57.She decides to confront what she's feared.


リョーマがプルトップを引くと、いつも通り、プシュ、と気の抜ける音がした。そのままぐっと煽るとこちらもいつも通りのジュースの味、がしなかった。すぐに缶を口から離すと、リョーマはじっとりして視線を自分の左方へ向けた。熱気のような念がそこからは伝わってきたが、先ほどまでの怒りによるそれではなく、ただただ不興を買ってしまったことに許しを乞おうとする憐れな女の子が、数珠でも鳴らすように手を擦り合わせて待ち構えていた。
「ほんま堪忍!堪忍やでコシマエ〜!」
「……いや、だから、誰がコシマエだよ。」
はあ、とため息とともにくしゃりと前髪を掻き上げてうんざりと俯いたリョーマは、ぼんやり下方のコートを見つめた。今腰かけているのは巨大なコートが収まるアリーナの客席中程で、主役であるセンターコートは目下大がかりな整備の真っ最中だ。ぼろぼろになってしまったコートのおかげで大会の日程まで少々ずれ込み、今頃両校の部長と顧問が運営本部で平謝りしているに違いない。しかし、どちらかと言えば、この惨憺たるコートの仕上がりはリョーマの隣にいる少女のせいである。何故ならば爆風でコートの一部を吹き飛ばしたのは彼女が放った決めの一球、「スーパーウルトラグレートデリシャス大車輪山嵐」なるものの威力であるからだ。
青春学園の越前リョーマと四天宝寺中学校の遠山金太郎の一球勝負は苛烈を極めた。何せ球は一球しか与えられていないのに、二人ともなかなかそれを取りこぼさないのである。リョーマが打てば金太郎が追い付く。金太郎が弾けばリョーマが叩きこむ。そんな応酬がかれこれ数十分も続き、観客たちもハラハラする気持ちと終わりの見えない試合への不安で心労はピークに来ていた。それは試合に臨んでいるリョーマも同じことで、彼女の場合は大概が腹立ちだったが、いよいよ我慢のできなくなった彼女はとうとう金太郎に向かって、この喧嘩まがいの理由を問いただした。すると急に大粒の涙を目に浮かべた金太郎は、打ち上げられた球を追って宙を舞うと、ぐるぐる回転しながらついにはこう言い放ったのだ。
「『ウチの白石取らんとってー』って、馬鹿じゃん。誰がいるかっての。」
「やってー!白石めっちゃモテんねんで!コシマエ知らんやろ!ギャクナンとかごっつ来んねんで!」
逆ナンという言葉の意味はともかく、それを傍観して見知ってはいるらしい金太郎はキーキー唸ってリョーマの横でバタバタと暴れた。やれやれ、と頬づえをついて、リョーマはまた少し缶の中身をすすった。
要はただの誤解だったのだ。リョーマが試合の前に蔵ノ介と会っていたところを通りすがった金太郎がたまたま見てしまったらしい。間の悪いことにちょうどリョーマが転びかけたところを蔵ノ介に助け起こしてもらっている最中を見たようで、後は彼女の中で普段の蔵ノ介のモテ具合と余計な妄想が複雑に絡み合った結果、越前リョーマ許すまじ、という境地にいたったとのことであった。
「俺としてはアンタと白石さんがデキてるって方が驚きだったけどね。」
「何や、コシマエまでそんなこと言うんか〜。皆言うけど何でやねん、めっちゃお似合いのアベックやっちゅーに。」
「自分で言うなよ。」
「甘いでコシマエ!そこは『何がアベックや、古いわ!』ってツッコミつつボケ倒さな〜!」
「うん、サヨナラ。」
そう言いつつ立ち上がりかけたリョーマに金太郎がぎょっとして大手を振った。
「ちょ、ちょ、待ちぃやコシマエ!冷たいやっちゃな〜!」
「そういうテンション、ぶっちゃけ無理だから。」
「んなこと言うて、こっそり白石んとこ行く気やろ!」
「はあ?まだ疑ってんの、いい加減にしてくんない。」
