡単に分かることだった。
私は迷わず地面に突き立ったナイフの柄を握った。迷う、というのもおかしい。何も考えてなどいなかった。感情もなかった。ただ焦りだけで体は動いていて、このときだけはお腹の鈍痛も違和感も忘れて私は簡単に立ち上がっていた。両手で握ったナイフを腰の辺りで構えて、走った。体当たりした男の体は少ししか揺れなかったけれど、確かな手応えがあって私は二、三歩後退して目にした。
ナイフが男の太股の上の方に、根元まで刺さっている。
途端に叫んだ男が、刺された足の方から崩れるように倒れた。ひいひい呻きながらナイフを引きぬこうとする男の向こうで、咳き込みながら彼がずるずるとしゃがんでいくのが見える。よかった、と私は小さく声をもらして、彼の方へ歩き出す。けれどこのときには体の痛みがちゃんと感じられてしまって、上手く動けなかった。私はお腹を押さえて、それでも歩こうとした。
その手を、男の血まみれの手が掴んだ。もう片方の手は私の頬を撫で、べとりとしたそれもやっぱり血で真っ赤だ。男の目は驚きと恐怖と怒りで血走っていて、掴まれた手は粉々に砕かれそうなほど力強く握られる。痛い、と叫んだ直後、男の顔が一瞬で消えてしまった。代わりに現れたのは息を荒げて、一杯に見開いた目で男を睨み下ろす弦ちゃんの顔だった。そして彼の見下ろす先を私も目で追えば、鉄パイプは曲がるほど強く、男の後頭部を殴りつけていた。

それから男が身じろぐ度に、弦ちゃんはあらん限りの力で男の体を叩きのめしていった。頭を、顔を、首を、肩を、腕を、肘を、背中を、腹を、ナイフの抜けた傷口を、所構わず殴り潰していく内に、男は全く声を出さなくなった。私はとっくにその場にへたり込んでいて、黙々と男を殴るだけの弦ちゃんを泣きながら見つめていた。ときどき、やめて、とか、死んじゃう、とか呟いていたけれど、聞こえていたかどうかは分からない。それに私がそんなことを言うのもおかしかった。涙を拭おうとした手は血でべっとりと汚れていて、男の脇に落ちているナイフについている色と同じだな、と思うと眩暈がした。
私が刺したんだ。
あのとき、弦ちゃんが殺されてしまうかもしれない、と気付いたら、もうナイフを男に突き立てていた。
彼を失いたくなかったから。だけど。
だからって。
私、迷いもしなかった。

さっきまでとはまた違う涙が溢れて、今度はもっと大きく泣きじゃくる私に気がついた弦ちゃんが、鉄パイプを落とした。その音にもうひとつ罪悪感が生まれる。悪いことを、こんなに怖いことをするのは私だけでよかったのに、彼にまで、同じことをさせてしまった。泣きながら見た男は生きているのか死んでいるのか分からない。もしも死んでいたら、私だけじゃない、これは彼のせいにもなってしまう。
どうしよう、どうしてこんなことになったの、それもこれも、みんな、みんな。
「ごめ、ん、ごめんな、さい……あたしが、あた…し、が。」
私は絞り出すような声で謝っていた。喉がからからになっていて、あまり声が出ないけれどそれでも無理やり喋ると咳き込んでしまう。なのにそんなことにすら時間は割けない、と咳き込みながらも謝った。謝ってどうにかなるものでもなくとも、せめて全ての責任は私にある、と伝えたかった。そのくせそれは辛くて、路地は寒くて、全身がぶるぶる震えると声すら絶えそうになって、情けない。お腹の痛みも増すようで、蹲りそうになった私の肩を熱い手がぐっと掴んでくれた。
「ちがう、お前は、悪くない!お前のせいじゃない!……お前は何もしてない。大丈夫、大丈夫だ。俺が、」
弦ちゃんの手の温かさに気力を取り戻した私は、その言葉にひどく驚かされた。どうして、私が悪いのに、どうしてそんなこと言うの。そんな風に、私を見離さないでいてくれるの。私の顔を包むように添えられた彼の温かい手に、私は震える手を重ねた。
彼の優しさが嬉しくても、分かってもらいたかった。私があなたを信じられなかったことを。裏切ったことを。そしてどんなに私の手が汚いかを。
「ちがうの、あたしが、いけないの。ねえ、あ、弦ちゃん……ごめん、ごめんね、あたし、帽子、返したかったの。もっと早く、ちゃんと、言ったらよかったの、に、あたし、あたし、ばかだ、来てくれたのに、どうして弦ちゃん、の、」
弦ちゃんはしばらく何も言わなかった。様子を窺っていると、彼の顔はくるくると色々な表情を見せてくれた。恥ずかしそうで、悔しそうで、悲しそうで、ついには絶望したような顔まで。その表情のまま、弦ちゃんは、嘘だ、と言った。その言葉は痛いほど私にも分かった。

