65.うらぎり もの


※暴力表現と若干の性描写有り



車が家に着くと真っ先に弦ちゃんは外に出た。彼は開けっぱなしのドアの向こうでじっと庭を見つめていて、ひょっとして懐かしんでくれているのかと思うと少しだけ元気が湧くような気がした。私はずりずりとシートの上で体を滑らせて、弦ちゃんの降りたドアにたどり着くと、そこから自分も降りた。割と大きな車だから地面までの高さがあって降りるのに苦労したし、シートの端にスカートが引っ掛かってぎょっとした。片足の爪先を地面につけて、ほんの少しの安定を得ると私は急いでスカートの裾を元のように下ろしにかかった。ふとももまでさらされたのが分かる。でも、ちゃんと両足で地面に立ってシートに残っていた白い帽子を手に取ると、突然ひどく恥かしさを感じた。背中に視線を感じたのだ。私の後ろにいるのは弦ちゃんしかいない。だからこの視線は彼に違いなくて、見られたのかと思うと本当に顔から火が出そうだった。それでも恥を忍んで私がそっと振り返ると、確かに弦ちゃんはこっちを向いていた。けれど視線は少し下に落ちていて、皺の寄った眉間はいつもだけれど何か考え込んでいるような表情だと思った。どうかしたのかと思ってそっと近寄ったけれど反応がない。どうしよう、どうしよう、と悩んだけれど、具合でも悪かったらいけない。だから意を決して声を出した。
それが失敗だった。
「弦、ちゃん?」
名前を呼ぶとぱっと彼は顔を上げた。でも表情は相変わらずどんより重たいもので、彼が今どういう状態なのか量りかねるものだ。困ったなあ、とお腹の上でぎゅっと手を握って見つめ続けていると、だんだんと表情は険しさを増していき、まるで私を憎んでいるような顔つきなった彼はとても忌々しそうにこう叫んだ。
「……だから、弦ちゃんって呼ぶな!」
憤慨した様子の彼はそう怒鳴って私をきつく睨みあげた後、おじさんのところへ乱暴な速さで行ってしまった。私は愕然としていた。自分がどんな顔をしているのかすら分からず、ただじっとそこに立ち尽くしていた。その内、皆荷物を片づけ始め、親父は車をガレージにしまうため、もう一度車に乗ってエンジンをかけた。背中にその熱気を感じて無意識に車から離れたけれど、それと同時に、ぼたり、と大粒の滴が地面にひとつ落ちた。スコールかと思った。でもそれはその直後の雨粒で、最初に落ちたのは決して雨じゃなかった。
すぐさま滝のように降り注ぐ大雨の中を私はふらふらと歩き始めていた。別に歩きたかったわけじゃないけれど、この庭はそのときの私にふさわしくなかった。だってここには優しい思い出があまりに詰まっていて、こんな気持ちで泣けるはずがない。
舗道に出た私はすっかり体に張り付いたワンピースを水気でぐちゃぐちゃの瞳に映した。痩せぽっちの体にまとわりつく服はみっともなくて、涙は余計止まらなくなる。
「なんで……っ、どうしてぇ…!」
頭の中で飛び交う言葉も、とうとう口を突いて出た。不思議で、納得のいかないことばかりが私をひどく追い詰めていく。この数年信じてきた母親の言葉も、彼に抱いてきた幻想も、両方が私を冷たくも裏切っていたのだ。自分がしたいようにすることを諦めて、必死に女の子になろうと努力した。直向きさは報われるものだと信じていたのに、そして彼があの言葉と一緒に、私がこの手に握りしめている約束のものを返してもらいに来たよ、と、どんな風にでもいい、言ってくれるものと夢見てきたのに。
涙の止まらない目を開くと、手の中の帽子は水を吸ったせいでぐったりと、重たくなっていた。その重さが煩わしかった。
こんなもののために、私は一体何をしてきたのだろう。昔のままの私だったら、少なくとも今日みたいな悲しい気持ちを味わわずに済んだんじゃないだろうか。あれだけ輝いていたように見えた日々は急速に色あせていた。何もかもが無駄で、不要で、私を馬鹿にしていた。
震える手を開くと、帽子の唾がコンクリートの地面に当たって、こつん、と音を立てる。けれど、くたり、と落ちたそれはうるさい雨音にかき消されたように静かにそこでずぶ濡れていく。もういい、こんなもの知らない。私は悪くない。あの人が、怒ってばかりいて、私も、約束すらも顧みてくれないのが悪いんだ。
皮肉な笑みを足元の帽子に送って、私は顔を上げた。灰色の地面がどこまでも続いている倉庫街だった。かすかに雨の匂いに混じって潮の香りがするそこは、家から遠すぎる場所でもなく、以前来たこともある場所だ。ほっと息をつくと、肌に張り付くワンピースの気持ち悪さを覚えた。嫌々摘まんでみたスカートは馬鹿馬鹿しいほど綺麗な白で、今は僅かに透き通っている。こんなふわふわしたもの、本当は趣味じゃない。これは、可愛いと言われてにっこりほほ笑むような女の子のためのものなんだから。私は、
' I gotta stop being a girl....'
そう忌々しく呟いたとき、突然背後から声をかけられた。ぎくり、として振り返ったけれど、そこに立っているのは見知らぬ男だった。レインコートを着たその人の顔は辺りが暗かったのと、背が高くてよく見えず、けれどにこりと笑ってむかれた歯は真っ白で、よく見る類の笑顔だったと思う。だから私は、こくり、と頷いた。聞かれたのだ。
本当に女の子をやめたいの、と。
すると男は、すい、と倉庫の方を向いて歩き始めた。そして倉庫と倉庫の隙間の路地に体を滑り込ませながら、くすくす笑って、だったらついておいで、と歌うように繰り返し言い続けた。当然不気味に思ったけれど、彼の言ったことが少なからず気になった。だったら、とはどういう意味なのだろう。言葉のままに受け止めるならば、彼についていけば女の子を止めることが出来る、ということだ。それは全てをリセット出来るのと同じことで、まるで魔法の呪文みたいに耳についた。胸がドキドキと高鳴って、倉庫の路地は絵本の中の魔法使いが住む森のように見えてくる。本当、と暗がりで見えなくなっていく彼に大声で尋ねると、やはり笑い交じりの声が、もちろんさ、と愉快に返してきた。それがありもしない確信を私に抱かせた。あの人についていけば、全てが変わるんだ。
嬉しくなって私は暗闇に飛び込んだ。ぐっと冷え込むそこはまさに異世界然としていて、冒険心までくすぐられるところだった。目を凝らすと、濡れて光るあの男のレインコートが翻って、横の路地に消えるのが見えた。待ってよ、と浮ついた声を出して私は軽快に駆けていった。倉庫で出来た十字路に差し掛かってさっと左を向く。そうしたら、男の羽織っていたレインコートは古びたローブに変わって、少し老けた顔になった彼の指からキラキラした光が現れて私を包むんじゃないかしら。そうだったら何て楽しいんだろう、とすっかり笑顔になって私は角を曲がった。

