62.I'm afraid to know my true self.


白日の下で初めて間近に見たその人は息を呑むほど美しかった。肩に羽織っていたジャージが突然風に煽られたので押さえる、その挙動ひとつからさえも物腰の柔らかさが窺える。彼女の美しさが女性として完璧なものなのだと強く思われた。それは今やある種の迫力となっていて、気圧されそうになってたじろいだリョーマは、そこで背中にカタカタ震えているものが張り付いていることに気がついた。肩越しに見やると、真っ赤な頭のつむじが捉えられる。
「…なに、してんの。」
辛うじて出た声でリョーマは尋ねたが、何故だかリョーマの背後ですっかり縮こまっている金太郎は息すら押し殺しているようであった。金太郎のことはそう多くは知らないが、凡そ彼女らしい姿とは思われない。そんな様をリョーマがしばらく見守っていると、目前の圧力がより迫ったように感じられた。前を向くと、幸村が相当近くに寄ってきており、リョーマはぎょっとしたが、幸村自身はむしろ好奇心にあふれた、先ほどよりいくらかあどけない顔でリョーマの背後を覗き込んでいた。するとリョーマの背から、ひっ、という悲鳴が上がり、急にもがいた金太郎はぎゅっとリョーマのジャージを握りしめて、それに顔を押し付けると掠れた声で叫んだ。
「い、いやや!このねーちゃん…こわい…!」
くぐもった恐怖を訴える一言に、ええっ、と素っ頓狂な声を上げたリョーマは改めて愉快そうに自分の背後の少女をためつすがめつする幸村を訝しく見つめた。そして幸村はと言うと、リョーマの後ろにいた子どもが誰であるか気づいたらしく、ああ、と言って頷くと合点のいった様子で屈めていた身を起こして笑った。
「誰かと思ったら遠山さんじゃないか。どうしたの、さっきはあんなに元気いっぱいだったのに。」
ふふ、と口元に手をやって優雅に微笑む姿は一見穏やかだが、リョーマはもう背中からたっぷりと金太郎の怯え具合を知らされたのでいっそそれを不気味に思った。震え続ける金太郎を庇うように改めて幸村に向き合ったリョーマは、おずおずと、しかし、しっかりとした声音で彼女に声をかけた。
「あの、幸村さん、は遠山のこと知ってるんスか?」
「ああ、もちろん。だってついさっき女子シングルスの準決勝を戦った相手だからね。」
私が勝ったけど、と事もなげに言って襟足の髪をさらりと払った様には貫禄があった。幸村の実力のほどをリョーマは詳しく知らないが、立海三強の中でも最も強い、とどこかで聞いた気がするし、金太郎の強さは先ほどリョーマも味わったばかりである。金太郎はプレイスタイルこそ無茶苦茶であるが、リョーマと互角の実力者には違いない。ところがそんな金太郎を前にして悠然と自分が勝利したことを言ってのけたことは、彼女がどれほど圧倒的に金太郎を叩きのめして勝利したかを物語っていた。金太郎のように傍若無人な少女がこれほど特定の人物を恐れていることも、リョーマの推測を裏付けするだろう。自然と喉が渇いて唾を呑みこむ。ごくり、という音が妙に大きかったようで、それが聞こえたのかどうかは定かではないが、幸村は伏せていた目を、すっ、と上げて再びリョーマを重く見下ろした。ドキリ、としてリョーマが再び、幸村さん、と呼びかけると、呼ばれた彼女は深い笑みを口元で刻んだ。
「やっぱり、私のこと知ってるんだね。」
「え、それは、まあ……。」
「私も知ってるよ、お譲ちゃんのこと。よく聞いてる。」
今度は、ギクリ、としてリョーマは身を強張らせた。何故ならば今、二人の間に暗黙で、共通の認識の現れたのが明らかであるからだ。つまり、幸村の一言は言わずとも、お互いのことを伝え聞かせた誰かの存在を示唆しているのだ。出来ることなら幸村の強い視線から目を背けたかったが、背中に張り付く金太郎の存在がリョーマにさっき奮い起したばかりの勇気を思い出させ続けていた。分かっている、元々自分はこの人を探して駆けずりまわっていたのだから。そう自分に言い聞かせて、リョーマは毅然と顔を上げ続けた。
