59.まもれない ひと


南次郎さんの運転する車に乗せられて、リョーマとの弾まない会話に苦悶した後、四年ぶりの越前家へ到着した俺は懐かしさよりも、気まずい空気から解放された安心感でほっとしていた。さっさと車の後部座席から飛び降りて、あの黒い鉄格子の門をくぐれば、果たして、全ては何もかも昔のままであった。まだ午前中であったので、前庭の広い芝生は所々露を宿していて光り輝き、青々としている。踏みしめれば向う脛に散ってくる露は、陽光であっという間に温くなり、一瞬で乾いていく。それがくすぐったくて、少し気持ちが軽くなった。楽しくなったので駆けだしたいところであったが、ここで荷降ろしという仕事が俺の頭に浮かんだ。父の、よいしょ、という掛け声のせいだった。しまった、と思って慌てて振り返ると、小さなリョーマがもたもたとようやく車から降りるところに鉢合わせる羽目になって、つい顔をしかめた。空港からずっと、リョーマはしょんぼりとしたままで、俺が何を言っても、余計その表情が深みを増すだけで実に気分が悪い。その上、そんな顔をしたまま、ワンピースの裾を気にしながらそろそろと下車する姿が苛立たしい。
何をそんなに、―――。これではまるで、―――。
「弦、ちゃん?」
リョーマの声が真正面、やや下から俺の顔にふりかかって、はっ、と激しく息を呑んだ。少し怯えたような、心配するような顔でリョーマが俺を、すぐ目の前で見つめていた。声をかけておきながら不安なのか、自分の腹の上に握った拳を行儀よく押しつけている格好がひどく大人しい子どものように見える仕草で、ますます俺は腹が立って仕方なかった。
「……だから、弦ちゃんって呼ぶな!」
またそう一喝して、俺はきつくリョーマを睨んだ。大声に怯み、俺の睨みに目を潤ませたリョーマはもっと腹立たしくてたまらず、俺は乱暴に腕を振って父の方に駆け寄った。さすがに俺の怒鳴った声が聞こえたために、どうした、と父は聞いたが、何でもない、と返すと彼はそれ以上詮索してこなかった。昔もよく喧嘩をしていたから、それと同じ類のものだとでも思ったのだろう。けれどそれは全くの間違いである。昔の喧嘩はこんなに気分を害すものではなかった。一時の、理不尽な理由や感情が波立たせるだけで、後腐れのない、いっそ小気味いいくらいのものであった。
それがどうだ。父から荷物を手渡されて、運ぶ最中にも俺の心の中は煮えくりかえっていた。突っ立ったままのリョーマの横を、また横暴な速度で通り過ぎる。収まりがつかなかった。それは当然のことで、何故ならば、俺は今自分の神経を逆なでる怒りの正体を理解していなかったからである。
アメリカに滞在する間、使ってくれと言われて通してもらった部屋に自分の荷を下ろしたが、やり場のない怒りのために俺は半ば投げつけるようにして鞄を床に落とした。平素ならば決してしないことだ。だからそんなことをする自分にまた腹が立った。
そしてそれが、変にさっきまでの怒りに似ていることに気がついた途端、俺はギクリとした。咄嗟に己の額を右手で殴りつけて平静を保とうとする。それでも、じんじんと痛みだした額すら、全部俺自身のせいなんだぞ、とたしなめてくるようで余分に辛くなってしまう。
その通りだった。
リョーマに怒鳴ったのは、昔のように呼ばれることが嫌だからでも、ましてや彼女を嫌いだからでもない。逆だ。空港で再会した瞬間から、リョーマを見たとき、もう彼女のことが気になって、気になって、どうしようもなくなってしまったからだ。女の子なんてどこででも見るものだ。学校に行けばそれこそ嫌というほど毎日見ている。テニススクールにもたくさんいた。けれども当たり前にいる彼女らは、言ってしまえば空気と同じで、気を引くこともなければ、目ざわりに思うこともめったにない。居て当然の存在なのだから何の不思議もそこにはない。それはリョーマにも言えるはずのことで、彼女だってただの女の子だ。勿論名も知らない女の子に比べれば、多少は余計に見知っているものの、かつてリョーマは俺にとって少しも特別な存在たり得なかった。ただの遊び相手、その程度だった。それがどうして今になってこんなにも気になるのか。
訳が分からなかった。自分の怒りを辛うじて見定めると、存外辛いもので、はあ、と吐いた息は熱い。部屋の真ん中で突っ立って、一体俺は何をしているのだろう。そこから少しずつ、自分の周辺に気を配り始めた俺は、やがて開け放されていた部屋の窓から飛び込む音に首を傾けた。雨だ。
さっきまで晴れていたはずなのに、と不思議に思って窓に近寄ると、黒い雲が空を覆っていたが遠くの方は明るい。どうやら通り雨のようである。しかしあまりお目にかからない激しい降り方が物珍しく、俺は食い入るように雨を見つめた。それから、またギクリとして窓から身を乗り出した。急にリョーマのことを思い出したからだった。あの馬鹿は、ひょっとして雨に打たれていやしないか。
