58.かわいい ひと


空港というものは相変わらず、端から端まで目視できないような巨大な空間だ。
そんな場所で、俺の両親と俺が今回の旅の目的である一家にすぐ遭遇できたのは、偏に南次郎さんの大声と存在感のおかげであったと思う。足早な人々の間を懸命に駆け抜けた父が感激して南次郎さんの手を取るのを、俺自身は彼らよりいくらか後方で見ていた。
「お久しぶりです!いやあ、お変わりないようでよかった。」
「いやいや、そちらさんこそ、相変わらず奥さん美人で。」
軽口を叩いて父越しに母の方をにこにこと見ている南次郎さんが、しかし突然、ぎゃっ、と喚いて飛び上がる。蹲る彼の後ろにはすっかり立腹の様子である倫子さんがいて、不穏な手の位置から南次郎さんの弱いところでも抓ったようであった。未だに自分の足元で呻く夫を、いい気味だと言わんばかりに鼻であしらった彼女は、そつなく上品に揃えた指先を口元に当てて微笑した。
「すみません、相変わらずこの人馬鹿で。」
明確な力関係を目の当たりにしてどうにも俺の両親からは苦笑しか起こらなかったが、すぐさま今度は南次郎さんから、あ、と驚きの声がもれた。蹲ったままやっと顔を上げた彼は、低い位置から目で真っ直ぐ俺を捉えていた。
「そっち、弦ちゃんか?」
物珍しそうに首を突き出している南次郎さんに続いて、倫子さんも俺の姿に目をとめると、まあ、と声を上げた。
「本当?あら、すっごく大きくなったのね!」
二人の大人の感嘆に気圧されて、俺は僅かばかり目を見開いた。けれどこの数年でさらに鍛え上げた精神と礼儀が怯むことはない。父親の一歩後ろまで歩み出た俺は越前夫婦に対して慇懃に一礼した。
「ご無沙汰してます、お二人ともお元気そうで何よりです。」
俺の見た目は正直、中学生、と言っても何とか罷り通りそうなほどであった。背丈はもう150センチメートルを優に越えていたし、顔つきも、頻繁に厳めしいと評されていた。少年らしいものと言えば、こざっぱりしたTシャツにハーフパンツ、そして真新しく若干俺には大きい黒い帽子を後ろ前逆に被っている格好くらいのものだったのではないだろうか。
しかしながら南次郎さんは指折り俺の歳を考えていた。最後に俺と会ったのが、俺が六歳のときである。あれから四年経って叶った再会であるから、つまるところ俺は十歳、立派な小学四年生であった。
恐らくは、そんな子どもが発するには花まるでお釣りが戻ってくるくらいであった挨拶に恐縮したのだろう。大人二人は唖然としたまま返答した。
「これはこれは、どうも、ご丁寧に……。」
「…弦ちゃんも、元気そうでよかった、わ。」
はい、と短く俺が応えたあと、越前夫婦はお互いを見合って、慌てて俺の両親のすぐ側まで駆け寄った。
「ちょ、デカくない?デカくない?十歳とか詐欺じゃない?」
「何て言うか、あの、しっかりしたお子さんになって…。」
興奮と驚愕で息まく南次郎さんと倫子さんを、両親がまた苦笑交じりで宥めにかかる。それを子どもながらに微妙な心中で横目に見たあと、気まずい顔でさっきまで倫子さんが立っていた辺りを再び俺は見やった。そこで、はた、とそこにもう一人誰かが立っていることに気がつく。
俺から見れば、それは本当に小さな子どもだった。頼りないくらい細い足と真っ白なワンピースの裾をぎゅっと握る小さな手が最初目に入る。視線を上げると狭い肩幅の上に丸みがやや取れかけてきている、やはり小さな顔があった。だからどこもかしこも小さいのだな、と思えば、その顔に埋まっている双眸だけはそうではないことを思い出す。つり目気味なのだが、大きな目だ。黒目がちで、瞳の色が茶色いことが少し離れたところに立っている俺にもすぐ分かったほどだ。その瞳を避けるようにしてふわりと顔にかかる短い髪は明るい空港の照明に晒されて昔と変わらない緑がかった艶やかな黒をしている。それにくすぐられる頬は先ほどからどんどん赤くなっていて、彼女が来ているワンピースの白と対照的だ。色のコントラストは何かの童話を彷彿とさせるようでもあり、幻惑的で、夢でも見ているような気がした俺はただ黙々と少女を見つめ続けていた。
だから彼女がひどく困った顔をして俺を、同じような熱っぽい眼差しで見返していることに気がついたのは、後ろで騒いでいた大人の誰かが少女の名前を呼んだときであった。
「あー、そうそう、あれウチのリョーマ。相変わらずチビ。」
「ほら、アンタもちゃんと挨拶しなさい。」
父親と母親に存在を思い出されてほっとしたのか、僅かばかり表情を緩ませて、リョーマは、こくり、と黙って頷いた。それからリョーマはさっと俺の方に向かって駆け寄ると、俺の隣にいた倫子さんにしがみつき、こんにちは、と小さな声で俺の両親に挨拶をした。体半分そちらを振り返っていた俺は不思議な心地でまたリョーマを見ていた。右方からは空港の中の様々な音、知らない国の言葉とか、物が立てる聞きなれた音とか、遠くで不意に上がった大きな笑い声の反響とか、そんなものが止め処なく俺の耳に流れ込むのに対し、左方からはリョーマの素っ気ない挨拶にも関らず、嬉しそうに挨拶し返す俺の両親の声や、娘の愛想のなさに苦笑する越前夫婦の小言が狭苦しい距離を行き交っていた。そしてとうとう、俺の母親がリョーマのことを可愛い、と言った。何故かそれに俺はひくりと肩を震わせてしまい、ひとり焦った。誰かに見られなかっただろうか、とそっと後ろを振り返ろうとすれば、同じタイミングでもう一人振り返る人がいた。リョーマだった。
俺達の距離はひどく近かった。身長の差の分くらいしか距離らしいものはなく、腕と腕が擦れそうな幅しか二人の間にはない。それに気付くと俺の体は強張った。自分より一回り以上も細い腕が、少しでも動けば当たりそうなところにあって困惑する。だからとにかくそこから目を逸らそうと俺が慌ててキョロキョロすれば、結局見つけたのはゆっくり瞬くリョーマの瞳であった。物言いたげな目は二つとも、真っ直ぐに俺を見上げていた。彼女の瞳は純粋な好奇心にあふれているようでもあるし、不安で潤んでいるようにも見えた。どの道その瞳が抱えている感情全て、俺ただ一人に注がれていることは、言わずとも分かることだった。だからぐっと息を呑んだ俺は我武者羅に顔を明後日の方へ背けて難を逃れる。すると横からは、ヒュッ、と、とても小さいけれど、悲痛な音がして、それが気になった俺は恐る恐る目だけでもう一度リョーマを見た。彼女は打ちひしがれたように項垂れている。
途端に、ズグリ、と痛む胸に俺は驚いて、物が言えなくなってしまった。


――――――
越前夫婦すっきゃねん。



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