61.The younger we are, the more complexing our feeling of love is.


アリーナの森テニスコートの敷地内を今、大手を振って駆け抜ける少女と、完全に彼女に引きずられている少女がいた。
ひとりは赤い髪とぱっちりと丸く開いて釣り上った大きな瞳を持っていて、四天宝寺中のジャージを羽織っている。もうひとりは白い帽子の下に、時折緑がかって光る黒髪と、今は迷惑そうに細めているが元は大きいだろうこちらも釣り上った瞳の印象的な子で、ジャージは青春学園のものを身に着けていた。
風と見紛うばかりに走り抜けていく二人を、会場内を歩く人々の多くが目撃していた。それほど縦横無尽にあちこち巡った二人であったが、唐突に足へブレーキをかけた赤髪の少女、遠山金太郎が反動で背中にぶつかったもう一人の少女、越前リョーマをものともせず、くるりと振り返って、にかっ、と笑った。
「なあコシマエ。そう言えばコシマエのケンカ相手って誰?」
やっと立ち止まった機を逃すまい、とリョーマは肺に空気を必死に送った。そんなはずはないと思うが、金太郎の走る速度は、体感としてはマッハを思わせるものであった。当然それほどのスピードでは呼吸すらままならない。そういう訳でしばらくは金太郎の質問に答えることも出来ず、ひたすらリョーマは、ぜえはあ、と息を吸って吐いた。一方金太郎はリョーマの様子をじっと見ていた。それは質問の答えを待っているからでもあるし、またまじまじとリョーマの姿を目に焼き付けたいと思ったからでもあった。
元々金太郎が伝え聞かされた越前リョーマの容姿は、実物とは似ても似つかないものだった。四天宝寺中テニス部の部員である忍足謙也は、従兄弟である氷帝学園の忍足侑士に聞かされたままをほぼ正確に言ったのだが、金太郎の激しい記憶違いではその正確さも泣き寝入りするより他ない。つまり、いつの間にやら金太郎の中で越前リョーマは、やれ身の丈何メートルだの、三つ目だの、指から毒素を出すだの、と最早人間ですらない人物と化していたのだ。
ところが一転、実際に見た越前リョーマはとても小さかった。それが第一印象で、今こうしてゆっくり拝ませてもらうとやはり女としては少し嫉妬したくなるほど良い容姿をしていた。きっと幼い頃もひどく可愛らしかったのだろう、とまで思いが馳せられて、金太郎はさらにもっとリョーマを観察しようとしゃがみかけた。そこでリョーマがやっと前かがみだった体を起して、ふう、と息をつく。
「ったく……遅いっての。」
「お、コシマエふっかつー。」
「アンタさあ、普通相手くらい先に確認しない?」
「ええやん、ひょっとしたら走っとる内にばったりするかもしれんやろ。」
「するわけないじゃん。」
やれやれ、と呆れた様子で呟いて、リョーマは帽子を脱いだ。少々熱気のこもっていたところが解放されて、髪をすり抜ける風が涼しい。自分とはまた違った髪質の癖っ毛が物珍しく、金太郎は髪を梳くリョーマの仕草をまたじっくり眺めた。やがてその視線に気づいたリョーマは、訝しむような眼差しを金太郎に向けると、ぶすっとして腰に手を当てた。
「何、ケンカ相手より俺に文句でもあんの?」
「え、ちゃうて。そうや、ケンカ相手や!どこのドイツ人やそいつ!」
金太郎のお約束の台詞に、さらにリョーマは顔をしかめたが、これ以上取り合う気もなかった。そこで、はあ、と苛立たしそうなため息を一度吐くと、気だるく彼女の名前を口にした。

「こんにちは、お譲ちゃん。」
今まで歩いてきた道より、そこかしこで鳴く蝉の声が一層やかましくなった気がした。否、実際はその逆で、この場が静まり返ったからである。もう自分の歩く音すらせず、それは立ち止まっているからで、さらに幸村の周りには目の前の二人の少女以外誰もいなかった。そのたった二人ですら、声をかけられたことにひどく驚いたのか、目を見開いたまますっかりと固まっていた。