結局リョーマは、門のところにはいなかった。拍子抜けして俺が体を引っ込めると、部屋の外で雨に降られたらしい南次郎さんが情けない悲鳴と共に家の中へどたばたと駆けこんでくるところであった。足音は他にもあって、俺はほっとしてまた息を吐いた。そして、悩んだ。
こんな風に心配にもなるのに、どうしてリョーマに怒鳴ってしまったのか、素っ気ない態度しか取れなかったのか、甚だ疑問だった。自分のことなのに、抑えが利かず、どうしようもない。いけない、と分かっているのに自制できないことは本当に許し難いことだ。リョーマには何の非もない。あんなに可哀想な顔をさせたくもない。なのにあのひらひらと揺らめく白いワンピースの裾を思い出すと、大きな瞳や真っ赤になった頬を思い返すと、それだけまた苦しくなる。もしも今、理由もなく見たくないものがあることを許されるなら、きっとそういうものたちを俺は声高に答えるに違いあるまい。だから目をぎゅっと閉じた。視界を塞いでも何の意味もないが、目を閉じることに集中すると余計なことを考えずに済むことに気がついた。そのままずるずると窓の脇で蹲り、俺は膝を抱えて座り込んだ。息も極力小さく済ませると、鋭敏になるのは聴覚だった。雨の降る音、靴が床を叩く音、南次郎さんの笑い声、父の苦笑、母の話し声、倫子さんの大きな声、また靴の音。そして名前を呼ばれた。
「弦ちゃん?」
億劫で、ゆっくりと顔を上げると、部屋の入り口には倫子さんが立っていた。彼女はぽかん、として俺を見ていたが、すぐ優しそうに微笑んで再び俺に声をかけた。
「弦ちゃん、眠かったらベッド使っていいのよ。飛行機で疲れたでしょ。」
どうやら眠っていたと勘違いされたようであった。きつく閉じていたせいで不鮮明な視界をどうにかしようと目をこすった。もっと眠っていたと思われそうだが、倫子さんに応じる方が今は大事で、俺は二、三度首を降ると大丈夫です、と答えた。
「ありがとうございます、ですがお気遣いなく。」
真っ直ぐ立ってそう言うと、苦笑して倫子さんが頷いた。そして彼女は立ち去ろうとしたが、その寸前、俺を振り返って少し困った顔をしてみせた。
「ああ、言いそびれるところだった。ねえ、弦ちゃん。リョーマ知らない?」
弦ちゃんと一緒にいるのかと思ったんだけど、と言われたが、そんなはずもなく、俺は、知りません、と言い返した。すると倫子さんは、そう、と言って指先を顎に宛がった。どこ行ったのかしら、と、彼女に似つかわしくなく不安そうな横顔がそうもらして消えてしまう。廊下の向こうに行ってしまった彼女をしばらく呆然と見ていた俺は、しばらくして、慌てて部屋を飛び出した。
向かったのは居間だった。そこには両親と越前夫婦が居て、ちょうど倫子さんが南次郎さんにリョーマの姿が見えないことを話しているところだった。その二人の顔色がやはり揃って思わしくなく、不審に思った俺の両親も越前夫婦にそれとなく質問をし始めた。
「リョーマちゃん、庭じゃないですか。」
「そう、だな。オレンジの林の辺りにでもいるかも……。」
「スコールが止んだら探しに行きましょうか。」
「ええ、外に出てなければいいけど……。」
「外?」
「……最近この辺もちょっと物騒なことがあって、ちゃんとリョーマにも言い聞かしてるからめったなことはないと思うんだが。」
居間の入り口で中途半端な会話を聞き届けた俺は、後ろを振り返った。
真っ直ぐ伸びる廊下の先に開け放した玄関があり、雨はほとんど止んでいた。そろそろとそちらへ近づくと、陽も照りだし、急な熱気に晒された雨の名残りがむっと湿っぽい空気を風と共に家の中へもたらした。その塊に押された気がして、一瞬歩が止まる。ずっと胸がドキドキと鳴っていた。緊張でも高揚でもなく、ただ不安からくるそれに、足は果敢にも歩みを取り戻していく。
とうとう俺は玄関を出た。外に出てしまうと風は乾いて涼しかった。ときどきどこからか飛んでくる水滴が頬や腕を掠めて、弾ける。雲は急速に流れ、空は怖いくらい広くて果てがなかった。不安は余計に増すばかりか、恐怖にすら成り変わっていくその感情に胸がつぶれそうで、Tシャツごとそこを鷲掴んだけれども気休めにもならない。そしてまさか、と思って見た門は、僅かに開いていた。
後ろの方で、南次郎さんに呼ばれた気がしたが、一度走ろうと思ったからには止まる気などなかった。半開きだった門に飛びつき渾身の力で引っ張れば、意外と容易くそれは開いた。所々大きな水たまりの出来た歩道は、隣に広々とした車道を構えて、白く、どこまでも真っ直ぐ伸びていた。そこでひとつ気がついたのは、空が、道が、果てしないのではなくて、ただ俺が小さいのだということだった。日本でこそ、子どもにしては相当大きな部類に入る俺であるのに、否、余所の国に来たけれどここも日本と同じ世界だ。そう思うと情けなかった。そして俺よりも小さなリョーマをどうやったら見つけられるだろう。またひとつ不安は増える。