そこで私を待っていたのは、そんな夢の国のように柔らかなものではなかった。ずん、とお腹に重たいものが刺さった。いつの間にか右腕を掴まれていて、目の前から私のお腹に刺さっていたのは男の腕だった。遅れてやって来た痛みと吐き気に口が勝手に開いて、押し出された息が唾液と一緒に飛び出していく。冷たい汗が体中から噴き出して、私は吐いてしまいそうになるのを必死に堪える。すると足の力は抜けてしまって、右腕だけで釣り上げられるような形になってしまった。男は私が動けないようなのが分かったのか、ぶん、と掴んでいた私を路地の奥に放り投げた。背中から地面に落ちた私はまた勝手に出てくる肺の中の息で悲鳴を上げた。手足は震えて、打ち付けた背中と、ここでようやく気がついた殴られたお腹がひどく痛んで身動き一つ取ることすら出来ない。はあ、はあ、と必死に息を吸うけれど、辺りの黴臭さと口の中へ容赦なく飛び込んでくる雨に幾度も噎せた。手や足には泥を擦る感覚があって、それも普通の泥よりもねっとりと肌に絡みつく。気持ちが悪くてたまらず、体を起こそうと私が身を捩ると、目の前が一段と暗くなった。霞む目で真上を見ると、あの男がいた。私に跨った男は、うっとりとほほ笑んで、言った。
' Sweet girl. '
息を呑んだ。同時に怒りでまた涙が出た。どうして、何で、こんな奴が言うの!
私がその言葉を言ってほしいのは、
ふ、と一瞬で沸きたった心が静まった。どうしてだろう、と思う間もなく私は気が付いていた。まだ、言ってほしいんだ。そして他の人じゃ駄目なんだ。また、ぶわりと湧いてきた涙に驚いて私は慌てて手の甲で目元を覆った。やっぱり、どんなに切り捨てようとしても三度目の恋は私の中に棲みついて追い出しようもない。特別なんだ。彼は、たったひとりの、私だけの、
帰らなければならない。ぎゅっと拳を作って私は涙を押さえ込んで決心した。一刻も早く、帰ろう。あの庭へ。彼と私の、唯一の楽園へ。あの優しい場所で、また時間を積み重ねればいいんだ。四年の月日が彼を変えていても、彼と私の間に溝を作っていても、今ならまだ間に合うはずだ。話をしよう。怖がらずに、微笑みかけよう。諦めずに追いかけて、捕まえて、また一緒にテニスをして、疲れたらオレンジの木陰で休もう。たったそれだけでいい。どうして忘れていたんだろう。私たちはそうして絆を深められたのに。馬鹿なのは、裏切ろうとしていたのは、私の方だ。
まだ綺麗な手の甲で涙を拭うと、私は、キッと男を見上げた。彼は笑ったまま首を傾げたけれど、私はひるまずに急いで体を起こした。ズキリ、とお腹が痛んだけれど、堪えて男の下から這いだした。入ってきた方は男がいるから通れない。私はさっきまで頭を向けていた方に駆けだそうとした。
瞬間、ぐっと体全体が後ろに引かれて、布が少し裂けたような音がした。気がつくと背後から両腕が男に掴まれていて、彼の顔が私の顔のすぐ脇から覗いた。ぞっとして僅かに目をそちらへ向けると、赤黒い舌がべとりと私の耳をなぞった。
「や、やだぁっ!」
即座に体を揺すって、ありったけの力で男の腕をふりほどいた。反動で前に転んでしまって、頬を地面で擦ってしまう。砂の粒が痛く、泥の粘りが気色悪い。眉を顰めてそれらを我慢していると、目の前に何かが酷い勢いで降ってきたのが見えて目を剥いた。ビン、と微かに揺れたそれが少しの光りに鈍く冷たく煌めく。気まぐれで果物の皮を剥いていた親父がヘマをして指を真っ赤に染めていたのを不意に思い出す。ナイフ、だ。
私はぎこちなく振り返った。再び私に跨った男が急に、けたたましく笑い声を上げている。怯えている私がおかしかったんだろうか。そんなことを推し量る余裕も私にはなかった。ただこの男が、最近、親父や母さんにひとりで外をうろついちゃいけないと口酸っぱく言われ続けていた理由なのかもしれない、と血の気の引いた頭で思った。
やがて笑うのを止めた男が私の髪を引っ掴んで持ち上げた。痛い、と思わず日本語で叫んでも男は理解できないのかすっかり無視して、大きな両手で余すところなく私の体をまさぐっていく。逃げたかった。だけど膝のすぐ側で地面に突き立っているナイフが視界に入ると怯んでしまって結局何も出来ない。その内また私を地面に放った男は、ワンピースの裾をあのナイフで面白そうに何度か裂いて、それに飽きると私の足を掴んでそれを一気にたくし上げた。
' Let me go....'
懇願の声で私はそう呟いた。ひょっとしたら、もしかしたら、と一縷の希望に縋って、割り開かれる足元を見ないようにして訴えた一言に、男は優しげな顔で首を振った。
' I let you stop being a girl.'
言うと男はげらげらと笑いたてた。絶望した私の顔が楽しくて仕方ないのだ。散々そういう反応を見せられた私には嫌でも分かってしまう。この男は、悪魔だ。