それをやはりどこか愉快そうに見つめ、幸村は相変わらず口ばかりで美しい弧を描いていた。今日の日程がほとんど終わっているアリーナの森テニスコートは、観覧客の足も遠のき始め、白昼独特の現実感がない空気に包まれている。木々は風によってのみざわめき、蝉の声はひっきりなしで、空は音ひとつたてず雲を風下へ流し続ける。全部が世界の条理に従っていて、時は刻々と過ぎているはずなのに、リョーマと相対するこの空間だけはそういったものたちからよそよそしい。辺りは閑散としていたのだ。人っ子一人見当たらず、道は明るく、越前リョーマの姿形がこれ以上ないというほどはっきりと幸村の目に映った。
遠目で見たよりずっと可愛らしい、いや、もう美しくなりつつある少女だ。言葉づかいや挙動など、まだ粗削りで少年っぽいところが強いけれども、きっとあと数年すれば見違えるほどになるだろう。暑気で紅色の差した頬が鮮やかで、帽子の前唾の影に潜む目はとても大きい。それはあどけなさのためでもあるし、上瞼の淵に隙間なく生えそろった睫毛のせいでもある。目つきも眉も勝気で、煌めく薄茶の瞳は強い意志をギラギラとそこに宿している。
久しく自分はそんな目をしていない気がして、幸村はつい眉根を寄せた。彼は、ひょっとしたらこういう目をする子の方が好きなのだろうか。自分はあまりに縋ろうとしすぎていたのだろうか。
「……何?」
少し不機嫌そうなリョーマの声で、幸村は、はっ、と我に返った。やはり強い瞳が何も言わずただリョーマを見つめるばかりの幸村を鬱陶しそうに睨んでいた。ほんの僅かな間呆然とした後、幸村はやや皮肉めいた笑顔を浮かべて口を開いた。
「何も。お譲ちゃんこそ、少し目が赤いね。ひょっとして泣いていたのかい?」
言われた途端、目を見開いたリョーマに、所詮子どもだな、と幸村は優越した気分を覚えた。確かに幸村自身、弱いところはある。けれどそれはリョーマにも言えることで、彼女だって大いに彼に縋っているのだ。今も、そして、昔も。
「別に、ていうかアンタに関係ないじゃん。」
リョーマはすぐに不貞腐れた表情になって冷たく言い返した。それを受けて幸村は苦笑する。
「怖いもの知らずだね。私はてっきり君が寂しくて泣いてたのかと思ったよ。」
「誰が、何で。」
間髪いれずぶすっとした声が幸村の挑発を跳ね返そうとする。単純で、心がむき出しの言い草に幸村の中の嗜虐心だとか嫉妬心だとかが強くくすぐられる。何やら早まっている感もあったものの、結局もう我慢ができない幸村はこれまでの形成を覆すつもりで、少し強い声を出した。
「だってあれから真田と連絡も取ってないだろう?」
さっき適当な言葉を吐き捨てたはずのリョーマが、氷漬けにされたように硬くなって、あの大きな瞳を力いっぱい見開いたのが見えた。
言った。言ってやった。案の定、リョーマが動揺したのは手に取るように分かって、幸村は堪え切れない笑みを隠そうと自分の右の頬にうっとりと掌を当てて、唇半分とそこを覆った。
リョーマは両手の拳をぶるぶると震わせながら握りしめていた。肩が怒りやら何やらでひくつきそうなのを堪えるためで、息をするのも何かを零してしまいそうで憚られた。沈黙の時間があった。うかつに何かをしては取って食われてしまいそうな感覚がまとわりついて気持ち悪い。幸村という人間を感じるとき、いつもこの感覚があった。全国大会の初戦で視線を交えたときから分かっていたことだが、改めて彼女を目の前にするとその怨嗟の丈が生々しく知れた。
この人は自分を憎んでいる。
誰かが愛しい分、それを優るほどの憎しみを全てリョーマにぶつけている。
それは恐ろしいことだったが、リョーマにも身に覚えがないわけではない。むしろリョーマも同じ気持ちを彼女に対して少なからず持っているのだ。
それでも彼女の気持ちに負けそうで、手は震えた。何故だろう。それは分からない。ただ、憎いとか、恨めしいとか、それよりもはるかにリョーマを包む幸村への気持ちは、もっと切なく、弱弱しい。
だから、前も今も、リョーマは彼女を前にすると逃げたくなってしまう。いつもはいらないほど溢れてくる自信が、幸村の前だと、彼のことになると、砂上の楼閣のように脆く、儚くも消え去ってしまう。それは止めようもないことだとずっと思っていた。