結局金太郎に腕を掴まれ、元の座席に座らされたものの、金太郎の疑り深い物言いに呆れ果ててリョーマは彼女へ向き直った。するとじろじろとリョーマを見つめていた金太郎の瞳が不意に、にやっ、と細まり、誰が見ても何か一物企んでいる顔つきにリョーマは急速に顔を険しく歪めた。
「せやったらちゃうってことをショーメイせんとなあ。」
「……何。」
「コシマエ、ニブちんやな〜、コイバナしょーっちゅーてんねやろ。」
ウチだけ好きな人教えとんのシャクやし!とリョーマの左腕をがっちりホールドしたまま、金太郎がウキウキと目を輝かせ始める。一方のリョーマはやはり碌なことを言わなかった、とがっくり肩を落とし、そのついでに腕が抜けないかと少し試してもみたのだが、さすがセンターコートを使用不能にするだけの怪力少女だけあって、締め付けは緩みもしない。呆然と掴まれた腕を見つめ、とうとう観念したようなため息をリョーマがつくと、待ってましたと言わんばかりに金太郎がリョーマの顔を覗き込んできた。
「そんで、コシマエは好きな人とかおんの?」
「何でアンタとコイバナしなきゃいけないか分かんないんだけど。」
「ええやんけ、あんま同い年くらいでこういう話できるヤツおらんのやもん。」
リョーマの質問にぷーっと頬を膨らませて答えた金太郎は、確かに不満そうな顔をしていて、ふとリョーマは四天宝寺中の人々を思い返した。金太郎以外に女子は当然おらず、そう言えばグレーゾーンの人は一人くらいいた気がするが、その人も金太郎よりは年上だ。それに加え、先ほどの金太郎の嘆きから知れるように、蔵ノ介は相当モテる人のようだし、金太郎はそんな彼と比べると、お世辞にもつりあっているとは言い難い。きっと普段、彼女の周りは敵まみれなのだろう。それは少しだけ可愛そうな気もする。
しかしそれよりリョーマの気持ちを動かしたのは、金太郎との一球勝負でもらえた爽快感だった。本当に鬱屈としていた気持ちだったのが、破天荒な金太郎のテニスについていくのに必死で今のいままですっかり吹き飛んでいたのだ。そんな気持ちの良いテニスができたのはあまりに久方ぶりで、そのことを思うと、別段金太郎にそのような意図があったわけではないが、僅かばかりは報いてやりたい感謝の念のようなものがリョーマの中に湧いていた。そこで、恥ずかしさで渋々、といった感は満々と湛えていたが、リョーマは帽子の鍔を目深く引っ張ってぼそりと呟いた。
「好きな人はいるけど……。」
前かがみでセンターコートの処理を見つめていた金太郎の背中がぴくりと動いたのがリョーマには見えた。そのまま、そろりと振り向いた金太郎の頬は少し紅潮していて、見ている自分の方が恥ずかしくなったリョーマは不機嫌に背もたれへ身体を引っ込めた。もちろん金太郎は大喜びでリョーマに詰め寄り、さらに詳しいことを尋ね倒した。
「誰?誰?コシマエも自分とこのブチョ―やったりするん?」
「絶対違う。」
「ほな誰?青学の人?」
「いや……他校の……。」
「おおー!エンレンっちゅーやつか?」
「そこまで遠くないけど……。」
「どこ?どこ?」
「……神奈川の、り、立海大付属中……。」
「お、それ白石が言うてためっちゃ強いとこちゃうか?」
「去年の優勝校じゃん……。」
「せや、せや!なーなー、どんな人?歳は?カッコエエ?」
「どんなって……えっと……今、三年で……。」
「背高い?」
「…うん、すっごい高い。ていうかデカい。」
「顔は?」
「……まあまあ、悪くないけど、……うーん。」
「なんやねん。」
「…怖い?」
「怖いんかい!どないやねん!」
「俺は別に怖くないけど…皆は怖いみたい。」
「何や目つき悪そーやな。」
「悪いね。」
「ええやん、コシマエとお似合いやん。」
「ちょっと、それどういう意味。」
「性格は?」
「……怖いよ。」
「そっちも怖いんかい!」
「すぐ怒るからね。馬鹿みたいに真面目だから、嘘とか絶対許してくんないの。」
