60.やさしい ひと


殴り潰して、ぴくり、とも動かなくなった男を見て、ようやく手の力が抜けた。ガン、と重々しい音で落ちた鉄パイプは、元のように完全に真っ直ぐではなく、僅かにくの字になって横に倒れる。その脇にリョーマがいた。枯れ果てた、弱弱しい声でも、必死に泣きじゃくっている。怖かったのだろう。当たり前だ。当たり前だが、当たり前じゃない恐怖だった。泣きじゃくっては苦しそうに咳き込む彼女を、俺は呆然と、荒い息だけ零しながら見下ろしていた。それから両手を持ち上げて、自分の手の平を見てみる。熱くて、パイプ越しに伝わった感触に震えていた。人を打つことの本当の意味と手ごたえを知ったこの手が、俺には恐ろしかった。けれど同時に、誇らしくもあった。まぎれもなくこの手は、彼女を守った手なのだから。守ったのだ。守ったのに、どうして、こんなにリョーマは泣くのだろう。
「ごめ、ん、ごめんな、さい……あたしが、あた…し、が。」
唐突に、リョーマが絶え絶えの息も押し殺して、謝罪の文句を口にした。頭を抱えて、また咳き込みながら、ごめんなさい、と繰り返す姿は絶対に、見過ごせなかった。やっとしゃがめるだけ足の感覚が戻った俺は、リョーマの肩を掴んで無理やりにこちらを向かせた。
「ちがう、お前は、悪くない!お前のせいじゃない!……お前は何もしてない。大丈夫、大丈夫だ。俺が、」
最後までは言えなかった。俺が必死に宥めても、リョーマはまた涙をあふれさせてしきりに首を横に振った。それをやめさせようと、リョーマの耳の辺りを手で押さえてやると、甲にリョーマが手を添えた。
「ちがうの、あたしが、いけないの。ねえ、あ、弦ちゃん……ごめん、ごめんね、あたし、帽子、返したかったの。もっと早く、ちゃんと、言ったらよかったの、に、あたし、あたし、ばかだ、来てくれたのに、どうして弦ちゃん、の、」
帽子、と聞くと、急に胸が締まった。
唐突にあの感情を思い出した俺は、分かってしまったのだ。リョーマに腹を立てたのも、帽子の約束に恥ずかしさと悔しさを覚えたのも、あの光景を見た瞬間、嘘だ、と口走った理由も。
全部がさっきの土砂降りのような速度で身を打ち、染みる。改めて、口からは、嘘だ、と零れた。リョーマの頬を掴んだまま、顔を伏せた俺はやっと、ここに何の希望もないことを知った。取り返しがつかないこと、というのはきっと絶望の定義のようなもので、今、後戻りできないものは暴かれるようにして知ってしまったこの想い、即ち、苦痛だ。