「コシマエ……。」
それがどうだろう。同じく弱弱しいながらに、今日は押しとどめる役割をする子がリョーマの背にまだ張り付いているのだ。少しだけ後ろを振り返ると、金太郎が青い顔をしていたが、未だにそこにいた。相変わらずリョーマのジャージをぎゅっと握りしめ、唇をきゅっと真横に結んでいる。目はちりちりと火を灯していて、リョーマは何だか呆れてしまって、ほっと息をつくことが出来た。ビビっているくせに、金太郎は精一杯リョーマを応援していた。負けるな、とぷるぷる震えるふたつの拳がリョーマの背を支えている。
それを馬鹿みたい、と思ったが、そう思うとやたらと落ち着きがリョーマには戻っていた。そしてセンターコートの客席でかわした金太郎との会話がまざまざと蘇るのだ。泣きながら、自分の弱さを噛みしめながら、それでも意地になって誓っていた。
誰にも彼を、真田弦一郎を渡したくない!
それは今や唯一の寄る辺で、リョーマを戦場に踏みとどまらせる最後の砦だ。それを今日会ったばかりのよく知らない少女に思いださされるとは意外だが、人の縁なんて案外そんなものなのかもしれない。小難しいことはよく理解できないが、運命などという胡散臭い言葉にでもして今は片づけておけばいいことだ。
リョーマは金太郎に微笑みかけた。ぎこちないし、固い笑みだったが、確かに笑ってみせた。すると金太郎がきょとんとして、彼女もたどたどしく笑い返してくれた。それは真っ直ぐで、白石蔵ノ介のことを話してくれたときの笑顔に通ずるものがあった。少し、羨ましい。
居直る、とまではいかなかったが、リョーマはとうとう、再び幸村の顔を見上げることが出来た。幸村は最早隠すこともない冷笑で待ち構えていて、リョーマは竦んだが逃げるつもりだけはない。未知の恐怖、生まれて初めての恋敵は強大だけれど、逃げてしまえば彼女はきっと彼を自分のものにしてしまうだろう。立ち姿にそういう気概があるのだ。
そしてそれだけは絶対に見過ごせない。彼は、彼だけは、代わりなどいないのだから。
「幸、村さんも、弦一郎さんが好き、なんでしょ…?」
つっかえながら何とか伝えたのは、謂わばリョーマからの宣戦布告であった。こんなことはもう聞くまでもないのだが、一方的に何かを言われ続けていてはリョーマの心が堪えかねるし、癪でもある。出来ればもっと堂々と言いたいのだが、この際形振り構っていられないのだ。
幸村はそのようなリョーマの幼い抵抗を愛しく感じ、甘さのない透き通ったありったけの愛情と憎悪で答えた。
「そうだよ、私は真田が好き。ずっと、誰よりもね。」
「俺だって!」
幸村の言い方に慌てて、キッ、と眼差しをきつくさせるとリョーマは叫んだ。こんな愛情に強弱も大小も、ましてや優劣もありはしないはずなのに、張りあう気持ちは一人前に飛び出していた。余裕がない分、リョーマは自分の気持ちの方が弱いような気が一瞬したものの、ふつふつと対抗心と怒りは湧き始めていた。おかげで幾分ひ怯むことも淀むこともなく言葉を繋ぐことが出来た。
「…俺だって、弦一郎さんのことが好きだよ。初めてなんだ、こんな風に、好きで好きでしょうがなくって、どうしようもなくなっちゃう人なんて…。俺、昔色々あって、辛くって、ひとりじゃきっと我慢できなかった。誰かの前で泣くことも、いつの間にか出来なくなってて、だけど、弦一郎さんだけは違うんだ。あの人とならずっと一緒にいられる。辛くても、俺が嫌でも、側にいてくれる。泣くことさえ出来る。あの人だけなんだ、俺には、あの人だけ、だから……。」
リョーマの紡ぐ、甘くてあやふやな気持ちの語りを、幸村は片腹痛く聞き流していた。一々の理由が癪に障り、一呼吸置く度に張り飛ばしてやりたい衝動に駆られた。それを辛くも堪え、とうとうリョーマが何事か幸村に言い放とうとしたとき、幸村は盛大に息を吐いてリョーマの言葉を遮った。
「だから、何?それって、大層に言ったところで片思いじゃないか。」
