64.よべない ひと


小さな頃、私は自分のことを男勝りに「俺」と言っていた。それはテニスを教えてくれる親父にいつもくっついてばかりだったせいもあるし、憧れる人が皆男の子ばかりだったせいもあると思う。それは例えば尊敬するテニスの選手だったり、ほんの少しの間だけ一緒に住んでいた兄だったりした。
けれどその最たるものであった人のせいで、私は「私」になっていった。
彼は強かった。大きかった。決して泣かなかったし、怒ってばかりだったけれど、どこか隠しきれない優しさも持っていた。
大好きだった。再会を約束して預けられた帽子は、毎日被って片時も離さなかったほどだ。
でもいつからだったか、母さんがこんなことを言って私の男勝りを諌めようとし始めた。
「そんなんじゃ弦ちゃんに嫌われちゃうわよ。」
最初は不思議で、どうして、と幾度も尋ねていた。その度に母さんはうやむやなことを言っていたように思う。しかしとうとうあるとき、観念したように教えてくれた。
男の子と本当に仲良くなれるのは、女の子だから。
彼と私が違うイキモノであることは、既に少しだけれど分かっていたことだった。でも私は彼と同じものじゃないことは良くないことだと勝手に考えていた。だって、彼よりも前に大好きだった人は、私が男の子だったらよかったのにと言っていたから。だから彼も、きっと私が男の子だったら、もっと仲良くしてくれるものだと思っていた。
でも母さんはそうじゃない、とはっきり言った。自分の姿を見下ろすと、泥まみれのTシャツといつも擦りむきっぱなしで絆創膏まみれの膝がいつも目に付いた。
近所の女の子たちはみんな、ピンク色のものを何かひとつは持っていて、お出かけするときはふわふわのスカートを揺らして、髪にきらりと光るものをつけて、にこにこしていた。そうすると、通りすがる誰からも、かわいいね、と言って微笑みかけられ、愛しそうに頭を撫でられたり抱き締められたりしていた。黒い格子の中からいつも遠目に見ていた光景を思い出すと、母さんの言葉は本当なんだ、と納得がいった。
その日から、私は「私」になろうと決めた。さすがにテニスをやめることは出来なくて、そのときだけは何も考えず、今までどおりに振る舞ったけれど、一度練習が終われば泥はきちんと落としてスカートをはいた。母さんは前より嬉しそうに笑うことが増えて、短い私の髪をどう結うか試行錯誤したり、新しい服を買ったり作ったりする回数がうんと増えた。
本当は、一日中テニスがしていたかった。庭を駆けまわったり、木登りをしたりして遊びたかった。けれど彼の名前を出されるとことごとくそういった楽しみを諦めることが出来てしまう。だって、嫌われたくない。会えない日がひと月、ふた月、一年、二年、と過ぎていく間も、この理由は揺らがなかった。思い出になっていく彼だけれど、色あせることもなく、常に私の心の中に居続けた。もし、また会えることがあったら、母さんの言った通りなら、「私」になった私をあの人は好きになってくれるだろうか。夜眠る前にそんなことを考えると、いつもドキドキして明日が待ち遠しくなった。明日は、もっと「私」になれる。かわいいよと言ってもらえる女の子に近づける。
だから、ついに彼がやってくることになった日、私は真っ白なワンピースを着た。母さんが一番似合うよ、と言ってくれた、まるで教会で一番綺麗な女の人が着るような服を着ることにした。