そうだね、こんなの、全部嘘だったらよかったのにね。でも現実なんだ、元に戻せない。
辛いって思ってくれる?ひどいって言ってくれる?ごめんね、こんなことが嬉しいあたしで。
やっと、あなたの気持ちが分かって、嬉しいの。

汚れた手や体で彼に触れるのは躊躇われたけど、ここが暗いのをいいことに私は目を瞑って彼を抱きしめた。ようやく触れた体は厚くて、温かくて、背中に回した手はもう片方の私の手に届かなかった。弦ちゃんの体の熱がじんわりと伝わって、冷たい私の体を通して胸の中まで柔らかくなっていく気がした。
愛してる。
言葉ではそう思わなかったけれど、このとき彼に抱いたどうしようもなく溢れる強い感情の広がりは今では、愛してると言い換えるより他ない。また一筋、流れた涙は温かくて、こんな地獄のような闇の中でも生まれるものがあることに心から感謝した。私はうわごとのように彼の名前を繰り返し呼んだ。それは抱いている感情と同じ意味を持っていて、大切に、ひとつひとつ優しく紡いでいった。それから私の肩に額を押し付けた弦ちゃんが、懺悔するように言った。
「……リョーマ。俺は、俺はお前が、好きだ……好きだったんだ。」
体をひくつかせながら、泣いているらしい弦ちゃんをまだ抱きしめたまま、私はその苦しみ悶えるような声音に喜びと悲しみをいっぺんに見出していた。喜びは単純だった。彼の言ってくれた、好き、という言葉が、私と同じ気持ちだと分かったからだ。意外だったから驚いたけれど、嬉しくない訳がなかった。嫌われていなかった。それどころか彼も本当は私を想ってくれていたなんて、でも。
私と違って、彼がその気持ちに苦しんでいるのも分かってしまった。当たり前だと思う。私のことを好きだと思ってくれているなら、こんなことになって、あんなものを見てしまって、どんなに辛かっただろう。彼の気持ちが、私の気持ちが、彼ばかりを苦しめるんだ。
悲しいのは、好きなんて言えない、と気付いたからだ。この上、私が彼を好きだなんて言ったら、彼はどうしたらいいの。今日のことはもう、彼に一生消えない傷を負わせている。そんなものを、私を見るたびに、想う度に何度も鮮明に思い出さなければならないなんて、そんな苦しみをどうして私が彼に味わわせなくちゃならないの。そんなことなら私なんて、
気がつくとそれはとても簡単な解決法に見えた。まるで視界が明るくなったようで、私はほっとしたけれど、すると急に彼の温もりが恋しくなってしまって少し困った。だから最後のわがままだと言い訳にしてもう一度だけ、ぎゅっと彼を抱きしめた。彼の肩に擦り寄って、骨ばった感触にほほ笑んだ。
「……ありがと。うれしいよ、それだけで…もうだいじょうぶ、泣かないで。ねえ、」

ごめんね。
あと一回だけ、あなたを裏切るよ。

そう心の中で唱えているとき、ふと視界に青空があった。夏の、突き抜けるような強い青はときには冷たく感じてしまうような色だ。
けれど決心した今、そんな色さえ怖くなかった。飛び降りた先が、たとえあんなふうに真っ青でも平気。

だって、ああ、きれいだもの。

それから間もなく、目の前は真っ暗になった。

――――――
inspired by L/OV/E P/SYC/HED/EL/I/CO 'I Will Be With You'


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