素気無い感想にリョーマは必死に首を振った。
「違う!だって弦一郎さんも俺のこと……。」
「じゃあ、何で私は彼に抱きしめられたの?」
あ、とリョーマが声をもらして青ざめた。やはりあの夜、駅から弦一郎と幸村のことを見ていたのはリョーマであった、とその反応だけで確信した幸村は、はっ、と嘲笑をひとつ零した。
「ご覧、さっき言っただろう。あれから真田が君に何か言った?まだ想われてるって信じてるの?そんなの分からないじゃないか。人の気持ちなんていつ変わってしまうか分からないものだよ。それを馬鹿みたいに、まるで絶対の真実みたいに、べらべら捲し立てて……、ねえ、あのとき真田がどんなだったか分かる?教えてあげようか?」
残酷に笑った幸村の眼前で、リョーマは目の端を真っ赤にして涙を堪えていた。形のいい唇はきつく結ばれて見る影もなく、愚図って泣きだす寸前の子どもの顔をしていた。それでもリョーマは幸村にとって子どもではなくて、ただの女だ。容赦するつもりは毛頭なくて、勝利の予感を感じた幸村は官能的な溜息と共に言及した。
「彼、泣いてたんだよ。私に縋りながら。」
「やめてっ!」
ふっ、と目の前の温もりが遠のいて、金太郎が驚いて最初に目に映したのは幸村の体に飛びついて、掴んだ彼女の腕を揺すぶるリョーマの背中だった。
「そんなの、聞きたくない!アンタ最低だ!どうして…あたしを……。」
どんなに糾弾しても、少しも揺るがない幸村に屈したように、リョーマががっくりとうなだれた。それを見下ろすこともなく、幸村は流し眼で何も見てはいない。それは全てを拒絶しているかのようで、また内の何かを護るために外界の全てを遮断しているようでもあった。けれど二人はどこか似通ってもいるから、全てを弾くことも防ぐこともやはり出来ない。時々喘ぐ声をもらしていたリョーマが、絞り出すように最後の訴えを口にした。
「お、願い、だから……俺から、あの人を取らないで…っ。」
刹那、金太郎の目には様々なものが捉えられた。激昂で見開かれた幸村の瞳、自分に向かって飛んでくるリョーマの小さな背中、振り上げられた幸村の腕、勢いでふありと宙に浮いた真っ白な帽子。
どさっ、とかなりの重みを受け止めた金太郎は、何が起こったのか瞬時には理解出来なかった。ただ腕の中で唸るリョーマと、先ほどまでとは打って変わって息を荒げている幸村の不自然な姿勢に、だんだんとリョーマが力いっぱい彼女に突き飛ばされたことが分かった。何をするんだ、とそういう抗議のようなものが言いたかったのだが、金太郎が声を発するより早く、幸村は金太郎の腕の中にいたリョーマの肩を掴んで奪ってしまう。そして乱暴に彼女の細い体を揺すっては甲高い声で怒号と罵倒を繰り返し始めたのだ。
「…よくも、よくもそんなことが言えたものだね!それはこっちの台詞だよ、お前こそ、お前こそ私からアイツを奪ったくせに!返せ!返してよ!私だって、私だってあの人だけがたった一人の希望だったんだ!死ぬかもしれない恐怖で辛くて、苦しくて、夢も希望もなくなった気がして、こんなままじゃいっそ生きたくないとすら思ったよ、だけど、アイツだけはそんなこと許さなかった。元気になれって、ずっと待ってる、側にいるから頑張れって、同じこと何回も何回も私に言って…。馬鹿みたいだけど嘘じゃなかった。こんな弱い私を誰よりも信じてくれた。ずっと好きだった…でももっと好きになった!この人がいてくれるなら、生きたいって、生きて、生きて、生き抜いたら、ずっと一緒に生きていきたいって、心の底から思った…。だから頑張れたのに、愛してたのに!どうしてだよ!何でお前みたいなのが出てくるんだよ!私の方が、絶対、アイツを不幸にしない!私とお前は違うんだから…お前なんか、お前なんか…。」
ガクガク、と好き勝手に全身を揺さぶられて、リョーマはぶれる視界と揺れる頭に意識も途絶えそうになりながら、それでも、やめて、と幾度も叫んで僅かに抵抗していた。そしてその抵抗の手が俄かに幸村の頬を掠めて叩くと、逆上した彼女はリョーマの前髪を掴んで出来る限り顔を寄せると、痛がる少女にこう吐き捨てた。