空港の高い高い天井はたくさんの声がこだましてよく響いた。それが無差別に聞こえて、何だか居心地が悪い。人が多い場所は慣れてなくて、あまり好きじゃない。7歳になって半年以上が過ぎたけれど、スクールもやっぱりそんなに好きじゃなかった。きゃあきゃあ甲高い声で喚かれると、いつだって頭が痛くなるのだ。
「ご無沙汰してます、お二人ともお元気そうで何よりです。」
でも聞こえた声は覚えていたものよりずっと低かった。落ち着いていて、よく通るきっぱりとした声の質でぐっと自分の緊張も高められる。私は気恥かしくなって母さんの後ろに張り付いたのだけれど、何が起こったのか親父も母さんもすぐに彼の両親の元へ走っていってしまって、私はぽつりと残される羽目になった。
少し離れたところに、彼がいた。そのときの驚きは今も鮮明に覚えている。いくつもの疑問が湧いたけれど、答えも理由も皆同じだ。ただひたすら何かを堪えようとして、私はワンピースの裾を握りしめていた。
こんなに背は高かっただろうか。こんなに肩幅は広かっただろうか。目は鋭かっただろうか。顔つきは厳しかっただろうか。首は太かっただろうか。これほど腕も脚も逞しかっただろうか。掌は、足は、こんなに大きかっただろうか。
あの頃と同じものと言えば、帽子のかぶり方くらいのものじゃなかっただろうか。相変わらず後ろ前逆に被る癖で見える額が唯一幼い。その下で少しずつ彼の表情が、何とも言えず苦しそうなものに変わりつつあったとき、不意に大きな声で親父や母さんが私を振り返って呼んだ。
「あー、そうそう、あれウチのリョーマ。相変わらずチビ。」
「ほら、アンタもちゃんと挨拶しなさい。」
魔法が弾けた気がして、急に頬の熱さが分かると、私は大慌てで母さんの腕に飛びついた。いつもの甘い匂いと温かい掌にほっとして、促されるままに彼の両親に挨拶をする。二人はそれほど変わっておらず、私は余計安心して少しだけ微笑んだのだと思う。すると、じっ、と物珍しそうに私を見ていた彼のお母さんが少し屈んでとても嬉しそうにこう言ってくれた。
「まあリョーマちゃん、すっかり可愛くなって。」
それはずっと言ってほしかった言葉だった。母さんが言う可愛い、は私には少し頼りなくて、いつも誰かから見て本当に可愛いのだろうかととても気にしていた。けれど、彼のお母さんはまるで羨ましがるような声音で言ってくれたのだ。私は急に自信が湧いてくるのを感じていた。報われたんだ。可愛いって言ってほしくて頑張った甲斐があったんだ。
するとすぐ隣で、彼が身じろぐような衣擦れの音がした。胸はドキドキ高鳴って苦しいけれど、今振り返ったらひょっとして彼も同じことを言ってくれるかもしれない。そうっと振り返ると、やっぱり彼も私を振り返ってくれた。途端に見開いた目がきついくらいの眼差しで私を捉えている。私を見てくれている。
言って、言って、お願い。
この日のために、あなたのために、私は女の子になったんだよ。