そのとき、不意にリョーマが俺を抱きしめた。腕の下を潜って背中を掌がそっと這う。ひたりとくっついた体は、細くて、軽くて、ほんのり柔らかかった。その体の冷えが俺に伝わって、浸透していく。せめて同じように俺の体の熱だけでも彼女を慰められたら、と瞬間、心底祈った。
誰かを抱きしめる、などという行為は大人がするものだと思っていた。いざ彼女に抱きしめられて、確かに、これは子どもではできないことだと分かった。肌に触れると体温が伝わるように、その人の何もかもが直接理解できる気がした。だからそれを受け入れるだけの器量だとか、慈しみだとかを培わなければ、これは容易くしてはいけないことなのだ。
ただ、あのときは何かにしがみつきたかった。全てが離れて行ってしまわないように。誰よりも彼女に分かってもらうために。そして言いきれなかった、俺が君を守ったのだ、という思いを知ってもらうために。そんな自尊心を保護するためだけに、俺は自分の額を強く、リョーマの小さな肩に押し当てた。
リョーマは俺の名を何度も呼んだ。それも母親が子をあやすような優しさで呼んでいて、俺は惨めだったが、もう何も聞こえないふりをしていた。全てを自分で手放していたくせに、手では掴んでいると思い込んでいた。
「……リョーマ。俺は、俺はお前が、好きだ……好きだったんだ。」
やっと分かった真実を言ってしまうと後は泣くしかなかった。リョーマの肩に埋めた額をぐいぐいと一層押し込めて、声は我慢したが、嗚咽でひくつく体だけはどうしようもない。
人を好きになる、というのは正の感情に違いない。実際、誰かを好きだ、と思う瞬間、心はいつだって清々しい。
だからそれは素晴らしいものであるはずなのに、これは、この今しがた気付いたこの想いばかりは、どうしてこんなに痛い。そんな気持ちなら、いっそ伝えない方がよかったのかもしれない。それでも内に秘めておくにはあまりに強い、初めての感情で、だから我慢の出来る代物ではなかった。この痛々しいほどのものを誰かと分かち合いたかった。そうしないと心が折れそうで、そのくせ分かち合えるのはこの世に一人しかいないのだから、どれほど残酷な話であることか。
俺は自分のことで精一杯だった。子どもだったから、とも言えるが、大人ぶっていることを自負していた分、それは余計情けないことだ。
少し身じろいだリョーマがもう一度俺を抱きしめ返した。背をそろそろとなぞる感触をくすぐったく思うと、俺の頭はぐっと押し返された。リョーマが俺にもっと擦り寄ったからだった。そして囁く声が俺の肩に落ちる。
「……ありがと。うれしいよ、それだけで…もうだいじょうぶ、泣かないで。ねえ、」

ごめんね。

最後に優しくそう言って、腕の中の彼女がこと切れたかのように弛緩した。

少し離れたところでバタバタといくつもの大きな足音が近づいてくるのが聞こえた。もうすぐここへ人が来る。静かで、冷ややかで、湿っぽいここはかつて夏を過ごした楽園のような場所に似ている気がした。全く違うだろうに、と思ったが心底そう感じていたかどうかは俺にすら定かではない。ただ膝をついた地面はあの柔らかで、どこか温かく青臭い草原ではなく、空気を一層冷ます冷たさだった。
腕の中の人を落とさないようにそっと抱えたままで見上げた空が、やたら高い所にある。倉庫の屋根に挟まれて狭く、ちっぽけな空が、だからかむしろ鮮烈な青を湛えてそこにある。綺麗だった。間違いなく、短くもそれまでの人生であんなに綺麗な空は拝んだことはなかった。この先すらあんなものを見ることはないような気さえする。
ただただ青い空はあまりに綺麗で、無垢がすぎた。
目が眩んだ。