裏 切 り 者 の く せ に ! !


リョーマは首を傾げた。
髪を掴まれている痛みはとうに消えうせていて、目の前には誰もいない。真昼の太陽は燦燦と降り注ぐいつもの光を保ちながらも熱を持っていない。動いていないのだ、と気付いたとき、周りの全てがそうであることに驚いてリョーマは慌てて後ろを振り返った。背中に張り付いていた遠山金太郎もいなかった。誰もいない。これは世界の静寂だ。
ぶるり、と背中が震えて、リョーマは自分の肩を抱いた。それは以前も感じたことのある悪寒だったが、この明るい道端ではあの日宵闇と雨に紛れて見えなかったものはきっと姿を現すだろう、とすぐに恐怖を覚えてしまう。そんなのは嫌だ!目を瞑って、耳を塞いで、しゃがみ込むとリョーマはただ心の中で叫んだ。動け!時間など流れてしまえ!全ては時の奔流に呑まれて見えなくなるものなのだから!それで、いいのだから。

「うそつき」

手の甲に触れたのは小さな、冷たい手だった。幼い指先なのに、それは上手にリョーマの手を耳元からゆっくりと引きはがし、それから頬に触れると彼女の顔を上向けた。その手の主を見て、リョーマは一気に瞳を潤ませるとくしゃりと顔を悲しく歪めた。
「お願い…もう、やめて。あたしを放っておいてよ…!」
そう言ってしがみついた目前の幼子はひどい格好をしていた。
短い髪は泥で汚れ、ぐしゃぐしゃに乱れている。頬には所々擦り傷があった。そして身につけている白いワンピースは背中は泥にまみれ、裾は破れ、血と白濁とした体液で斑に模様が出来ていた。何よりリョーマが目を伏せたかったのは、先ほど触れた彼女の手だ。
少女の手は血に濡れているのだ。
小さな肩を掴んだまま、リョーマは俯いて、やめて、やめて、と何度も繰り返す。それを冷静に聞いていた少女は、顔色ひとつ変えないが、どこか呆れたような声で呟きながら、目の前にあるリョーマの頭にそっとキスをした。

「でも、こわいわけじゃないでしょ」

「いやっ!怖いよ!」

「こわくないよ、ちがうでしょ、もう。あたしはこわいんじゃなくて」

恥ずかしいの。
そう、恥ずかしかったの。彼を信じ切れなかった自分が。彼の優しさを疑ったことが。
あの人はいつだった最後はあたしのために最善を尽くしてくれたのに、どうしてだろう。彼を愛しく思うほど、どんどんあたしは疑り深くなっていくの。ほんのちょっとの素っ気なさで、世界の端っこが脆くも欠けて、散ってしまう音すら聞こえた。
そんなのって馬鹿みたいで、大げさでだ。分かってる。
けど信じてることを辛くさせるには十分だった。だから試したかった。本当にあの人があたしを思ってくれているか、あたしの中の幻影が今も変わらずにいるか。そうじゃないと恋なんてやってられない。
夢見るような気持ちで駆けだした。あの綺麗で、優しい箱庭から逃げ出して、気がついたらあたしは愛してもらえる自信を失ってた。頑張って手に入れたものは全部ぐちゃぐちゃに壊されていて、あれ以上惨めなことってない。
でも、いつだったか絶望の底には希望が残ってるものだって教わった。あたしが拒んでも照らすことをやめない強い光が、たったひとつ残されたあたしの最後の希望、恋した幻影。やっぱりあの人は変わってなかったの!
嬉しかった。そして後悔も押し寄せたけれど、それよりも早く今度は彼が暗がりに飛び込んだ。あたしを助けようとしてる。でもそれはあまりにも危険で、光が消えてしまうと思った。あたしがあたしを捧げようとした、たったひとりの人が、覆いかぶさるような暗闇に掻き消されてしまう。それだけは許せない、絶対に。だから。