結局彼は何も言ってくれなかった。
ふい、とあっちを向いてしまって、それからは私と目も会わせようとしない。勿論ひどくがっかりした。項垂れて、でもそんな様子に誰も大して構わず、私たちは家へ移動するため車に乗り込んだ。バンの三列目に子ども二人で乗るように言われて、広い座席なのに、彼は窓に張り付くように左端へ詰めて座ってしまった。私もちょこんと右の座席に座りこんで、車が動き出すと彼の方の少し開いている窓から吹き込む風がぱたぱたと彼と私の前髪や服を揺らして遊ばせた。
膝の上に揃えて大人しく置いた拳をしばらく見つめた後、私はちらりと左に目をやった。彼は窓の辺りに肘をかけて極力外を見つめていた。窺える横顔はむすっとしていて、私は辛くなった。何か悪いことをしてしまっただろうか。可愛い、って、ただそれだけ言ってほしいだけなのに。
仕方なく、しばらくは彼の姿を横目にちらちらと見て時間をつぶした。さっきは驚くばかりだったけれど、本当に大きくなった体がただひたすら格好良く感じられた。また頬がじわじわ熱くなる中で、私は恥ずかしくもこう思った。
あの肩の手触りはどんなだろう。腕の力はどれくらい強いだろう。そしてきっと今も熱いだろうあの手はどれくらい大きくなっていて、それが私に触れてくれたらどんな気持ちになるだろう。想像するだけで込み上げるいろんな感情に涙が出そうになった。彼に触れたい、彼に触れてほしい。早く、あの会わなかった時間で成長したこの人を全身で感じたい。欲望が先走って、憧れがつんのめって、声がもれた。私は堪え切れなくて彼の名前を呼んでいた。
「ねえ…弦ちゃん…。」
猫撫で声っていうのかもしれない。甘ったれた、興奮の隠せていない声だ。自然と彼の方へ向かって両手を座席に突いて、私はそれに体重を預けて前のめるようにして彼を呼んだ。
同時に、久しぶりに自分で口にした彼の名前が、大切で、愛しくて、ため息がこぼれるように私は分かってしまった。
私はこの人が好きなんだ。彼が想像の内にしかいなかったこの四年間は憧れや妄想の気持ちに過ぎなかったかもしれない。けれど、今こうして彼を前にして、そんなものを凌駕するほどにこの人への溢れる気持ちが新しく生まれていた。幼心で憧れて、記憶の中の彼に想いを募らせて、再会して恋に落ちた。一々数えるならこれは三度目の恋で、そこまで来ると疑いようも抑えようもあるはずがない。好きって言って抱きついたら、怒られるかな。少しずつ体を寄せようと手に力を込めると、彼の肩がひくついたのが見えた。
何かをぼそり、と呟いた彼が、ぱっと振り返った。きょとんとしている私を、彼はギラギラした目で睨みつけてこう言った。
「弦ちゃんって…呼ぶな!」
噛みつくような一喝だった。それだけ言いきってしまうと、彼はふん、と鼻を鳴らして乱暴にまた窓の方を向いてしまう。私は最初訳が分からなくて、ぼうっと彼を見つめた。目の端で、彼の大声に驚いたらしい両親たちがこちらを振り返っているのが見えたが、それきり、しん、としてしまったのであまり気に止めなかったらしい。また彼らは前を向いてしまって、誰の目にも晒されなくなった私は鼻頭がつんとして急いで俯いた。泣いちゃいけない、と思った。泣くと彼はいつも、泣くな、と言って怒ったからだ。とにかく、これ以上怒らせたくない。どうして怒っているのか、昔よりもっと分からないけれどせめて泣いちゃいけない。くたりと頭を垂らして、ひくつく肩を抑えようとすると全身がぷるぷる震えた。出来ることなら今すぐシートに伏して、くしゅんくしゅん、と泣いてしまいたいけれどじっと堪える。
するとどうだろう。少しだけ想いが通じたのかも知れない。気まずそうな彼の声が頭に降りかかった。
「…お前、まだ、テニスやってるのか。」
はっとして顔を上げると、相変わらず窓の方に寄りかかっているけれど、腕を組んで、目だけは私に向けてくれている彼が見えた。無意識に首を縦に振ると、そうか、と言った彼がちょっと子どもっぽく唇を突きだす。私は乗り出していた体を引っ込めて座り直すと、目の端にたまっていた涙を掌でぐいぐいと拭って、彼の名前を呼ばないように気をつけて、恐る恐る声をかけてみた。
「あの、えっと、そっちもテニス、まだ、ちゃんとやってるの。」
「当たり前だ。馬鹿にしてるのか。」
勿論そんなつもりはない。必死に首を横へぶんぶん振ると頭がくらくらした。彼は呆れたようにまた窓の外を見つめ始めてしまう。誤解を解こうと思ったけれどもう遅い。私はちっとも彼の気にいるようなことが言えない自分の惨めさで、それ以上車中で口を利くことは出来ず、ぐったりとシートに背中を預けた。
私の手の中では、彼からの預かり物が、くしゃり、と握られていた。


――――――
おとめろりりょまHoo



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