初めて声をかけたのは気まぐれではなかった。氷帝学園の跡部景吾に自分の姦計や性質を謗られた上、彼の越前リョーマに対する想いに圧倒されたことで、いよいよ幸村は追い詰められたという不安を募らせていた。跡部景吾の存在だけであれば、本来は恐るるに足らないのだが、彼が真田弦一郎の心中すら何か見透かしている風なのにはとことん参ってしまったのだ。
生来、弦一郎は表も裏もない男で、その思考や心境を読み取ることは幸村とって昔から容易いことであった。けれどたまに良く分からない、と感じるときもあった。それはお互い年齢を重ねるほどに回数を増し、ここ最近では頻繁と言ってもよいほどになっていた。それが性別と性質がもたらす思考回路の差異であることはとっくに気が付いていた。けれども景吾の弦一郎に対する共感が、はっきり言葉にはしなかったものの、弦一郎は幸村の思う通りにはならないのだ、という現実をつきつけてきたことは最早明白であった。
思い返すだけで腸は煮えくりかえった。跡部景吾はテニスの技術こそ卓越しているが、その上で相手の弱点をつくことに長けている選手だ。それは言いかえれば彼の性格そのもので、幸村が言われて一番嫌な、耳を塞ぎたくなることを、あえて指摘したのに違いないのだ。全くもって嫌な男だ!
けれど彼の諫言にも意味がなかったわけではない。幸村はやっとある必要性に気付いていた。今の状況では決定打が足りない。弦一郎がどういうわけかリョーマへの想いを揺らがせている今、彼を手懐けて置くことは簡単だったが、完全に主導権を得たほどではなかった。どうしても邪魔なものがある。それはもう包み隠しようもなく幸村の中で明らかになっていた。
越前リョーマの存在。弦一郎へ想いを寄せている彼女の存在が、どうしても弦一郎を幸村の手の中にとどめてくれない。
弦一郎があの夏祭りの夜、ふらふらと幸村の元へやってきて、とうとう彼女を抱きしめた瞬間はリョーマが彼に愛想でもつかしたのかと疑った。しかしながら弦一郎に抱きすくめられながら幸村の目は県道の向こうにある駅を捉えていた。花火の明かりで浮かび上がった三人の細い影の真ん中に、確かに見覚えのある短い髪の子がいて、こちらを驚くほど悲痛な顔をして凝視している。そして彼女は花火の火が飛散しきる前に電車の中へ姿を消してしまった。それだけで十分、越前リョーマが弦一郎への想いを何一つ捨ててなどいないことが知れた。
言ってみれば、今の弦一郎とリョーマはお互い向き合っているのに、壁に隔てられているだけ状態なのだ。しかもその壁は脆く、二人が必死に叩き続ければいつかはどこかが綻んで、再会を果たしてしまう。たとえ弦一郎が壁を打破することを幸村が食い止めても、越前リョーマはきっと壁を越えてくるだろう。彼女の姿を一度でも目にすれば、弦一郎が幸村の元を去ってしまうことは嫌というほど分かっていた。もう幾度彼が自分より彼女を優先したかしれない。その都度襲った胸の張り裂けそうな想いなど、もうこれ以上はごめんだ。
だからいまするべきことはひとつ、越前リョーマの進行を止めてしまうことだ。それは残酷極まりない手段でしか成しえないと分かっていても、もう取らざるを得ない選択だ。何故ならば今しがた、道の角を曲がった瞬間、少し先に居た越前リョーマがこう言ってしまったからだ。
「立海大付属の幸村さん。それが俺のケンカの相手。」

弦一郎の語る言葉は、景吾の予想とは裏腹にとても滑らかに彼の記憶を紡いだ。それはあたかも幸せな思い出を語っているかのようなのに、どこか機械的で冷ややかでもあった。最初こそ、辛い体験を告白するために感情を押し殺してそうなっているのかと思えたものの、青い空の話をわざわざ語って聞かされると景吾はある種の諦めを覚えてしまった。