「ねえ…やっぱり怖いよ。」
こう呟いたリョーマはすっかり様子が変わっていた。肩を離されて幸村は、ほっ、と息をついたが、相変わらずリョーマのうわごとは続いている。先ほど糾弾されたときから、リョーマは焦点の合わない目で激しく取り乱し、怖い、と叫ぶとその後はずっと俯いてぶつぶつと何事かを囁き続けていた。それは何故だか懐かしい歌のように滑らかに、儚く、優しく紡がれて、傍で聞いている幸村も金太郎も、訳が分からないのに胸が締め付けられるようなものだった。
そして今リョーマはやっと顔を上げ、急に掴みかかった幸村を解放して再び、怖い、と漏らす。恐る恐るリョーマの隣に回り込んだ金太郎は、ぱたぱた、と掌をリョーマの目の前に翳すとそれを軽く振った。
「コシマエー…?」
どうやらリョーマは金太郎の呼びかけに反応した。ゆっくりと自分を覗き込む金太郎の方へ首を傾けたリョーマに、一瞬笑顔になりかけた金太郎だったが、彼女はすぐさま唇をぎゅっと引き締めてしまった。彼女独特の野生の勘が、まだリョーマが正気に返ってないことを告げたのである。案の定、うっすら微笑んだリョーマは相変わらず何物もその瞳に捉えてなどいなかった。
「分かったよ、あたし、怖かったんだ。自分が、好きだから、愛してるから、守りたいからって、何だって出来ちゃう自分が怖かったんだよ。そうだね、アンタじゃ分かんなかったね。小さかったから、だから余計怖かったんだよ。あたしの中の、何だか分かんない大きくて強くて、優しくて激しいものが、内側からあたしを食い破るんじゃないかって、怖かったんだ。ねえ、あんな獣みたいなものこのへんに抱えてたら、どうなっちゃうか分かんなかったよね。それはあたしだけじゃなくって、あの人も。そう、だからまだ守りたかったの。あたしたち、」

早すぎたんだね。

視界は急に晴れた。微笑んでまだふくよかな三日月のように微笑んだリョーマの両方の瞳が、目の前の赤い髪の女の子からすっと視点を上げて綺麗な人の肩の向こうを見た。曲がり角から飛び出してきた大きな影が、膝に手をついて荒く呼吸を繰り返す。思い返すといつもあの人を走らせてばかりのような気がして、ちょっとだけ申し訳ない気分に浸る。やがて、ぐっ、と力を込めて体を起こした彼が導かれるようにこちらを向いて、彼女の名前をその口で小さく象った。出来ることなら今すぐ迎えてあげたい。たくさんのことを話して、抱きしめて、改めて彼の本当の気持ちを聞きたい。そのとき幻影を掴むことが出来たら、もう追いかけなくなってもよくなったら、この恋はひとつ昇華するのだ。
でも今は、ひどく眠い。

リョーマの膝が片方、かくり、と抜けたのを金太郎はいち早く察知した。即座に崩れ落ちる小さな体躯に飛びかかると、金太郎は彼女の腕の下に手を差し入れて、倒れてしまわないように自分に体重を預けさせた。しかし、がくり、と首をのけぞらせたリョーマは少しも身じろぐ気配がない。
「えち、ぜん?えちぜん……なあっ、えちぜん!」
途端に取り乱した金太郎はリョーマの体を揺さぶるが、だらり、と垂れた腕はされるがままに揺れるばかりだった。すっかり気が動転した金太郎の膝からも力が抜けそうになったとき、彼女もろとも誰かの大きな腕が少女たちをしっかりと支えた。体に降り注いだ優しい黒い影を金太郎がそっと見上げると、それは大きな男だった。自身の影で暗く、見えにくい顔は、それでも視力の良い金太郎には十分どのようなものか判断がつく。とても、焦って、一途に、大切な人を見る男の顔だ。
「リョーマ!しっかりしろ、リョーマ!」
金太郎が一人で立てそうだと判断するや否や、リョーマだけを抱き上げた男は驚くほど大きな声で必死に彼女の名前を呼び続けた。体格の大きな彼はリョーマなど羽のように軽く持ち上げてしまって、厳めしい顔とどっしりと低い声にきっと怒ったらすごく怖い人なのだろう、と思われた。そして金太郎が対戦したあの女の人と同じ柄のユニフォーム。さすがに対戦した相手の学校の名前くらいは金太郎でも覚えているので、なるほど、この人がそうなのか、と納得できた。すると金太郎に冷静さが戻る。この人がいればリョーマは大丈夫だ、と確信したためだった。
「うちが青学の人呼んできたるわ!」
そう言って金太郎は少し元気を取り戻して駆けだていった。そしてその振り返りざまには、視界の端であの強くて美しい女の人が捉えられた。彼女はリョーマを抱えるあの大男の後ろでさっきから何も言わず、ただただその綺麗な顔には似つかわしくない顰め面を続けている。金太郎を一瞬で打ち負かしたときの、あの冷徹な微笑はどこにもない。しかし逆に金太郎としてはほっとしたのだ。あの人もちゃんと人間なんだなあ、と走りながら少し笑ってしまった。


――――――
金ちゃんが一番達観しているというまさかの事態。


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