最初に男のものを埋め込まれた瞬間は、頭まで突き抜けるような痛みに大声を上げてしまい、また男にお腹を殴られてしまった。だからその後はひたすら、どんなに痛くても唇を噛みしめて、口の中に血の味がしても声を出すのを我慢し続けた。とにかく乱暴に揺すられた。挿しこまれているところが熱くて、痛くて、涙がぼろぼろ出て、何度も気を失いそうになった。突き上げるたびにお腹の中全部が押し上げられているようだった。実際、何度か吐いた。俯くことは出来ないから、顔を横に向けて咳き込んで、口の中や喉に張り付くものを出す。ただでさえすえた臭いのするそこに、吐いた物の臭いまで混じると、もう鼻が痛くて余計涙が出た。そして唸った男が一回目の射精をしたのが薄れる意識の中で分かった。お腹の中がじんわり温かくなって、そのときは自分が何をされたのかよく分からなかった。男が言った「女の子をやめさせてあげる」という言葉と、この行為の意味を知ったのはずっと後だった。治療の一環だ、と引き合わされた私より十歳ほど年上の、お腹の大きな女の子に「あんたは出来ない体でよかったね」と感情の無い目で言われたときだ。
男はしばらく静かになった。ぼんやりとしていたけれど、私をじっと見つめているのが分かる。私はこれで終わってくれれば、と目を閉じて祈っていた。それでも無情に動き出した体に、また唇を噛みしめる。また痛くなる、と思ったからだった。
いっそ、痛いだけならよかったかもしれない。再び律動しだした男は先ほどと打って変わって穏やかで、私はうっすら閉じていた目を開けた。奇妙な感覚があった。雨と路地の冷たさで冷えていた体が、熱くなっている。お腹の辺りは相変わらず温かいのだけれど、痛みよりも強い何かが腰から背中を伝って上って来ていた。それが不思議で、ぼうっとしていた私はつい声が出てしまい、はっとして男を見た。殴られる、と思って体は固くなったけれど、意外にも男は私に笑いかけてきた。と言っても優しい笑顔なんかではもちろんなくて、何かすごい発見でもしたような、はつらつとして、それでいて狂気的な顔だ。そんな表情のまま、私にそのよく分からない感覚を与え続ける男は、本当に最悪だった。例え、そのときはその感覚の正体を知らなくたって、与えられてしまったものはもう、二度と消し去りようもないのだから。

――――――
ろすとばーじn…正直すまんかった。


[ 65/68 ]

*prev next#
[back]