子どもが抱いた淡い想いで済むはずだったものに、地獄に飲み込まれながら気がつくのは、大切な人を失いたくない一心で人を傷つけて、なのに守りたかった何かはもう欠けてしまっていて、元に戻ることはないと知ったときの絶望は、一体どんな気分なのだろう。
だからこそ憎くてたまらなくなってしまった彼女を、憎いと思ったからこそ愛していると自覚する苦しみは、どんなにその日の何も知らない晴れ渡った空を美しくさせたことだろう。
もし、神様なんてものを心に刷り込まれて育っていたならそいつのせいにすることも出来るだろう。けれど、この悲劇はそんな仮初の逃げ場さえ幼かった二人には与えなかったのだ。
「だから、忘れたのか。」
言うべきことは全て話して押し黙ってしまった弦一郎に、景吾は傷ついた自分自身も隠さず尋ねた。
ざあっ、とこめかみを弄った風の行き着いた木立から夏を思い出させる声が降り注ぐ。遠くの方ではテニスボールを打つ軽快な音、若々しい者たちの勝負の一瞬を巡って飛び交う伸びやかな声援、雑踏の安穏としたざわめき。額や鼻頭、頬や膝をじりじり焼くこの季節だけに許された太陽の盛りを思い出すと、頭から顎に向かって一直線に伝った汗に弦一郎は、はっとしてそれをリストバンドを付けた手首で拭った。そしてからからに乾いた黒い帽子を再び、ぎゅっ、と被る。そして景吾の問いに真っ向からこう答えた。
「……ああ、そうだ。あの頃の俺は弱かった。何もかもに堪えられなかった。情けない話だ。」
きっぱり言い切ってしまう弦一郎に、たまらなくなって景吾は吐き捨てるように言い返す。
「ガキだったんだろ、今よりずっとお前らはガキだった。」
「自尊心の問題だ、俺の場合はな。俺は、自分をもっと強靭で、高潔な人間だと思っていた。」
「ガキのくせに!」
景吾の腕が、ブン、と振られて弦一郎を突こうとした。けれど寸でのところでかわされてしまい、指先が彼のジャージを掠めるのが精一杯だったのに景吾は舌を打って俯いた。その様を見て、弦一郎は片手を腰に当てると気楽な姿勢を取って首を傾げた。
「まったくお前は変わった男だな、跡部。お前はリョーマが好きなのだろう?」
これは半分からかいだったが、それなりに気になっていたことでもあった。景吾はリョーマや弦一郎のことを本当によく調べていた。それは使いようによっては二人を引き離すことも出来るだろうに、彼はそんな打算的なことを少しもしていない。景吾をもっと傲慢な男だと思っていた弦一郎には不思議であったのだが、この質問はどうやら景吾の癇に障ってしまったようであった。
「るせぇ!お節介も余計なことしてんのも分かってんだよ!ただ俺は、あの女が、あんな女が自分からも、お前からも逃げて、なのに結局は逃れられなくて苦しむなんて、そんなの見たくねえだけなんだよ!そんなみっともねえ目にあわせるくらいなら……いっそ真実を突き付けてやる!それが俺様の愛だ!」
ドスの利いた、辺りによく響く宣言だった。おかげで視界に映る範囲にもちらほら景吾たちの方を振り返る人が見えてしまう。これは頂けない、と弦一郎は腕を組んで景吾をたしなめようと口を開いたが、急に腹からこみあげるものがあって慌てて口を覆った。思いの丈を吐きだした景吾は肩で息をしていたのだが、弦一郎の変化に気がつくと、ぎゅっとその柳眉を釣り上げて腹立たしそうな声で呼びかけた。
「おい、真田……。」
「うむ……。」
「何、笑ってやがる。」