「うえー、ウチ無理やわー。」
「だろうね。俺だってそういうの嫌なことあるけど、でも、あの人が正しくない、とはあんま、思わないし。」
「ふーん。」
「実は全部優しいから、かな。」
「怒るのに?」
「怒るから。」
へえ、と感慨深そうな相槌を打って、金太郎はリョーマから目を離した。最初たどたどしかったリョーマの語りはすっかり落ち着いたものになっていて、微笑しながらある人について話してくれるリョーマは眩いほど綺麗に見えた。それを目の当たりにした感動と腹いっぱいの気持ちをふうっと大きなため息に込めた後、金太郎はニッと笑ってリョーマを振り返った。
「へへ、コシマエ、むっちゃ好きやねんな、その人のこと。」
金太郎の満面の笑顔がそう告げると、リョーマは顔を赤くしたが、同時に軽い衝撃に酔わされた。小さな早鐘を身体の中に感じたのは、初めて他人から自分が彼をとても好いているのだ、という事実を聞かされたのがとても新鮮だったからだ。改めて言われてみると納得する、というのがよくあることであるように、リョーマは自分の中の想いがもう誰から見ても明白であることをひしひしと思い知った。
すると急に色々な感情が噴き出してくるのを止めるのは難しかった。慌てて帽子の前唾を握ったが、その挙動が焦っていたためにすぐ金太郎にどうしたのか、と聞かれてしまう。答えることは出来なかった。答えるには声がもう出ないくらい帽子の下でリョーマは涙をあふれさせていたのだ。
リョーマの肩が震えだすと、勘の鋭い金太郎はあっさり彼女の様子に気づいてしまった。困って慌ててリョーマの背をそっと摩ってやったものの、優しくされるともっと泣くのを我慢できないリョーマは椅子の上で膝を抱え込み、とうとうそこに顔をうずめてしまった。その様に金太郎は慌てたが、側に人がいる安心感でむしろ少しだけ落ち着いたリョーマは顔こそ上げなかったが、ぽつぽつと何故泣いてしまうのか、金太郎に訳を話し始めた。
「ごめん、おれ、すきなんだ、ほんと、あのひとのこと、すっごい。だけど。」
「けど…なんや?」
口を開いたリョーマにほっとして、再びそろそろとリョーマの背を撫でながら金太郎が彼女へぴったり身を寄せて尋ねる。ごく、と喉を鳴らしたリョーマは、はあ、と熱っぽい息を辛そうに吐いてから、また言葉を紡いだ。
「も、フラれたみたい、な、もんだし、ほかに、さ、あのひとを、すきな、ひと、が、いる。」
リョーマの弱音に仰天したのは金太郎だった。彼女の辞書に、自分の想い人を好きな人間が他にいるから身を引く、という選択肢が存在しなかったからだ。憤慨して金太郎は、ぐっと拳を握った。それからリョーマを鼓舞しようとした彼女であったが、その矢先、リョーマの背がもぞりと動いた。金太郎が、はっ、とするとリョーマが少しだけ顔を上げていた。すん、と鼻を鳴らした彼女は、つん、と唇を突き出している。実に不服そうな顔だ。
「でも、やっぱ、ヤダ。あげたくない。あの人は、俺のだもん。俺のこと好きじゃないなら、話、別だけど、多分。」
多分、まだ好きでいてくれるずだ、と思う。
そうでなければ、花火大会のあの夜、疑心の目を向けたあとでも尚、彼がリョーマをあんな風に抱きしめたはずがないのだ。もし、もしもあのとき、悲しみも手放して彼を受け入れていたら、そうしたら。
「…………。」
「……どないしたん、コシマエ、むっちゃ顔赤いで。」
つい、思考があられもない方に向いてしまった。金太郎にじろじろと覗きこまれた顔を両手で挟みこむようにして、リョーマはずるずると俯いた。
「いい……ほっといて。」
体内で沸いた熱を追い出すように、リョーマはゆっくり、じっくり息を吐いた。相変わらず掌で感じる頬の熱は高いのだが、火照って考えを鈍らせている場合ではなかった。むしろ事は急がれる。ぺちん、と頬を叩くとピリピリした痛みが小さく弾けて、まるで恋をしたばかりのようだ。目が覚める思いがした。
