63.She wished in exchange for her everything.


暑い。いよいよ我慢できなくなって南次郎は目を開けた。ちょいと首を伸ばすと縁側に横たわっている自分の体のすぐ側まで影が追い詰められている。陽が落ちてきたのだなあ、とぼんやり考えたものの暑いことに変わりはない。最初はここで気持ちよさそうに寝転がっている娘の愛猫を見つけて、そうか、そうか、そこが涼しいんだなニャン公め、とニヤニヤ笑って腰を下ろしたはずだった。ところが今やこの暑さ。汗は彼が来ている作務衣を一段重く感じさせるほどそれにしみ込んでいて、たった今気がついたが喉はからからだ。起き上がるのも億劫に感じるくらいだから、ひょっとしたら脱水症状手前かもしれない。
うっかり影にいるとずっと涼しいものだと思ってしまう辺り、向こうでの癖が抜けていないようだ。それに限らず、何においても南次郎はアメリカにいた頃の方が良かった、と思うことが多々ある。テニスも女も、特に娘とかいうとても特殊な女については殊更そう思うのだ。ああ、暑い。
たまらず顔を顰めたときだった。どこからか、ふうっ、と涼しい風が南次郎の全身を撫でた。仰向けになったまま、顔を家の中へと向ければくるくると扇風機が首振りしていた。
「南次郎、あなた日干しになるわよ。」
そしてその脇にそっと膝をついてのは倫子だった。家の中だから気を抜いているのか、昔のワンピースを着ていて相変わらずこの女は大事なところで色気がないもんだ、と南次郎は苦笑した。
「何笑ってるのよ、ほら、麦茶。」
「おう。気が利くねえ倫子ちゃ〜ん。」
露を垂らすコップを差し出されると気力が湧いて南次郎は体を動かして腹這いになった。そして倫子がいる方へ這いずって行くと畳みの上は少しひんやりとしていて心地いいことに気がつく。日本家屋というものにちょっと感心してから、ぐっ、とコップを乾すと氷でキンキンに冷えたそれが頭を気持ちよく痛ませ、四肢にまで水分が行き渡った爽快感を噛みしめた。
「あ〜、日本の夏だねえ〜!」
そう叫んでけらけら笑いながら彼はまた仰向けにどさっと寝転がった。そして狙い澄ましたように膝の上にぼんっと落ちた亭主の頭を見て、倫子もつい、小言より笑いがこみあげてしまう。
「あなたねえ…もう…。」
ジワジワという蝉の声を薄暗く、静かで、ほどよく涼しい部屋の中から聞いている今、感情の起伏は決して激しくならないのだ。微かな苦笑もすぐに霧散して、倫子はぼうっと目前の開け放された窓の外を見ていた。今頃娘のリョーマはこの炎天下で、テニスでもして少しは気分を晴らせているだろうか。やはり感情は穏やかなままで、倫子はうわごとのようにぼんやりとした声で夫に尋ねた。
「ねえ、南次郎。いつまでリョーマと弦ちゃんのこと放っておく気?」
南次郎はいつの間にか目を閉じていた。しかし眠ってはいない。瞼の瞳は動かず大人しい。それから鼻ですうっと息を吸い込んだ彼は、膨らんだ胸をゆっくり元に戻しながら、倫子の思った通り、目を開けた。
「正直言うとずーっとこのまんまがいいデスヨ。面倒くせーもん。」
「あなたサイアク。」
ずばり言われて南次郎はからから笑った。こういう反応がリョーマとそっくりで、倫子はリョーマの母親なのだと実感するし、リョーマも倫子に似ているのだ、と思うとやはりあの娘を可愛がらずにはいられないのだと痛感するのだ。
だから放っておきたい、というのが父親としての拗ねた本音だが、もっと大切な理由は、この五年胸の内に仕舞いこんだままだ。
しかしそれももう限界だと感じている。むしろ五年もよくもったと言うべきではないだろうか。この秘密を抱いたときに感じた絶望感とか疎外感とかいった辛くてたまらない気持ちの数々を、自分は五年も引きずっていたのだ。いい加減疲れたし、あの子には話すべき時が来たと思う。それに今日は倫子の機嫌が悪くないから彼女にも相談相手になってもらおう。そうしなければ、まったく何のための伴侶なのかとこの女にこてんぱんに怒られそうだ。

なあ、倫子。お前から見たら俺はさぞかしちゃらんぽらんでこんなことしてるように見えるんだろうけどな、ちゃーんと理由があるんだぜ。ほんとほんと、おいおいその疑ってますよーな目はやめなさいよ。いや、本当にな、真面目な話なんだって。ずっとお前にも言えなかったことがあんだよ。怒んなって。うん、怒らないで聞いてくれよ。だってよ、言えなかったんだ。

俺達の、たったひとりの娘の人生かけた「お願い」だったんだから。

――――――

ふたたび回想(リョーマ視点)に行きます。なげえ。


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