そんなことを繰り返し思ってはとりとめもなく、泣きそうで顔を顰めたが、やはり足は止まらなかった。

止まると膝が焼けるほど熱くなっているのが分かってしまうので嫌だった。喉が痛いのは唾を呑んで誤魔化す。どれくらい走ってきただろう。相当かもしれないし、ちっともかもしれない。ただ景色だけは変わっていて、住宅街から倉庫群に変わっていた。海端だからだろうが、煉瓦造りのそれがいくつも立ち並ぶとひどい威圧感を放っていた。人は居らず、倉庫と倉庫の間からは嫌に冷たい空気が漂ってくる。
そしてあちこち見まわしながら走っていた俺は、ついに、ここに来て足を止めざるをえない事態に遭遇した。
道の上に何かが落ちていた。それに向かって一旦加速し、減速には蹴躓くようになったが、辛うじて転ぶことなく地面へ手と膝をついた。荒い息が地面を叩き、風に弄られることなく滲み出ることを許された汗が、顔や首を伝ってぼたぼたと落ち始める。そして自分の落とす影の中で拾ったそれは、白い帽子だった。
手に取るまで、すっかり忘れていたものだった。そう言えば昔これを誰かにやってしまったのだ。いや、正確には預けた。いつか取りに来るから、という約束だった。けれど忘れていた。
そう言えば、あいつは最初からこれを持っていなかっただろうか。ワンピースを握る手にも、腹の上で握った拳にも、もたもた下車した後も座席に大事そうに置いていたそれをそっと手に取っていた。
なのに、俺はそんなものより彼女に対する怒りのような感情にばかり目が行っていて、少しも気づかなければ思いだしてもやらなかった。唇が戦慄いて、力を込めて握った帽子は簡単にひしゃげた。
猛烈に恥ずかしかった。自分が言ったことを忘れていたのもそうだが、そんな忘れてしまうような約束を信じて、後生大事に彼女がこれを持っていたことが。そしてその約束を果たそうと、今日という日、肌身離さず持ち歩いてくれていたことが。嬉しくて、恥ずかしくて、悔しかった。
俺は詰めていた息を強く、一度に吐いた。そして急いで顔を上げると、立ち上がった。相変わらず心の中は色々な感情でぐしゃぐしゃになっていて、何一つ整理などついていないがそんなものは後回しだ。今は早くリョーマを見つけて、謝らなければならないのだ。そして、
ありがとう、と言いたい。そうしたら、あの腹が立った理由も、恥ずかしくて悔しい今の気持ちの本当の意味も、全部分かる気がしていた。
そのとき、帽子の落ちていたところの正面にある倉庫の隙間から、声がした。何と言ったかまでは分からなかったが、声の判別はついた。今日はまだぼそぼそと喋る頼りない声しか知らないが、だからと言って今の俺が聞き間違えるはずもない。
リョーマの声だ、と思うと気持ちが逸った。すぐさま俺は吸い込まれるように暗がりへ飛び込んだ。冷気が足元から全身へ這いまわってきたが、火照っていた体には何ということもない。だから、まるで今なら何でも出来るような、仮初の勇気が体中を満たしていた。
きっとあのとき、リョーマを見つけて、謝罪と礼を言えていたら、あの勇気は本当に、本物の勇気だったと言えていただろう。
高い、狭い、頭上の隙間から零れる光がなかなか届かない、そんな不完全な暗闇のなかを駆け抜ける俺は、十字路に出くわした。反対側に並ぶ倉庫の背と、俺が入ってきた方の倉庫の背がぶつかるところで、そこに差し掛かった途端リョーマの声は一層大きくなった。
左だ。そう気がついてそちらを見た俺は、しばらく笑顔を崩さなかった。否、崩せなかった。
理解の範疇を超えるものに出くわしたとき、人は一時何もできない。ただその事象を見つめて、少しずつ、それに対して判断を下していく。それが安全か、危険か。時間をかければ理解できるか、否か。自分にとって快いか、不快か。触れていいか、いけないのか。判断の詳細な種類は多い。しかしながら結論は常に二択だ。歩み寄るのか、拒絶するのか、これだけだ。どちらかを選べばいい。けれどどちらも選べない。そういうことはままある。実際俺がそうだった。ひょっとした、そういうものなのかもしれない。けれど俺の本性ははそれをよしとしない。潔くない。それに尽きた。
「……嘘だ。」
枯れた声で呟いた。尚も足はゆっくりとそちらへ向かっていて、ありもしない希望に縋ってでもいるようだった。
目にしているのは、だらしなく垂れた細いだけの腕と黒ずんで見える頭、胸までたくしあげられたあの白いワンピース、腹に垂れる何か、不自然に開かれて釣り上げられた二本の足、そしてそれを掴む手から連なる大きな、影。
それは俺にとって、単なる絶望にすぎなかった。


――――――
えげつないのはこれからである。


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