リョーマの奇行の一部始終を見つめていた金太郎は、突然、よし、と呟いてしっかり背筋を伸ばした彼女にまた目を丸くした。変わった女の子だなあ、とは思っていたが、傍で見ているとますますそういう認識が金太郎の中で深まっていく。けれど両手の拳にぎゅっと力を込めた、そのときのリョーマの横顔は最初に見たときよりも生気に満ちていた。きっとこれから彼女が何事かしでかすのだろうというの雰囲気が容易に感じ取れた。それゆえに微かにドキドキと高鳴っている胸に何気なく手を置いて、金太郎はリョーマの言葉を待った。リョーマもそんな金太郎の期待の眼差しに気付き、また少し赤らんだ頬で、苦笑とも取れるような微かな笑顔を彼女へ返した。
「とりあえず、そろそろサシで決着つけなきゃ、かな。」
やや厳しく遠くを見据えるような目をしたリョーマの中で、海端を走る列車に逃げ込む直前に見た、県道の脇に突っ立っている二つの影がはっきりと蘇っていた。二つと判別するのも難しいような人影だったが、誰と誰の影か知っている限りあれは二人の人が寄り添っていたものでしかない。ぐっと抱き寄せられた細い影が大きな影に沈んでいくまで、数瞬だったろうに、長い悪夢がいつまでも終わらないかのような気がした。
けれどこれも、目を逸らしてはならない類のものだ。証拠にその数瞬が一体どれほど多くのことをリョーマに教えたことか。例えるならこれは三角形の気持ち。自分はその一角だ。余った一角になってしまったときの惨めな気持ちとか、二角が引き合って一点になってしまったら自分が角でなくなってしまう恐怖とか、彼と二人きりの世界に閉じこもっていたときには知りえるはずもなかった新しい不安を教えられた。けれどなかなか苛烈なこの出来事で、自覚も生まれた。自分は真田弦一郎という人が好きだ。そして彼が望まない限り、何があっても、何をしても、誰にも彼を渡したくない。そんな攻撃的な感情も抱くことが出来る、自分はそういう人間だったのだ。しかし決して不思議なことではない。換言すれば、テニスで誰にも負けたくないと思うのと似ているからだ。ずっと自分を弱い人間だと思っていた。でも、案外そうでもないのかもしれない。
金太郎へ微笑んだ理由は、つまりそういうことだった。
意外と座り心地の良かった観覧席からリョーマはひょいと立ちあがった。金太郎も何故だか一緒に立ち上がるので、リョーマがそちらへ目をやると、彼女はひどく息まいていて、頬っぺたは真っ赤だった。
「なんや分からんけど面白そうやんけ!ウチも手伝ったるわ!」
飛びつくようにリョーマの肩を掴んでくる金太郎に目を見張った。先ほどのリョーマの言葉をケンカ、とでも受け取ったのだろうか。あながち間違っていないのだが、手伝ってもらうようなタイプのケンカではないし、何より恐ろしいのは未だに放してもらえていない腕に籠る力だ。
「うおおおお!行くで、コシマエ!」
「ちょ、ま、待てって……遠山ぁ!」
前にもこんなことがあった気がする。顔なじみのパワフルな少女に、放課後突然誘拐されたり、軟禁から連れ出されたり、デジャヴというやつだろうか。しかし今回ばかりはどんなに本気を出しても逃れられない。何せ握力が違う。脚力も桁外れだ。いっそ重力を突破する感じさえする衝撃にリョーマの顎が、ガクン、と仰け反る。咄嗟に掴んだおかげでいつものキャップは吹き飛ばずにすんだが、辛うじて振り返って見た飲みかけのジュースの缶は遥か後方を舞い、中身が盛大に飛び散っている最中だった。
きらきら光るそれは、少しだけ、きれいだった。


――――――

BGMはYAH!YAH!YAH!がいい感じですね。



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