それから数日は病院で過ごした。俺は別段怪我など負っていなかったのだが、両親は俺がどこへ行くことも禁じた。見たことないほど険しい顔をした両親に気圧されて、俺は病院の一室に籠り続けた。しかし全く退屈ではなかった。というのも、毎日誰かしらが尋ねてきたからであった。それは一日一度回診に来る医者であったり、スーツを着た厳めしい面構えの男性たちであったり、様々であったが、皆一様に俺へ山のような質問を浴びせかけた。医者は気分はどうか、とか、夜はしっかり眠れているか、とか、大したことは聞いてこなかったが、スーツを着た男たちは違った。彼らはリョーマがあの男に襲われた時のことをやたらと俺に訊いてくる人たちだった。俺は彼らが嫌いだった。事件のことを訊いてくるからではない、俺の言うことを信じてくれなかったからだ。いくら俺がリョーマをあの男から守ったと言っても、彼らは首を振ったり、肩を竦めたりするだけで、すぐに別の話を振ってくる。憤慨した。いくら子どもの言うことだからといってこれほど取り合ってくれないのは、いっそ悪意を覚えるほどであった。そして俺が次第に彼らとは口を利かなくなり出した頃、俺の病室へ倫子さんがやって来てくれた。
リョーマに会ってもいい、と彼女は伝えに来てくれたのだった。途端に腰かけていた寝台から飛び降り、俺は倫子さんすらも押しのけるようにして病室を飛び出した。リョーマの病室は別の棟にあったため、結構な距離を走る羽目になったが、そんなことは苦にもならなかった。
とにかく一刻も早く無事を確かめたかった。ほとんど変化のない病室にいる間に、既にあれから何日経ったかよく分からなくなっていた。だからリョーマに会えない時間は、まさに一日千秋の思いであった。
幾人かが俺に声をかけたようだったが、声は全て耳の側をひどい勢いで通りすがっていく。視界は目の前に移る障害をどう避けるかしか考えておらず、ひょっとしたら見知った顔のひとつやふたつあったのかもしれないが、やはりよく覚えていない。裸足の足の裏がぱちぱち床を叩き、その度に俺の体は走っているという感覚に酔いしれた。体を動かすのが心地よかった。それも行きたい場所へ一目散に向かうときの心地よさと言ったら、上がる呼吸すら嬉しさで気持ちよく感じられる。
渡り廊下を過ぎて階段をひとつ上って着いた廊下でやっと俺は立ち止まった。既に肩で息をしていたが、全く堪えてはいない。廊下の端と端それぞれに目をやり、ついでに壁に貼っているプレートも確認する。「401」へ導く矢印を小走りに追うと、角部屋の前に行き着いた。目の前の扉の取っ手をじっと睨む。ここだ、この中にいるのだ。そう自分に言い聞かせてしばらく待った。さすがに興奮しすぎている自分に気がついていた。僅かに恥ずかしく思えたが、結局喜色満面なのをどうもしない内に戸を開いた。
そこは明るい部屋だった。奥の窓が開いていて、カーテンも寝台も、部屋全体が白く、眩しい。微かに怯みそうになったものの、数少ない色を持ったものを見つけるとすぐに気を持ち直すことが出来た。ひとつは南次郎さんの姿だった。いつもの日に焼けた顔に、今日は心なしか虚ろな目が埋まっていて、それで俺を捉えた彼は俄かに表情を曇らせた。俺の訪問に驚き、同時に目前の恐怖に怯えたような、いっそ憐れむような表情をしている。勿論俺には訳が分からない。南次郎さんは何事か言いたそうなのにも関らず、まるで声が出ないかのように半開きの口を震わせていた。どうしたのだろう、と思ったが、急に吹き込んだ風でカーテンが立てたパタパタとはためく音に、俺の視線は一気に寝台の上へ集中した。
体を半分起こしたリョーマが、ぼんやりこちらを見つめたままで座っていた。全身がびくんと脈打って、緊張で足が震えたものの、それでも俺は一歩、二歩とリョーマへと歩み寄った。というのも次第にリョーマが微笑みを取り戻したからだった。俺を見つめる瞳は甘く細められ、喜びと優しさと愛しさで彼女の頬が微かに膨らむ。嬉しくてならず、同時に気恥かしくてまず何を言えばいいかが思いつかない。寝台の脇まで辿り着いて、もう手を伸ばせば届くくらいまで近くに来たリョーマを目にして尚しどろもどろとしてしまう。頭の中は必死だった。こんなときくらい、らしくなくても何か優しい言葉でもくれてやりたいのに、駆け巡るのは平凡で素っ気ない挨拶だとか相手の調子を窺う文句だとかばかりだ。焦って、困っていた。と言ってもそれも嬉しい悩みに過ぎなかった。
次の瞬間、先に口を開いたリョーマが俺に浴びせた一言は、そんな安っぽい幸福すら容赦なく打ちのめした。

「おにいちゃん、だれ?」


――――――
どうも、お兄ちゃんと呼ばれたい方の(ry



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