くつくつ、と弦一郎の肩が揺れているのを景吾は見逃していなかった。俯いて口を押さえ込んでいるから、きっと本当は大声を上げて笑いたいのだろう。ますます苛立ちが募って景吾はまた弦一郎を突き飛ばす。今度はさすがに避けられることもなく、よろけた弦一郎はまだ、ふ、とか、は、とか我慢できない声を漏らした。
とは言え、いつまでも笑っているわけにはいかない。景吾にまた突き飛ばされたくはないし、何より感情を出したことで現実味が戻ってきたために弦一郎は、今の自分がこれからのために何をすべきなのかに気が付いていた。
帽子の前鍔を握って、前のめりになっていた姿勢を真っ直ぐ正した。目の前の景吾は思った通り、口をへの字に曲げている。それを口の端で笑った。
「お節介と言ったからには礼は言わんぞ。」
「……んなもんいるか。気色悪い。」
「そうか、……そうだな。」
景吾が心底気分が悪そうに、弦一郎から見れば愉快な顔をして断言した。それを聞いて弦一郎は改めて納得した、というようにゆっくり、浅く頷くと、一歩踏み出した。もう足は竦んでおらず、二歩、三歩、と快調な足取りの予感が下から伝わってくる。そのまま景吾の横をすり抜けても良かったのだが、弦一郎はあえて彼と肩を並べるところにくると、足の運びを緩くして少しだけ彼の方を振り返った。斜め後方から見た景吾のほとんど見えない横顔は綺麗な輪郭をしているのに、唇だけ拗ねたようにちょっと突きだしている。そんなものを見たから、やや苦笑気味に弦一郎はこう言い残してその場を後にした。
「せいぜいお前を見習って、あいつに精一杯残酷なことをしてくるさ。」
ぽつねんと残されたそこで景吾は、気色悪い、ともう一度呟いて眉をひそめた。同時にこの木立に囲まれた少し開けた場所が、あの子に初めて会った公園に少し似ている気がして改めて思う。出会って間もなかったけれど、ろくに顔も拝ませてくれなかったけれど、あの日の強い瞳と挑発的な態度には本当に驚かされた。その衝撃こそまぎれもなく跡部景吾の恋だった。
好きとはただの一度も言わなかった。好かれるようなこともしなかった。でも好きだった。だから傲慢でも、あの日知った彼女のままでいてほしいと我武者羅になったのは本心で望んだことだ。
今日の選択は正しかったのだろうか。自分のことも、彼女のことも、何より彼のことを、もっと違った風にすることも出来たはずだ。足元の草むらを見つめて景吾は呆然と自問した。
ところが、ふ、とそこに大きくて柔らかい影が揺らいで現れた。景吾は咄嗟に顔を上げそうになったが、背中に感じる気配の優しさはよく知っているものだ。こんなとき、決して景吾に語りかけたりしないし、背中を押したりしない、絶対に出しゃばった真似をしない、世界で一番彼に従順で馴染むような存在の前にいる限り、景吾は常に己の中の貫くべきプライドを確固たるものとして感じてきた。彼がいるだけでいつも思うのだ。折れることなどどうして出来ようか、と。
景吾は左手を掲げた。それを額に当てて、前髪をぐっと掻きあげると、手に塞がれない青い片目で目前を、キッ、と見据える。フン、と鼻を鳴らせば、背中の大きな体が嬉しそうに肩をいからせたのが分かった。
それが誰よりも嬉しいのは自分だが、景吾は感謝など容易く口にする男ではない。代わりに労いの言葉で自尊心を盛り上げ、もっとこの心優しき友を喜ばせてやるのが相も変らぬ礼儀だ。
「今日はあいつに花を持たせてやっただけだぜ、なあ、樺地。」
「ウス。」
清々しく見上げた青空はどこまでも突き抜けている。やはり自然と祈るような気持ちで景吾はそれを見つめた。
願わくば、この果てしなさが、透き通るような色が、かつてのように彼らを脅かすことのないように。


――――――
うちのべさまってどうしてこんなにドMでらっしゃる。


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